第5話

 痛みがなくなった。

 暗闇の中で、辰巳は目を開ける。

「ここは……」

 どことも知れない暗闇の中。まるで水に浮かぶように、彼はその空間を漂っていた。

 頭の奥底まで痺れさせていた痛みが消えてクリアになっていく脳内。しかし、状況を把握するには少し時間が必要だろう。

 そんな彼をニヤニヤと眺める一対の瞳があった。

「――――面白い、面白い。久方ぶりの外かと思えば、を鍵に使うとは。いやはや、何とも面白い」

 低い、地の底から響くようなバリトンボイス。同時に、

 そもそも、闇は闇ではないのだ。

「さあて、小僧契約者よ。お前はいったい何を望む?力か?知恵か?後者はおすすめせんなぁ。我は壊す方専門であるから」

 巨大な龍は、そう言って嗤った。

 闇だと思っていたものは、巨大すぎる龍の体がそう見えていただけ。辰巳に覆い被さるようにして、その大きな頭を近づけていた。

 龍は、嗤う。何故なら退屈していたところに、面白い玩具が放り込まれてきたから。

 願いだ何だと宣えども、その本質にあるのは破壊への欲求。暴れる事への大義名分。

 対面する形となった辰巳は、そんなどす黒い内心など知る由もない。

 ただ、

「…………い」

「うん?なんだ?もう一度言ってみろ」

「…………帰りたい……」

 小さく呟いたソレは、まぎれもない本心だ。

 退屈な日常であったことは、本当だ。変化を求めていたことも、否定できない。

 しかし、失った今だからこそ分かることは幾らでもあった。

 朝起きて、学校へ行き、勉強して、帰宅。ルーティンは変わらない。劇的な変化など早々に望める筈もない。

 だからと言って、現状を辰巳が甘受しなければならないという道理もない。

 彼はどこまで行っても被害者だ。

 勝手に巻き込まれ、勝手に腕を取られ、これまた勝手に契約者と相成った。

 劇的も、劇的。特急券でも使ったかのような急転直下の境遇は、容易に異世界への憧れなど霧散させ、代わりに郷愁の念を膨らませた。

 悪龍は目を細める。帰りたい、等といった感情を抱いた事など無かったからだ。

 そも、その願いは叶える事は困難の道筋。

「そいつは、難しいだろうなぁ」

「なんでだ」

「ただ呼び出されただけならば、戻れただろう。だが、今のお前は人柱として呼び出され、こうして我との契約を結んだ。その意味が分かるか」

「……さあ」

「魂の重さが変わったのさ。人間の魂比重が1ならば、我はその数百倍、数千倍、数万倍は下らない。分かるか」

「だったら、その契約を破棄させろよ。俺が、望んだわけじゃ――――」

「それは、並大抵ではないなぁ?」

 嗤う悪龍は、鎌首を下げると下から辰巳を見上げてくる。

「そもそも、人柱となったお前に契約破棄の権利が無い。お前は単なる。人間は料理をするだろう?その食材と同じ事だ」

 他人が勝手に結んだ契約程、厄介なものは無い。

 何より、

「契約媒体は、我の腹の中だ」

「……は?」

「最も繋がりの強い部分が分離していたのでなぁ……思わず喰らってしま――――」

「何してくれてんだ、テメェ!!!」

 嘲っていた悪龍に対して、遂に辰巳のフラストレーションが爆発する。

 彼は聖人君子ではないのだ。普通の高校生で、日常を生きてきたそんな一少年でしかないのだ。

 ただ、理不尽に苛まれれば、そんな彼でも運命に歯向かう。

 振るわれる左フック。それは、喧嘩慣れもしていない素人丸出しの乱雑な振りでしかない。

 だが、相手は油断していた。顔を近づけ、絶望に浸った顔を見てやろうとその目を寄せていた。

 そこに、拳が突き刺さる。

 生物共通の急所の一つ、眼球。如何に龍と言えども、硬い甲殻にも強靭な筋肉にも守られていないそこを直接叩かれれば痛みを覚える。

「ギャアアアアアアアッッッ!?」

 頭を押さえてのたうち回る悪龍。

 同族ならばまだしも、高々人間一人にここまでの激痛を与えられるなど思いもしない。その意識の間隙と種族特有の傲慢さがそのまま、痛みの大きさに影響を与えていた。

 しかし、辰巳の怒りはこんなものでは収まらない。蹲る悪龍の硬い鱗に守られた頭を執拗に蹴りつけたのだ。

「ふざけるんじゃねぇよ!どいつもこいつも!俺がいったい何をしたっていうんだ!?勝手に巻き込んで、右腕を引き千切ったかと思えば、帰れない?!ふざけるのも大概にしやがれ!ああ?!」

