4.ほのかの旋律4

 周りの視線に追い出されるようにして、彼女は素早い動きで教室を出て行った。すると視線は自然と僕に向けられたが、僕は構うことなくゆっくりと歩いて教室を出た。それから一度呼吸を整え、気持ちを落ち着けてから廊下を蹴った。

 ひとまずは、一番下まで下りた。一階一階を見て回ろうというのもあったし、もし誰かが持ち出したのなら、すれ違うかもしれない。上から順に下りていくよりは、下から順に上っていったほうが多少は遭遇率もあがるだろう。皆これから帰るのだから、下りるに決まっている。

 僕はひとつの階にある教室の中を全て見て、それらしきものがないかを確認し、適当に見知った顔を見つけては尋ねてみた。また同学年のクラスには特に注意を向けて見回った。彼女は上下の学年に知り合いがほぼいないし、取った可能性があるのなら同学年かなとも思うからだ。

 しかし、なかなか彼女のヴァイオリンを見つけ出すことは出来なかった。そういった大きなものも、教室には見かけられなかった。

 やがて五階に至り、僕は他の教室を見て回ってから、音楽室をスルーして屋上へと行った。音楽室を知り尽くしている彼女が無いというのだから無いだろう。小さなものと違ってヴァイオリンは大きいのだから、見過ごしたりはしまい。

 屋上の重く古めかしい鉄の扉を開くと、悲鳴にも似た鈍い音が響いた。少しだけ外の暑苦しい風が校内へと流れ込み、やがて空気がひとつになっていく。

 僕はゆっくりと歩き出し、屋上を見回した。しかしヴァイオリンどころか、人の姿自体見当たらない。昼休みになると男女のペアで活気に溢れているのだが、放課後になれば外に出て行くカップルが多いからだろう。やけにひっそりとしていて、校門へと歩いていく生徒達の声が遠く聞こえる。

 僕はふらふらと歩き出し、それから校門側を見渡せるフェンスをぎゅっと掴んだ。彼方まで広がる町並みは徐々に高層ビルに支配され、無数の塔が空を目指し伸びている。その様は圧倒的でもあり、同時にひどくつまらないものでもあった。空の一角を切り崩す塔の隙間からしか、今はもう、沈みゆく夕陽は見られない。

 僕は視線を徐々に校門の方へと下げ、帰っていく生徒の群れを見つめた。手に持っているものを見つめ、次々に視線を移していった。


「……だめだ」


 見つからない。

 やはり既にヴァイオリンはどこかへ持ち出されてしまったのだろうか。

 彼女が大切にしていたお気に入りのペンは、焼却炉に捨ててあった。彼女の靴は公園の隅に置かれていたし、細かなものは駅までの道の途中にあるゴミ捨て場に置かれていた。それと同じでもう、彼女のヴァイオリンはどこか別のところに捨ててしまわれているのだろうか。


「……」


 僕は生徒の流れを見つめていた。そういった悪意が、この笑いの絶えない声のどこかに潜んでいる。それが少し、怖く感じられた。

 もう一度だけ、校舎を探してみよう。そう思い、僕はフェンスから手を離した。

 校舎を探し終えたなら、嫌なことでもあるけれど、焼却炉や公園、ゴミ捨て場を見に行ってみよう。見つからないよりはきっと、マシなはずだ。

 そう思って踵を返そうとした瞬間、視界にあるものがとまった。

 僕は再びフェンスを、がしゃんと音が立つぐらいに掴み、その先にあるものを見つめた。金網によって区切られた視界を狭めて、その一区域より先だけに目をやる。緑のフレームの向こう、三人の女子生徒に激しい動作で話しかけているほのかの姿があった。

 僕は急いで屋上を出て、何段も何段も階段を飛ばして通り過ぎ、足の裏が痛くて痺れるぐらいになってから一階へと辿り着いた。それからすぐさま校舎を出て、旧校舎前にいるほのかの下へと駆け寄った。


「寺内!」

「ユタカ……」


 彼女は一瞬目を見開いたが、すぐさま三人組の女子生徒に向き直った。女子生徒は僕を見て嘲りを隠そうともしない笑みを浮かべ、じろじろと嘗め回すように視線を動かした。

 同学年の女子生徒だ。特進クラスの三人で、頭はいいが性格は悪いと評判の連中だった。二人は髪が長く茶色に染めていて、アクセサリーもところどころにつけている。基本的に主犯格はこいつらで、もう一人があれこれやらされている、という話だった。言われてみれば、残りの一人は髪も染めてなくさっぱりと短く切っていて、じゃらじゃらと音の鳴りそうなものはひとつもつけてなく、少しだけおどおどとした表情をしていた。


「この人達が昼休みにヴァイオリンケースを持ってたって話を聞いたのよ。なのにこいつら、しらばってくれて、そんなもの知らないって!」


 ほのかは強く責め立てるように言ったが、彼女達はただただ薄ら笑いを浮かべ続けるだけだった。


「知らないもんは知らないんだし、しゃあないじゃない? あたしらがヴァイオリンを持ってたっていう証拠もないんだし、そんなことであれこれ言われて、正直あたしらも迷惑してるんだよねえ……」

「あんた、この子の彼氏?」


 一人だけ髪の短い女子生徒が僕を見て、慣れていないのだろう、ぎこちない口調でそんなことを聞いてきた。

 僕は少し躊躇ったが、みたいなもんだよ、とだけ答えた。ほのかの体が一瞬細かく震えるのが視界に映ったが、気づかぬフリをした。


「そう。じゃあ頑張って。二人いればなんとかなるでしょ? 天才なんだから、自分のヴァイオリンの場所ぐらい分かるよねえ?」


 髪の長い女子生徒二人が哄笑した。もう一人の女子生徒は哀れみにも似た視線を僕らに向けた。


「そんなこと……」


 ほのかはぎゅっと唇を結び、溢れ出しそうな言葉を息と共に留めていた。僕はもうこれ以上こいつらと話していても無意味だと悟り、彼女の手を引いた。


「ユタカ?」

「意味ねえだろ、こんなの。どっかにあるのは分かったんだ。探してればそのうち見つかるさ」


 彼女は少し黙っていたが、やがて大きく息を吐き出し、それから小さく頷いた。

 僕は彼女の手を引いたまま新校舎の方へと歩き出し、ある程度行ってから三人組に対して振り返った。

 彼女達は校門の方へと既に遠ざかっていて、髪の黒い女の子だけが僕らの方を見て、指先を校門から出て左にある駐輪場の方へと伸ばしていた。たぶん、そっちの方にヴァイオリンがあるということだろう。


「あいつ、ただこき使われてるだけなんだな……」


 僕がそう呟くと、彼女は低い声で平坦な言葉を返した。


「だからって、許されるわけでもないのにね……」


 僕は、何も言わなかった。分かるようでもあり、それだけでもない気がした。

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