3.ほのかの旋律3

 試験の点数が間違ってないかを自分達で確認して、解説を聞いて、再び今までの授業の続きへと戻る。昼過ぎの授業は眠気が強く、そういう授業に限って寝ているとすぐ叩き起こされる。だから僕は窓の外をぼんやりと見つめ、ひとつ隣の教室にいる彼女が同じようにそうしている様を想像する。

 コンクールまで、後三日を切った。もうすぐという感覚が、胸の内で少しだけ昂った。

 コンクールは丁度夏休み前にある為、期末試験の後に開かれることになる。練習は毎日やっているし、コンクールの結果よりも、彼女と一緒にヴァイオリンを弾き同じコンクールに出るということに意味があるのだから、僕にとって問題なのは期末試験の方だった。

 もし期末試験が赤点で、中間テストの結果と足して八十を超えなかったなら、夏休みを一週間削る地獄の補習が待っている。僕としては、それは絶対に避けたいことだった。

 だが結果はいちおうに大丈夫だったようで、成績は悪く無かった。

 ふっと安心が広がると眠気がまた強くなり、僕は閉じそうになる瞼を校庭へと向けた。

 校庭にはグラウンドと大きな木が一本あり、その木は地に広い陽だまりを描いている。光と影を揺らめかせながら、地に力強く根を張っている。雲ひとつ無い青い空からの光を受け、葉の緑を透かして地面に淡い色を残している。

 一度だけ、彼女があの木の下でヴァイオリンを弾いたことがあった。丁度彼女が賞を取らなくなる直前のことだった。

 唐突に朝早く僕を呼び出して、まだ誰もいない校庭のその木の下で、彼女はすっとヴァイオリンを顎に当てた。それから弓を持ち上げ、曲を弾き始めた。

 曲名は、わからない。

 ただ何度も彼女が弾いている曲で、彼女のお気に入りだということだけは分かっていた。

 ゆるやかな、柔らかい曲調の旋律だ。切なさや空虚さが薄く滲み出て、それを包むように美しさが広がる。一音が長く響き、余韻が残り、その余韻を抱えて次の一音が響く。

 今日みたいな、温かな日差しのある日のことだった。陽だまりがまだ冷たい地面を温め、朝の匂いが強く香っていた。その中心に彼女がいて、光と影を浴びながら、彼女の好きな曲を弾いていた。それが堪らなく美しくて、また堪らなく惹かれた。

 それまで僕は彼女に対する気持ちをはっきりと自覚してはいなかった。わかってはいたのだけれど、ただ漠然と捉えるばかりで、自分の中の感情を言葉に変えたりどうしようもない気持ちに名前をつけたり、形にして掴もうとはしていなかった。

 けれどその瞬間、僕にとって世界の中心は彼女になった。今まで僕中心で流れていたかのように見えた世界が、乗っ取られてしまったかのように、彼女中心になってしまった気がした。

 人を好きになるってこういうことなんだ、なんてくだらないことを考えながら、僕は彼女と彼女の奏でる音に全身の注意を向けていた。


「起立、礼」


 ふと気がつくと、全員が立ち上がって礼をしていた。授業終了だ。慌てて立ち上がり、同じように礼をした。

 しばらく取り留めの無い話を友達としていると、すぐさまホームルームが始まった。内容は終業式についてで、僕は話を聞きながら今まで机の中にずっと突っ込んでいた教科書類を全て鞄の中に詰め込んだ。終業式の日になって全荷物を持ち帰るのは一苦労というもので、先にある程度は持って帰るのが僕らの常識だった。

 やがてホームルームも終わり、僕は鞄の中から先に楽譜を出しておいて、音楽室へ行こうかと椅子から立ち上がった。もうコンクールまで日はないけれど、今まで通り急いたり考え込んだりせずに弾けるはずだ。彼女といる時、僕の音は止め処なく溢れる。そしてそんな僕と一緒に彼女が、真剣にヴァイオリンを弾いてくれればいいと思う。

 掃除の為に机を後ろへと下げようかと動き出したところで、不意に扉が勢いよく開かれた。まだ誰も出ようとはしていない。だから僕もクラスメイトも少し驚いた面持ちで開かれた扉を見つめ、荒い息と共に入ってきた女子生徒を見つめた。

 ほのかだった。

 周りの視線は彼女を捉えると、当たり前のように哀れみと嘲りの色を瞳に含ませた。彼女はそれに対して一瞬怯えにも似た感情を表出させたが、すぐさまキッと周りを睨みつけると、そそくさと僕の下へ寄ってきてとんとんと背中を叩いた。


「お願い、聞いて」


 彼女の言葉には、普段無い焦りが少しばかり感じられた。彼女がそんな風に慌てていることなどほとんど無かったし、用があるからといって僕の教室に入ってきたのも初めてのことだった。

 とても近くに彼女の小さな顔があった。輪郭は硬いが眼差しの柔らかい彼女の頬が、僕の首の辺りにある。

 僕は息を飲み、ゆっくりと言葉を吐き出した。


「どうしたの?」

「ヴァイオリンが無いの」

「え?」

「ヴァイオリンが置いといた場所にないの。いつも置いてある場所以外に置いとくはずがないのに。思い当たるところもちゃんと全部調べたのに、どこにもないのよ……」


 前にもそんなことがあった。彼女の靴が無くなっていたり、音楽室の備品がトイレにあったり、彼女の持ち物で無くなっても気づかないようなものが少しずつ消えていったこともあった。

 でも、今回はヴァイオリン――。

 彼女が大切にしているそれが無くなったのは、初めてのことだった。

 ……どうして、こんな時に。

 そんな思いを僕は、なんとか噛み殺した。


「音楽室に置いといたのか?」

「うん」


 彼女は胸のリボンの辺りをぎゅっと掴んだ。それから少し泣きそうな顔で、僕に言った。


「どうしよう、ユタカ。誰かに取られちゃったのかな? 前に取られたお気に入りのペンみたいに、どこかに捨ててあったりするのかな?」


 僕は彼女の瞳を見ていた。彼女は僕だけを見ていた。彼女の中心には僕がいて、僕の中心はいつだって彼女だった。

 彼女のことを想像する時、僕はいつだって胸に痛みを感じる。締め付けられ、ぎゅっと細まり、窮屈な中にぎっしりと何かが詰まっているのが感覚的に分かる。

 その気持ちが胸の辺りをすーっと駆け上がってきて、少しの眩暈を僕に感じさせた。


「わかった」


 僕は勢いよく机を教室の後方へと押し込み、彼女に対して頷いた。


「まだどうしてかはわからないけれど、とりあえず探してみよう。学校中探せば、見つかるかもしれない」

「うん……ありがとう、ユタカ」

「礼は見つかってから、だな」

「……そうね」


 彼女はふるふると首を横に振り、それから乱れた髪を整え、若干の冷静さを取り戻したようだった。

 少しの間深呼吸をしていたが、やがて僕を見て、しっかりとした口調で言った。


「私、旧校舎の方探してみる」

「わかった。じゃあ新校舎の方は探しておく。音楽室には絶対無いんだな?」

「うん、何回も何回も調べた。だから、絶対に無い」

「わかった」

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