 もはや、自分でも何を言っているのか分かっていないのではなかろうか。それほどまでに、辰巳はここ少しの間で怒りを溜めに溜めていた。

 怒りで気持ちが大きくなり無敵となった辰巳だが、その一方で蹴られる悪龍は困惑の極みに居る。

 ダメージは一切ない。そもそも、ここは精神世界みたいなもので、肉体的なダメージなど与えられるはずもない。

 だがそれは、裏を返せば精神的な強さがそのままに反映される世界でもあるという事でもある。

「うぶぅ……腹が、熱い……!」

 怒りに呼応するように、悪龍は腹の底からの熱さを覚える。

 本来熱に強い龍が違和感を覚えるほどの、熱さだ。それはまるで、胃の腑の中に溶鉱炉でも出来上がったのではと思えるほどの熱。

 そして、世界に赤が駆け抜ける。



 人は、命の危機に瀕した時に時が圧縮されたかのような感覚に捕らわれる事がある。

 首を伸ばしてきた悪龍に対して、シアンが動けず、カティナは己の主の安全のみを最優先に行動し、その結果地面ごと辰巳の体はその大きな口内の中へと消えていった。

 一挙手一投足、鱗の細部まで見る事が出来ても体だけが動かない。

 そんな圧縮された時間の中で、世界は劇的に変化していく。

 唐突に動きを止めた悪龍。その紅蓮の瞳が大きく見開かれ、同時にその巨大な全身が腹を中心として赤黒い結晶のようなものに飲み込まれていった。

 瞬く間に出来上がった赤黒い結晶による龍のオブジェ。それは荘厳で、まるで天へと吼えるような、そんな姿。

 そして、崩壊の時は直ぐに訪れる。

 結晶に包まれた時と同じように、腹を起点にその巨体は宛ら排水溝に吸い込まれる水の様に渦を巻いて圧縮されていく。

 やがて、そこに現れる人型。

 仰向けに倒れた辰巳。その体に起きた異常な変化。

「――――…………ッ、くそっ……」

 先ほどまで意識混濁として、身じろぎの一つも出来なかった彼は悪態を吐きながら起き上がる。

 左手で額を覆って鈍痛を伝えてくる頭に舌を打ち、次いで妙な音が聞こえた己の右側へと目を向け、そして驚愕にその目を見開いた。

「な、あ……これ、俺の腕、か……?」

 困惑と、それから飲み込めない異物さへの混乱。

 辰巳の右腕だったもの。それは今や、人間的な要素などその形状以外からは見受けられない異質の存在へと変質してしまっていた。

 切り離された肩口から先。人の肌色も質感も一切見受けられず、代わりにあるのは岩のような武骨な硬質さと、黒曜石の様な滑らかな黒。

 龍の手。悪龍と同じ色合いの鱗に包まれた腕が今、辰巳の右腕としてそこに存在していた。

 大きさは左腕と変わらない。だが、右腕はまるで糸の切れたマリオネットの様に力なく垂れ下がるだけ。辰巳の感覚としては、右腕の傷を塞ぐだけのデカい絆創膏にオプションで何かついてきたような、そんな感じ。

 手首をつかんで持ち上げてみれば、弛緩しきった右腕はただのお荷物としての重さのみを伝えてくる。

 そして、頭の中に声が響いた。

『これは何とも予想外だ。まさか、我の方が封じられるか』

「……なんだ?」

『体の占有権もない、か。面白い、面白いぞ小僧。名前はなんだ?』

「……龍ヶ崎辰巳」

『リュウガサキ……なるほど、龍か。成程成程……』

「てか、お前は誰だよ」

『我か?そうさな……悪龍エルドラゴとも大いなる顎を持つ者とも共殺しとも呼ばれていてなぁ』

「……つまり、名前なんて無いんだな」

『そうとも言うな……フッ、小僧。良い事を教えてやろうじゃないか』

「良い事?」

『名とは、そのものの本質だ。真名を握るというのは、相手のすべてを手中に収めるに等しい』

「……テメェ、嵌めたな?」

『遅かれ早かれ分かる事だろう?何より、今の我とお前の力関係は、肉体の主導権を持つお前にある。もっとも、我の力を引き出せるなどとは思わないことだなぁ』

「性悪、糞トカゲめ……」

『ウハハハッ!この我をトカゲ呼ばわりなど、お前ぐらいであろうな!精々、我を退屈させぬことだな、小僧』

 頭の奥底でニヤニヤと嗤う性悪の権化のような同居人に、辰巳の蟀谷には青筋が浮かぶ。

 なまじ、調子が良くなっているのもまた、その苛立ちの火に油を注ぐ要因の一つ。

 

 東の国の王都が壊滅したその日より、彼の数奇な運命は本格的に産声を上げる。

 その行く末を知るものはまだ、居ない。

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