7.涙のように落ちた

 こんこん、とノックの音がした。珍しい日もあるものだ。誰かが僕の部屋を訪れるなんてこと、同室の美奈以外、ほとんどありえなかったというのに。

 俺が出る、と言って神谷がそっと立ち上がった。ドアを開けると、そこにはパイロットスーツに身を纏った朝倉さんが立っていた。制服では無い彼女を見るのは、初めてな気がした。それと同時に、何かが決定的に壊れてしまった気がする。彼女の瞳に涙は無く、きつく結ばれた唇が緊張と恐怖を表しているだけだ。


「もう、いいのか?」


 神谷の問いかけに、彼女はこくりと頷いた。


「もうひとつの空に、行く」

「よおし、決まりだ。酒も後ちょっとだし、これでお開きとすっか」


 神谷は適当に身支度を済ませると、余った日本酒を自分で飲むように傾け、それからわざとらしく栓をしたままだったことに驚いて見せた。


「おおっと、これじゃ仕様がねえ。癪だが、お前にくれてやる」


 神谷は僕に日本酒を渡した。僕は戸惑った。どうしてだろう、と不思議に思った。


「君は何をしているのか、分かってる?」

「もちろん。俺には俺のしていること、したいこと、しようとしていること、全て分かる」


 自慢げに微笑みを強めた後、神谷は朝倉さんの手を取り、キスをした。


「さあて、いよいよおしまいとしようか。なあ、朝倉」


 彼女はこくりと頷いた。まるでそれしか返事の仕方を知らないかのように。

 僕は日本酒を胸に抱えたまま、朝倉さんの目を見た。彼女は避けるように顔を背けた。悲しくなって、質問をした。


「ねえ、海に行った日のこと、覚えてる?」


 彼女が押し黙っていると、神谷が片眉を釣り上げた。


「お前ら、そんなことしてたのか?」

「……してない。海に行ってなんか、ない」


 朝倉さんは掻き消えてしまいそうな声でそれだけ呟いた。僕はただ、そう、とだけ呟いた。そして着込んでいたパーカーのポケットからそっと銃を取り出し、二人に突きつけた。


「……何の真似だ?」


 神谷が微笑を浮かべ、呟く。焦りは無く、不安も無い。朝倉さんは微かに体を震わせている。何もかもに怯える目で僕を見つめ、ぎゅっと自分の左腕を右手で掴んでいる。真黒な美しい髪が光に照らされ、まるで濡れているかのように光る。


「自分でもよくわからない。ただ、僕は君達を空に行かす気は無い」

「どうしてだ?」

「僕が“死神”だからだ」

「へえ……やっぱりそうだったのか。で、何で俺達に銃を向ける? 佳孝は逃がした癖に」

「あいつのことは……どうでもいい」

「ほう! どうでもいい? そりゃまた凄い台詞が聞けたもんだ!」


 神谷は芝居がかった様子で両手を高々と振り上げた。朝倉さんの目に少しだけ涙が戻ってきた。けれど彼女は泣かない。いつも泣きそうだけれど、彼女が泣くことはあまり無い。

 僕は銃を向けたまま、押し殺した声でもう一度問う。壁紙の輪っかは本当はひとつで、僕の目の錯覚でいくつもに分裂しているように見える。


「ねえ、朝倉さん。海に行った日のこと、本当に覚えてないの?」


 彼女は数秒間、口を開かなかった。けれどやがて小さく、呟いた。


「……覚えてるっていう感じじゃないけど、知ってるよ」

「どうして本当のことを言ってくれなかったの?」

「言えるわけないよ……どんなに好きでも、美奈のこと裏切れないもん……!」

「君達は、どうして空に行けるのか、考えたことがある?」

「オーケイ、オーケイ! 何もかもが決定さ。そんなことどうでもいい話さ、君にとってさして重要なことじゃあない。ほら、早くしろよ。面倒くさいな。俺達は答えないよ、聞くまでも無いだろう? さあ――撃てよ!」


 神谷が薄気味悪く微笑を強め、唇を曲げ、声を荒げた瞬間、僕はトリガーを引いた。ダブルアクションのリボルバーは激鉄を起こし、素早く弾丸を放った。

 鮮血が散った。二人の小さな微笑みが印象的だった。二発の弾丸は確実に彼らの胸を貫き、二人の体は地に横たわった。どたん、と静けさに重たげな音が鳴り響いた。銃を握り損ない、落下させた。膝を落とし、僕は泣いた。美奈の時でも泣かなかった。けれど僕は泣き続けた。




 僕は、ようやく決意した。もうこれ以上、クローザーは必要無い。

 初めからクローザーは、僕一人だった。

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