第37話

「勝手で一方的で性差別的で人間同士の共同が失われたお寒い自己愛連鎖だとクソ近代人様は非難するだろうね。君もそれに類する罪悪感や孤立感で、不確かな愛の実践を前に踏みとどまっている。でも、それこそ人の傲慢、想像力の欠如だと思わない。卑小な人間理性が認識できる他者なんてどれほどのものなの。自分の欲望のまま振る舞って相手を傷つけなさんなと? 手前の理性で推察できる他我なんぞ、喘ぎ声の調子、怒張の具合、それがなにさ馬鹿馬鹿しい。一過的で猥雑な性愛の場において個人が個人を尊重するなど、あまりに自明と思わない。それを絶対化して人間に閉じこもることこそ、人が神を見失う落とし穴なんだよ。他者が確かにいると確信される愛と、他者がいるのかすらもわからない愛、果たしてどちらを貫き通すことが、本当の人間のあり方なんだろうね。僕は人間中心主義の隘路あいろにはまった前の世界より、今の君たちのあり方のほうがよっぽど幸せに見えるよ。ただ、当事者として納得できない気持ちも分かる。

 問題は、私窩子の花床サラムスが思い描く天使だね。花床は神官から摘出した子宮に脳味噌を詰めた、魂の座としての子宮。当今の脳科学がどうなってんのかは知らないけど、ともあれそこに神官の想い人の像が刻み込まれている。多分、神官はこれをもって私窩子の人間の条件としてるんだよ。私窩子という純粋客体に埋め込まれた絶対他者が子宮の天使。神のみぞ知る天使の正体は、神官という神そのもの。人間同士の視野狭窄な愛に閉じこもることを許さず、まったく御心の知れない他者が介在して、両者が真に愛を営むつがいに相応しいかを裁定する。これが現実に人間関係を抑圧する機能を担っているなら、まだ事態は簡単だったわけだね。実際に今の社会を見れば、わからんもんはわからん、やりたいもんはやりたい、というので貞操観念なんかありゃしないじゃん。この神は神として提示されてるけど、民衆レベルじゃ運命とか運試し程度の意味でしかない神だよ。だって、人同士の最後の営みすらも神に支配されているなんて事実、常人には重すぎるんだから。単に気づけないし、気づいても深刻に捉えたら負けと思い込むんだよ。

 わかんないよね。他者同士の愛を斥け、自他相即の愛を用意しておきながら、それを足元からひっくり返す絶対他者を眠らせている、この国の愛の形は。結局、この舞台を用意した神官の目論見は何なのか。それがこの問題の焦点になるはずだよ」

 ユッタは息が詰まっていた。砂漠の真っ白な風景と暑熱しょねつが不安をかきたてる。

「……我々は他者との愛ではなく、不在の他者との愛において、絶対他者、つまり神への愛を想う可能性がある。そして、それはほかでもない、戦地に発った天使軍の男性たちに祈るしかなかった、神官たちの愛の形を引き写したもの……」

「だろうね。その真意は定かでないけど、思惑があることは間違いない。だから、君の悩みは解決されない。確かに霊肉二元論では片がつくはずもなかった。……さて、改めて結論を出そうか。君は、君の愛を疎外する神、絶対他者を愛さなければ、天使光ピスティスには到達できない。けれど、君は人間存在の究極が絶対他者と対立するという自覚に、すでに目覚めてしまっている。登山口には立っているけど、山脈のあまりに険しいことを怯えて、足踏みしていたんだね。今の世で一個人として生きるだけなら、君は懊悩と適当に折り合いをつけてやっていけばいい。でも君は今、現実の異性を助けるため、天使にならなくちゃいけない。そしてそれは以前からずっと、君が望み続けていたことでもあるはずだよ」

「ですが、どうすればいいのです。人でも人形でもない絶対他者の御心を、頼りない若造ひとりの理性で、どう察し、どう受け止めればよいのです。……やっと分かったことがあります。小生は結局、女性を偶像以上のものと見ることはできない。口では精神の美を尊んでも、実際は肉の美に垂涎している。実践のないまま、肉欲の像を霊の中で愛玩してきた。これ以上の偶像崇拝者はいませんよ。小生には、愛を語りそれを究明する資格などないのです」

「ようやく君の矛盾した二重の自我が見えてきたね。君は、猥雑な現実の人々より優れている自分の気高い理性的自我が、肉欲に還元されて堕天してしまうことを恐れてたわけだ。まあでも、そう悲観するのも堂々めぐりだしやめようよ。それに、他者という精神主体がそもそも自他相即的に溶け消えてしまっていることを、今明かしたばかりじゃない。実際における霊肉の腑分けが無意味なら、仮想におけるそれにだって意味はないよ。むしろ、問題をよりシンプルにできる。他者を感覚像イメージでしか捉えられない人の認識を云々するにおいてはね」

