音の無い森
夕目 紅(ゆうめ こう)
1.予感
「ねえ、私達どうして選ばれなかったの?」
不意に彼女がそう言って、僕は何も言えなくなった。辺りには雄大な草原が広がっていた。背後には空軍基地があり、滑走路が横を真っ直ぐに伸びている。音は無い。風も無い。無音になると耳が痛くなるその空間で、彼女の声が静かに響いていた。彼方には地平線が綺麗に弧を描いていた。
僕はよく散歩をする。他にすることがないものだから、ほぼ丸一日かけて隅々まで探索する。だから草のひとつひとつや地形のひとつひとつまでをも、全て覚えてしまっている。今日も草の長さや位置は変わらず、僕は昨日の僕が残した足跡を踏むように道を歩き、久しぶりに彼女の言葉を聞き、そして立ち止まった。
振り返ると、彼女が悲しげな顔で僕を見つめていた。
「選ばれていれば幸せになれたの?」
僕はあえてそう尋ねてみた。彼女は唇を尖らせ、非難の色を込めた瞳で僕を睨んだ。
「そういう言い方、ずるい」
「知ってる」
「意地悪」
「知ってる」
「教えてよ。どうして私達は選ばれなかったの?」
空が青かった。青すぎて少し気持ち悪いぐらいに。大きな雲がぽつんと浮かんでいて、小さな穴がその中心にあった。
空の穴だ。そこから光が差し込んでいる。光の匂いが満ちている。僕らはそれを全身で感じている。でも僕らの手は空に届かない。その向こうに見えるもうひとつの空に、僕らは辿り着けない。例えどんな手段を持ってしても……。
「帰ろう、美奈。時間だよ」
「ねえ、どうして? 教えてくれないと、帰れないよ」
僕は彼女を見た。彼女は小奇麗に短く切り揃えた髪を指で挟み弄んでいた。ぐるぐると捩じり、ぱっと放し、髪が僅かな曲線を描くとまた捩じる。その動作に何か堪え切れない感情を感じ、僕はそっと手を伸ばす。彼女の前髪をそっと払う。彼女の顔が光に照らされる。少しだけふっくらとした頬に朱色が満ち、眉間に皺が寄る。
彼女は真っ白なワンピースを着ていた。季節は秋だった。少し寒そうな空気の中、彼女は灰色の瞳に僕を映していた。美しい光景だと思った。彼女の髪を梳くと、彼女は僕の手を払った。光を受けて彼女の髪は一瞬白く光って見えた。
心の奥底を、尖った針が何度も突いていた。
「やめて。それより答えて」
「知らない。僕に答えられることなんて無い。そんなこと、君にだってわかっているはずだ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「君はいつも卑怯。そうやってはぐらかしてばかり。ねえ、お願いだから嘘って言ってよ」
「嘘じゃない」
「嘘」
「……嘘じゃない」
僕はすかさず彼女の手を握ろうとした。彼女はそれに合わせて僕の腰から銃を引き抜いた。そして自分の頭に銃身を向け、躊躇うこと無く引き金を引いた。
――パーン。なんて。
乾いた音が広がった。悲しいとか、苦しいとか、そういう感情は無かった。僕にも彼女にも、そんなものは必要じゃなかった。
腰程まで伸びていた草を押し潰して、彼女の体は地に横たわっていた。ほっそりとした手首や足が折れてしまった花びらを思わせた。いつも強気な眼差しを形作っていた瞳と眉が、今となっては壊れ物のガラスのようだと感じた。ああ、そうか。彼女はそういう女の子だったんだ、と僕はぼんやりと思った。心はどこかに置き忘れてきてしまったかのように、全ての物事が遠い国の出来事のようだった。
「帰るよ、美奈」
僕は言った。それが僕の道だった。彼女のハスキーな声が耳に聞こえる気がしたが、結局何も響かなかった。
辺りは静かだった。地平線の果てまで何も存在していなかった。草原が途中で途切れて荒地になり、剥き出しの地面が見えるだけだ。様々なものが失われてしまった世界というのは、失われないと価値が無いように思えた。僕は彼女を失い、その価値を知り、先程触れた時の温かさのことを想った。
そしてゆっくりと踵を返した。その瞬間、頭上を轟音が駆け抜けていった。
一年前、神の判決が下された。天使のトランペットは鳴らなかったけれど、それは現実的に人間を裁いた。全体としての人ではなく、個としての人を。
世界は二つに分かれ、選ばれた人間は空の向こうにある、もうひとつの空の広がる世界へ向かい、選ばれなかった人間は古い世界に残された。
資源が枯渇し、宇宙が収束し、次々と物質が消失し、静止したままただ失われていくだけの古き世界。“閉ざされゆく世界”と呼ばれるそこに残された人々は、自らのことを皮肉って“クローザー”と呼んだ。
“ひとつの幕を終わらせるもの”。クローザーは神に立ち向かう。もうひとつの空目掛けて飛行機を飛ばす。選ばれなかったのなら選ばれてやると、空を舞い、そして地に落ちていく……。神に見捨てられた驕れる者、クローザー。また一人、誰かが空に向かっていくのを僕は眺めていた。機体は彼女の死体を飛び越え軽々と高度をあげていき、美しい放物線を描いてその姿を小さくしていった。
クローザーは好きな時に新しい世界を目指すことが出来る。僕らは空へ向かいたい時にその身を神に向けた銃の弾丸とする。それまでは何をしていても構わない。死に怯えていたっていい。でも最近は、誰もが進んで空へ飛んでいく。
天高く舞い上がった機体が突如砂粒の塊と化し、やがてその形状を失い、雨のようになって地に降り注いだ。僕はそれを数秒見つめてからまた歩き出し、基地への道を戻り始めた。
……僕の何かを失くす予感は、よく的中する。
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