冷たい満月の夜に

紫鳥コウ

冷たい満月の夜に

 研究者としての円熟の域へと向かう道程にいる三島愛子が、フィールドワークのために初めて訪れたこの国で見たものは、急速な経済発展を遂げるのに比例して栄える首都の狂騒とは反対に、そのカーニヴァルから周縁に追いやられ沈黙させられた地方の窮状であった。十年にわたる民族紛争がもたらした荒廃への救援が、首都から放射状に拡散していく見込みはまだない。


 紛争の勝者が縁故主義と反対勢力の懐柔のために利益を再分配するこの状況は、新たな争いの火種を、積み重ねられた薪の下に宿していた。事実、紛争の敗者として隣国に逃れた一団は、反政府武装勢力を結成して、いくどとなく越境している。そのたびに国境付近では小規模な衝突が発生し、周縁化された人びとを疲弊させている。


   ○   ○   ○


 シルベールというのが彼の名前だった。あの紛争が終結したときには、もう二十歳を越えていた。シルベールはその青春期を、紛争下で過ごした。ただし、シルベールの住む村は、当初引かれていた戦線からは遠かったため、紛争が最も激化した時期ではなく、人びとのほとんどが自暴自棄になっていたころに戦禍を被ったのである。


 シルベールと愛子は数日のやりとりのうちに、しだいに打ち解けていった。愛子は通訳なしでシルベールと話すことができたため、ふたりはより親密に、より赤裸々に言葉をかわすことができた。当時のこの地域の状況について、より踏み込んだことを聞くこともかなった。


 ふたりが知り合って三日目。今日も、シルベールの家の庭にある椅子に腰をかけて、横並びになって語りあっていた。そしてこの日もまた、夕陽に空が焼かれることはないと思われた。朝から雨雲がぐずぐずと残っている。しかし、不思議と激しく雨が降ることはなかった。


「シルベールのお子さん、元気ね」


 庭の向こうの土の道で、子供がサッカーボールを蹴っている。向こうに蹴っては走ってボールを取りにいき、それを抱きかかえるとでこぼこの道に置き、もといた方へと転がしていく。それをもう、三十分は繰り返している。彼は紛争がなければ、シルベールの友達の子供のままだった。


「ケガをしてほしくないから、あんなところで遊ばないでくれるといいんだけどね」

「いつあの道は舗装されるんだろう」

「こんな辺鄙な村なんて、僕が死ぬまで放っておかれるだろうね」

 シルベールは貧乏ゆすりをしながら、我が子の方に視線をくぎづけていた。

「あの子は、クリスティーナのことを知らないのね」

「知らないよ」


 クリスティーナという名前を愛子が聞いたのは、もちろん、シルベールが彼女に心を許してからだった。

「クリスティーナの顔も、身体つきも、匂いも、うまく思いだせない。ただひとつはっきりと覚えているのは、彼女の唇の感触だよ」

 この村はまだ、ロマンティックな比喩であふれるほどの過剰な豊かさを享受していない。だからこれは、定言的な言葉なのだ。…………


   ○   ○   ○


「あの日のことはよく覚えている。何度も言ったけど、この村では、ふたつの民族は、平和に共存していた。なのに、戦争がはじまると、がらりと関係は変わってしまった。でもそれは、村の人びとが急に隣人への憎しみを抱いたわけじゃない。憎悪にまみれた役人たちがこの村にやってきて、こう命令をしたんだ。『××族を殺せ! そうしないなら銃でお前を撃つ!』――そうした圧力が、ふたつの民族の間に境界線を引いたんだ。


「僕と愛するクリスティーナは、べつべつの民族だった。だけど、そうしたことはこの村では特別なことではなかった。僕たちはもちろん、憎しみあうことはなかった。愛は銃声に脅えてはいなかった。あのときは、生きのびることだけを考えていた。僕たちは、役人の指揮のもとにいる武装した軍人と、彼らに強制的に《働かされていた》村の人びとから逃れるために、西の森に飛びこんだ。


「冷たい満月の夜で、灯りのない森には、燃え尽くされた家から、陰惨な煙のにおいが流れてきていたのを覚えている。僕たちはこんな言葉を交わした。『クリスティーナ……いまなら逃げられる』『逃げるってどこへ?』…………『あなたも一緒に逃げてくれるの?』『それはできない。僕は殺されるよ、きっと』――――


「その言葉で、クリスティーナはすべてを察したよ。彼女が生きるためには、彼女と同じ民族がまとまっているところに行くしかない。いまここにいるのは、僕と同じ民族の軍人だったから。『この戦争は、どちらが勝つかはまだわからない。でも、戦争が終わってしまえば、なにかがどうにかなるかもしれない』…………『いまなら、僕よりクリスティーナの方が、安全なところへ行くことができる』――そのときの戦況は、いまの政府軍が圧倒的に不利だったんだ。この村をふくめて、東部の一部の地域しか支配していなかった。


「夜明けまでには、まだ十分に時間があった。でも僕たちは、はやく別れないといけなかった。遠くから怒声と悲鳴が聞こえてきていたから。僕は近くの樹の幹に、思いっきり頭をぶつけた。あまりにも森は暗かったから、クリスティーナは僕がなにをしたのか分からなかったと思う。僕はそのとき、こうすれば、だれかと闘ったように見えるだろうと思った。役人の命令に離反したとは思われないだろうと。僕だって、死ぬわけにはいかなかった。どちらかが死んでしまったら、もうこの地上で会うことはできなくなってしまう。


「でも、順序を間違えたんだよ。頭を打ちつける前に、唇を重ねあわせていれば、いつものキスになっていたのに……。僕たちの別れのキスは、汗にあたためられた血の感触が交じってしまった。だから覚えているんだよ。あの夜、クリスティーナの姿は見えなかったし、鼻の穴は煙でいっぱいだった。でも、あの感触だけは、しっかりと僕の唇に記憶されたんだ」


   ○   ○   ○


 空から大粒の雨が、ぽたぽたと降りはじめた。それは、この荒廃した地上とは違う呑気な上空にただよう、ロマンティックな比喩が飽和して落ちてきたのかと思われた。


「ラファ! 家に入るんだ」

 シルベールは我が子に聞こえるように、大声をだした。

「アイコ、少し肩をかしてくれ。まったく、戦争なんて二度とごめんだ。僕は恋人を、ラファは親をなくしてしまった……。なにより、僕たちから、大事なものが消えてしまおうとしている」

「大事なもの……」

「好きなときに、過去のことを思いだしたいとおもう、欲求だよ」


 椅子から立ちあがったシルベールは、アイコの肩から手をはなして、ゆっくりと家の方へと吸いこまれていった。一方でアイコは、もしかしたら、感情が整理できるまで、雨に打たれることができたかもしれない。彼女にとって比喩は、その生命が発育する養分でもあるのだから。

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