「……小生でも、神を見る力は得られるというのですか」

「君は幸運だったということだよ。人の理性になしえない、神の直観という意味での天使光ピスティスは、おそらく僕が啓示するべきものだったんだね。僕という神に照明され、君は今から天使になる。人間が天使的知性を得たときどうなるのか、それを容れてなお君はひとりの信仰者として立ち続けられるのか。それは天使的主体になってから、もう一度試されることさ」

 さくらはちょいちょい、とユッタの袖を引いた。「かがんで」と童女のようにせがむので、ユッタが言うとおりにすると、錯誤神サクラスの可愛らしい面立ちがぐっと迫ってきた。

「神を前にして、準備ができてないとは言わせないからね」

 神の唇が唇に触れたと思ったとき、ユッタの目前にさくらのものではない少女の美貌が何十何百何千何万と溢れ出て迫り肌も触れ合わんと一斉に肉薄して眼球に張りついたように視界の隅々まで埋め尽くした。ユッタは絶叫し両腕で振り払おうとしたが腕の感覚がない、皮膚感覚はあるが躰が動かない。視覚にはただ空間に少女たちの美貌と嫋やかな肢体が泳いでおりユッタに限りなく近づいて来るそれはアップでありながら不思議と遠くも見え、ちらちらと明滅するように極大と極小を繰り返して八方からへばりつき離れぺたぺたぺたぺたと生暖かい柔らかい深い感触が触覚をまさぐってくる。宇宙に投げ出されたよう上下左右の感覚がなく、地に足が着かず手は何も掴まず舐める撫でるさするすりよるような少女たちからの触感はあるのにこちらからはまったくさわれない掴めないすがれないなにもない。衣服をまとっていないよう全身の肌に直接人の肌が触れている気はしているのだが裸であるにしては春のようにあたたかい、のにときたま少女の海に間隙かんげきが生じるとそこからすきま風じみて凍る寒さが吹きつけてくる。寒い寒いあたたかいのだがぎゅうぎゅうと圧迫される心地がありやや痛いよりもかゆいぞわぞわとかゆいかゆい、さすさすとさする触れるくちづけする優しく触れる、君たちは誰なんだとその美貌美貌のかおかたちをしっかり見定めようとするのだがわからない。ちかちかちらちら星のようきらきら明滅する美貌美貌美貌の渦波風海地月炎がユッタの四肢をなぶる吸う吸う蹴る殴るそっといたわるすぐ消えるない。誰、誰と回転する主体に透明な膜を張ってそれも円心に回転する彼女たちは廻る廻る廻るのが速すぎて追いつけない目が捉えない焦点しないただ多い多い個人ないただ多い。耳ぺろぺろ奥までぺろぺろされているので耳つながった声は黄色いしとやか高い低い鳴るようにきれいしとしと泣いている、かもしれない君かと。君はと話したいのにいないない多い。ぶばっ、と息ができたちゅるんと抜かれた息できてなかった、きもちいい。熱。やや意識は。意識があった。ユッタは、ユッタの躰を包む快楽に気づいた。ユッタは息が苦しく麻痺したように躰が動かずかぐわしい匂いで鼻の穴がむわっむわにむせており耳には絶えずくすぐるように愛らしい小鳥のさえずるような声々こえごえが聞こえている。これなんだろうと一瞬思えたけど肌中べちゃべちゃでそれは微笑む少女たちの桜色のぷるんとした唇からちょこんと見え隠れるサーモンピンクの舌先にちろちろちろちろ。えーっやめてよとユッタは叫んだがこんなに頼んでいるというのに言うこときいてくれないなあ。顔、顔。きもちいい。あ、いかん、と、ユッタは目をしばたたいた。現状どうなのかわかりたかった。いる、女性がいることはわかる。顔がある、躰がある、首筋にすっと通った鎖骨の線の先、豊かな胸がふるふると泳ぎ、しなやかにまるいお腹の真ん中にへそがあってかわいい。次あ、うわっ、うわわ、いやええと脚、長いすらりとだけどふにゅーん、いいっ、ふとっ、ももっ。いいなあ、きれいだなあ、幸せだなあ。あ、幸せだ僕。ユッタは触りたかったが、でもだめだあ。ということだった。え、どうして。こんな近いのに。こんなたくさんいるのに。こんなきれいなのに。こんなほほえんでるのに。こんな僕をみているのに。こんな彼女を知りたいのに。こんなやらしいのに。いや、違うんです。小生は愛です。魂の。ね。やあ、あたぼうよ。あ、そうだ、なにこれ。あ、あー! ようやく頭がはっきりしてきたユッタはしゅんしゅん分身し続ける少女たちの影をなんとなく個体識別できるようになってきたかも。大きく言えば髪に色があり、瞳に色があり、肌にも多少色違いがある。髪型も違うし、よく見れば顔立ちは千差万別、美貌と一口に言っても好ましいやつも好みでないやつもいっぱいいる。何万何十万、数えられないけどそういう世界だしそりゃなあとユッタは思う。明滅は落ち着いてきた。要は知覚の限界を超えた大勢の見知らぬ少女が一度にわっと襲いかかってきたのだ。だが、どこかで見覚えがあるようにも思う。どちらさん、と手近にいるように見える子に聞いてみた、顎がすごく重いおっもーいけど声が出せた。「生命です」。声が聞こえた。「せいいめいいいですうううずう」と聞こえたが確かに声だった。ずいぶんご立派な。君は、「言葉です」、君は、「知恵です」、君は、「愛です」、「君は」、真理です。ああ、とユッタは納得した。今自分は真理をそのまま見ている。彼女たちはそれぞれの真理の表象だった。美しいわけである。そう思った矢先に顔と躰の繋がっていない少女を発見した。頭から脚が生えて口にぎろりと目が血走り耳から指が五本も十本も束になってもぞもぞ這い出てきている。異形ネフィリム。異形も真理だったのだろうか。わからないが、わかる気がした。無頭人エグリゴリをユッタは倒さなければならない。天を突くような巨体で体毛は黒々と濃く頭部には顔がないくせに馬並みなのでものすごく恐ろしい。だがやらねばなるまい。ユッタは無頭人エグリゴリの頭を吹き飛ばした。

