2.誰かの夢
目を覚まし、顔を洗いに共同洗面所へと向かうと、神谷が入り口に立っていた。赤茶色の髪を今は下ろしていて、その前髪が顎にまで伸びている。タバコを吸い、僕を見て、唇の端を釣り上げ、煙を吐き出した。
「よう。また会っちまったな。もう会わないかと思ってたのに」
「……そうだね」
「なあ、お前、さっきの本気にしてるのか?」
「さっきのって?」
彼は宙に向けて煙を吐き出した。僕はその横を通り過ぎ、洗面所で顔を洗った。冷たい水の感触の向こう、鏡を見ると、無表情な僕がいる。時々自分の顔のように思えない時がある。
ピイィン。彼のイヤリングの音がした。けれどそれは彼が奏でたものなのか、僕の耳に残っていた残響なのか、僕にはよくわからなかった。
「海外はほぼ全滅。日本はよく残った方って話さ」
「……ああ」
「海外の情報なんて俺が知ってるわけないだろ。単なる予想だよ」
「……そう」
「お前、どうしてまだ生きてるんだ?」
不意の質問に、僕は彼の方を見た。彼は相変わらずタバコを口に銜えたまま、横目で僕を一瞥し、煙を出す。イヤリングが髪の隙間からきらきらと輝いて見える。蛍光灯の電気が切れかけていて点滅しているせいか、ネオン光のように映る。
「皆それぞれ、生きてる理由があっただろうよ。神様の選択前でも、選択後でも。生きている限りは、さ」
「……」
「どこで生まれて、どんな風に暮らして、どんな夢を見てたか――そんなことを聞くつもりはねえよ。俺達はここにいて、神様に選ばれなかった。それだけわかってりゃ十分だ。でも俺もお前も生きている。それは、どうしてだ?」
「どうして、か……」
僕は僕の顔を鏡で見て、それから僕の両手を見つめた。濡れた水と光のせいで少しだけ浮かび上がって見える。そして闇に堕ちていく。手が、冷たい。
「僕が、選ばれなかったから、かな」
「選ばれなかったから生きるのか?」
驚いたように僕を見る神谷に、僕は小さく頷く。
「……僕の恋人はね、選ばれたんだ」
「恋人がいたのか」
「朝目が覚めたら、彼女はいなくなっていた。彼女だけじゃない。友達も、家族も、僕のことを知っている人は誰もいなくなっていた」
「へえ……そりゃまた可哀想なこって」
「別に、大したことじゃない。……君は?」
神谷はタバコを床に落とすと、慣れた様子でそれを踏み潰した。そして手際良く火を揉み消すと、行くわ、といって片手をあげた。
「どこへ?」
「あいつのところ」
「どこにいるの?」
「俺の部屋」
「朝倉さんは……」
「誰の夢も見てないよ。シーツにくるまって、自分の為に泣いてる」
肝心な時にはいつだって、当たり前のことを当たり前のように、神谷は言う。
僕は軽く肩を竦める。
「ひとつ、言い忘れたんだけど」
「何だ?」
「海外には誰もいない。日本の、しかもこの地域にだけ多くの人が生き残ったと思う。……僕の勝手な予想」
彼は少し意外そうに僕の方を振り向いた後、小さく微笑んで立ち去っていった。ブーツの音が床に反響する。その細い背中を見つめ、僕は逆方向へと廊下を歩き出す。足音が離れていくと、また音が聞こえるようになる。
ザザアザアザアザ。
ピイィン。
ルルルル。
……この電話番号は、現在使われておりません。
最近夢を見てないな、と僕は考える。
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