6.ユタカの旋律1
ふと窓の外を見ると、雪が降っていた。緩やかな速度ではあるが量は多く、この分ならしばらくすれば積もるに違いない。東京で雪が降るのは、恐らく今年初めてのことだろう。
一体いつの間に降り出したのか、と僕は考えて、その思考の無意味さに僕は笑ってしまった。一体いつから、なんて誰にも分かることじゃない。不意に降り出し、不意に止み、不意に溶けていく。僕だって同じだ。
僕は立ち上がり、勉強机の明りを消して、部屋を出ようとドアへと向かった。気がつけば分厚い本の群れによって占領された本棚に少しばかりの埃が積もっている。そういえば最近触れていないなと思い、テッシュに手を伸ばしかけたが、やめた。拭うべきなのかもしれないけれど、僕はそのままにして、何も持たずに部屋を出た。
玄関を抜け外に出ると、すぐさま冷たい冷気が体を包んだ。コートを羽織った体は温かいが、しかし肌が露出している手や顔や耳はひどく寒い。ポケットに両手を突っ込み、服をぎゅっと内側に寄せる。髪に触れて溶ける雪を無視して、僕はゆっくりとした足取りで歩き出す。
街は賑やかで、車の通りもいつも通りだった。人々は忙しなく行き交い、互いを障害物に見立ててその間をすり抜けていく。改札は多くの人を飲み込み、吐き出し、電車の轟音と共に人々の生活リズムを固定させてしまう。枯れ木の細い枝に雪が積もり、人々の靴は雪に汚れを残していく。人工の光に満ちたビル群は天高く伸び、切り取った空の一部分を僕らに見せる。
不意に、クラクションの音が聞こえた。誰かの怒声が響き、周りは何も知らないという顔で歩き去っていく。信号待ちの為向かい合う人々は群衆のようでいて、個々に視点を合わせれば他の全てが背景のように映る。僕の横や後ろにいる人々が、景色の一部に同化して見える。そして僕自身も、風景の一部だ。
信号が青に変わり、皆が歩いていく。僕も邪魔にならぬよう、自分のスペースを奪われぬよう、歩調を合わせて進む。しんしんと降り積もる雪が雫になり、僕の頬を伝っていく。細い道に入った途端、排気ガスで噎せ返りそうな空気から生暖かい油の匂いが強くなる。
僕は若干の吐き気を覚え、足早に道を歩いた。東京に来てから一年程経つ。しかし未だに空気の汚さには、慣れることが出来ずにいる。
僕は道を適当に歩き、サラリーマンが多く並んでいるラーメン店や大きな本屋、日用雑貨店などと共に薄汚れたゲームセンターやキャバクラなどが影で巣くっている町並みを通り過ぎた。少し角を曲がるだけで、世界は様子を変える。色鮮やかさにも、薄汚さにも、様々な光り方が映える。
やがて住宅が多くなった頃になってようやく呼吸を整えることが出来、僕は飲み物を飲もうと自動販売機に近づいた。
その時ふとあの日々のことを思い出したが、すぐさま掻き消し、僕は飲み物の列を見つめた。だがその列の中にあの日買ったジュースがあることに気がつき、僕はもう思考を追いやることさえも出来なくなり、ただそのジュースを眺め続けた。
あの時は夏で、そして今は冬だ。まだ彼女とずっといられると思っていた頃に、彼女が言っていた言葉を思い出した。
「雪なんて降らなかった」
音楽室の窓から校庭を眺めていた彼女はそう呟き、カーテンを勢いよく閉めた。きつく閉めすぎた為に反動で若干開かれたカーテンの隙間から、寒い夜が覗いて見えた。空気がぴんと張り詰めた世界には、ただ真っ黒い空間が広がっていた。
「雪なんて降らないじゃない。ニュースの嘘つき」
ひっそりと静まり返った校舎の中で彼女の声だけがよく聞こえた。音楽室はひどく暖かく、そしてやけに明るく、外の世界とは対照的だった。
そんな中で彼女はセーターとコートを羽織り、見ているこっちが暑くなるぐらいぎゅっと服の裾を内側へと引っ張り込んでいた。
「寒いだけの冬は嫌い」
「でも雪は好きなんだろ?」
「そう。だから雪が全然降らない街は嫌い」
でも今、雪は僕の目の前で降っている。積もりそうなぐらいの量がこの東京という街を包み込んでいる。彼女の側にまだ僕がいた頃には、あるいはあの街には、すぐに溶けてしまうほどにしか降らなかったのに、今は僕の眼前でこんなにも降り注いでいる。
僕は空を睨みつけるようにして見上げた。白く濁った光が蔓延る空には、無数の鳥が羽ばたいていた。その鳥はこんな町並みの上でもするすると通り抜け、彼方へと飛翔していく。何の障害も無い空を、ただ遠くへと飛んでいく。
不意に泣きそうになった。けれどぐっと堪え、僕は大学への道を再び歩き出した。
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