5.ほのかの旋律5

 彼女達の姿が消えてから、僕らは急いで駐輪場の方へ行った。駐輪場をくまなく見て回り、無いことを確認すると、後は適当に探し回るだけだった。

 とりあえず指差した方向を適当に僕らは走り回った。死角になりそうなところやゴミ捨て場を重点的に調べた。時間は刻々と過ぎ、夕暮れが始まり、光が徐々に失われていく。けれど、見つからなかった。

 もしかして、ハメられたのだろうか。本当はあの子も凄い性格悪くて、本当は優しいなんていうフリをして僕らを騙したのだろうか。

 そんな風に思いかけた頃、彼女から携帯に電話がかかってきた。


「見つかった」

「どこに?」

「大通りの横にある駐車場の隅。ずっと止まってる車があるでしょう? そこの死角に」

「なるほどな」

「よかった……本当に」

「……だな。よかったな、寺内。これで、大丈夫だよな」


 僕はホッとし、彼女の言葉からも安堵の響きが伝わってきた。彼女にとって本当に大切であるという事実だけが、僕の中に何の障害も無く広がった。

 僕らは合流し、彼女のヴァイオリンがしっかりとあることを確かめ合い、ふっと表情を緩めた。それから荷物を置きっぱなしにしていた為、学校への道をゆっくりと歩き始めた。

 もう夜が来ていて、辺りは静けさに満ちており、遠くで電車の過ぎる音と光が速度と共に遠くへと伸びていた。真っ暗な空の下でかつかつと足音を立てるのは、やはり僕達だけだ。いつもの学校帰りのように、世界にいるのは僕達だけのような、そんな瞬間の連続の中を過ぎていく。

 彼女はケースを持ちながら、いつものようにステップを踏んだ。僕はその横を普通に歩いていた。不意に彼女がケースを見つめて立ち止まった。


「どうした?」


 僕が尋ねると、彼女は神妙な面持ちでケースをとんとんと叩いた。


「確かにヴァイオリンはあった。でも、ちゃんと音出るかなと思って……」

「なら、弾いてみればいいんじゃないか?」


 僕の言葉に彼女は目を丸くし、視線をこちらへと向けた。


「正気?」

「まあ、いちおう」

「ここで弾けと? こんな公共の場で?」


 公共の場というのに僕は思わず噴出しそうになったが、彼女があまりにも真剣な様子だったので堪えた。

 僕は近くにあった自動販売機でジュースを買い、それからすぐ横にある、歩道と車道とを分ける長い石段に座った。それから缶の蓋を開け、ジュースを一口飲み、彼女に向けてジュースを軽く揺らした。


「大丈夫、ほら、誰もいないじゃん。まだ夜遅くってほどでもないしさ、近所迷惑にもならないだろ」

「でも……」


 彼女は少し迷っていたようだが、やがて意を決したように僕の方へと近づいてきて、僕の飲んでいたジュースをぐいっと飲んだ。


「あ、おい……」


 柔らかな吐息を缶に落とし、彼女の細い指がぎゅっと缶を握り締めた。伏し目で瞬きをする様子も缶の底に書いてある文字も前髪が小さく揺れる様も、その一瞬を瞳が記憶し、僕の脳裏に刻まれる。いつだって不意に世界が鮮やかに映る時がある。彼女が視界の中心にいるとき、それは訪れることが多い。


「ふぅ……じゃあ演奏、するね」


 彼女はケースを開き、ヴァイオリンを首に当てた。それから弓を持って、ゆっくりと曲を弾き始めた。

 いつもの曲だ。柔らかく、切なく、美しさに満ちている。静けさを引き立てつつも、その音の魅力を損なわない。周りとの調和を保ち、個々の響きを描いている。彼女の好きな、美しい世界――。

 僕は空を見上げ、漆黒の闇を見つめた。星も月もやはり無く、彼方にはビル群が見えるだけだ。それでも、街灯の光は道を照らし、自動販売機から溢れる光が彼女を包んでいる。彼女の横顔を照らし、地面に色濃い影を描いている。

 目を瞑り、長い睫毛をたまにぴくりと動かし、彼女は丁寧に弾いている。一音一音を確かめるように耳を澄まし、感触に全身を委ねている。

 ふっと自分の体を離れ、全てが彼女にいってしまうのを僕は感じた。彼女から見た何かが僕の見た何かになり、彼女の感じる何かを僕も感じようとしていた。

 世界の中心。

 僕は、いつもすぐ側にいる。

 演奏は、本当はもっとずっと長く続くはずなのに、彼女はキリのいいところで止めてしまった。僕が黙って彼女を見ていると、彼女は頬を赤らめ唇を尖らせた。


「恥ずかしいじゃない、ずっと弾いてるの。だから、もう止め」


 僕は苦笑し、そうだなと言って立ち上がった。ジュースをぐいっと飲み干し、帰るかと促した。


「うん……」


 彼女はヴァイオリンをケースに入れ、ぎゅっと抱きしめるようにして持ち抱えた。それから僕の横に並んで、小さく笑った。


「ありがとう、ユタカ」

「……何だよ、いきなり」

「ユタカがいなかったら、たぶんヴァイオリン見つけられなかったから」


 そんなことない、と僕は言いたかった。けれどそうすると強がっている子供みたいに思えて、僕は言葉を飲み込んだ。どういたしましてと言えるほど、大人でも無かった。

 代わりに僕は、少し遠くにある街灯を見つめながら、彼女に言葉を送った。


「コンクール、頑張れよ」

「うん」

「ほのかの旋律は、本当に綺麗なんだ。ただの音楽なんかじゃなくてさ、生活の実感みたいなのが広がるんだよ。だから僕は、ほのかのヴァイオリン好きだ。皆も、きっと気に入ってくれると思う。これからずっと、色んな人がきっと、気に入ってくれると思う」

「……うん」


 僕は歩き始めた。学校に帰って、荷物を持って、また昨日と同じようにゆっくり帰ろうと思った。そうやってずっといられると、当たり前のように信じられることが、正しいことなんだとも思っていた。

 数歩歩いたところで、僕は違和感に気づいた。足音が、たんたんたんと、規則的だ。彼女の軽やかで不規則なステップが、聞こえない。

 僕は振り向いて彼女を見た。彼女はぎゅっとケースを抱えたままだ。微かに俯いて、自動販売機の横で静かに佇んでいた。影が長くくっきりと伸びていて、ふっと小さな風が遊ぶように軽く吹いた。それで彼女の前髪は小さく揺れ、彼女がぎゅっと唇を噛んでいるのが僕の目に映ってしまった。


「……ほのか?」


 僕は彼女の名前を呟いた。彼女の中の何かが揺れている気がした。いつもより強く、激しく、揺さぶられている気がした。


「違うの」

「え?」

「違うのよ……」


 彼女の瞳から涙が流れ、頬を伝った。細かく震える体を抑え込むように彼女はケースを抱く力を込める。それがあまりにも儚く、自動販売機の光によって一層映えて見えた。


「そうじゃないの」

「……何がだ?」

「私が望んでるのはきっと、そういうことじゃないのよ……」


 僕は呆然と立ち尽くす。近づくことも出来ず、遠ざかることも出来ず、彼女を見つめ続けることしか出来ない。

 何かを強く堪えようとしている彼女の言葉を、ちゃんと理解出来るまで、聞いていることしか出来ない。


「私はね、色んな人に聞いて欲しいわけじゃないの。賞を取りたいわけでもないの。そういうことの為に、ヴァイオリンを弾いているんじゃないの」

「……」

「ねえ、ユタカ? どうしてユタカはそんなにも優しいんだろ? 私、ずっと考えてたのよ。どうやったらこの日常から自然と離れられるんだろうって」

「……ほのか」

「ずっと考えてた。どうやったら誰かの心にずっと残れる演奏が出来るんだろうって。綺麗じゃなくても、美しくなくてもいいの。汚くたって、優美さなんて欠片もなくったっていいのよ。誰か一人でも、その人の心にずっと残る演奏が出来れば、それで……」


 訳が分からなかった。彼女がそこまで思う理由が見当つかなかった。

 友達とか、家庭とか、過去とか、未来とか、日常とか。

 僕の頭に浮かぶ何らかの理由はそういったものでしか無く、全て彼女の言葉と結びつきそうにないものばかりだった。


「なあ、ほのか」


 彼女の涙がゆっくりと落ちていく。掌に落ち、ケースの表面を撫で、滴る。彼女のスカートから伸びる細い足と小さな革靴に当たって弾ける。


「……何?」

「お母さんのこと気にしてんのか? もしそうなら……」

「違うよ」


 彼女は首を横に振った。だったら何なんだと叫びだしたいのを堪えて、僕は息を飲み込んだ。

 彼女は顔をあげ、髪を払い、真っ直ぐに僕を見た。その瞳の奥で、揺れていた何かが固定された。本当は、彼女はずっとそれを、揺らしていたかったのかもしれない。彼女の寂しげな眼差しから、そんな風に僕は思った。


「ねえ、ユタカ」


 彼女が言葉にしようとしている。僕は身動ぎひとつ出来ず、ただ待っている。

 長い沈黙が響いた。静かな静寂の中、不意に電車が遠くで通り過ぎた。光が僕の背中に当たり、影が小さく伸びる。うるさい音がずっと響き、余韻を残し、遠ざかっていく。

 そして彼女がゆっくりと、口を開いた。


「私ね、これが最後なのよ――」

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