「ユッタ!」

 目の前に倒れ伏した無頭人エグリゴリと、外套マントをぼろぼろにしたリンがいた。辺りは暗く、足元は砂地だが高い岸壁の茶褐色に三方を囲まれている。見覚えのない場所だったが、無頭人エグリゴリの巣であろうか。

「どうしてここが分かったの。なぜ空中から突然現れたりするのよ。びっくりしたじゃない」

 駆け寄ってきたリンは、砂と土にまみれた肌のあちこちに切り傷や腫れや打撲傷をこしらえている。信じられないというようにユッタを見上げるその瞳が、急にぶわっと涙に濡れた。ユッタの礼拝服アルバの胸に飛び込み、顔をうずめてえんえん泣きはじめる。

「しぬかと思ったんだからあ」

「僕ももしかして殺しちゃったかなあ、とちょっと心配になったよ」

 震えるリンの肩を抱いて呆然と立ち尽くすユッタの前に、いつの間にかさくらがいた。

「……いったい、何が起こったのです。悪い夢でも見ていた気がしますが」

「僕が支配すると言われている地上的天使アルコーンって、超古代人――天使になることを夢見た旧世界の人間の、純粋精神のことでもあるんだよね。それを君の自己にぶっこんだ」

 言われた意味も分からず、ユッタはまだ頭をぼーっとさせていたが、リンに小突かれた。

「なんでこんなちびっ子に敬語なのよ、君は。おかしいのではなくて」

 もう泣いていない。危険が去ったと分かったらもう安心して。現金なものである。

「むー、聞き捨てならないことを聞いたけど、勘弁してあげるよ。ともかく、君はこれで天使の知性を身につけた。肉体的感覚を伴わず、全ての物事の真理を直観できる天使の認識を」

「……どういうことです。あの女性たちが、事物の真理とでも言うつもりなのですか」

「なによ、人のことを無視して話を進める気。勝手にすればいいのではなくて」

 つんとなって、リンはユッタの胸から離れた。一抹の寂しさがあり、やけに身に覚えのある感覚だとユッタは思う。さくらがリンの背中に向かって「べー」としょうもないことをした。

「はじめから話すよ。人の認識はいつでも感覚から出発する。ある事物を感覚器官で受け取り、感覚像イメージを持つ。その繰り返しによる記憶、経験を含めて、感覚的認識だね。感覚以上の知的な理解を目指すなら、次に感覚像イメージを理性による抽象認識にかけて、観念を形作る。この抽象概念を使って人は知的活動を深めていくわけだけど、結局はその前提に必ず感覚像イメージを必要としている。人はいくら理性的認識を洗練させて高度に抽象的な思考を獲得しても、足元では感覚的認識の積み重ねと感覚像イメージそのものに頼らざるをえないんだよ。推論、判断、論証知。人の思考は根っから対象化と相対化の働きだから、どんなに物事を突き詰めても蓋然的な正しさに留まり、確実知、絶対の真理には到達できない。これは人である限りしょうがないことなのに、頭のいい人は肉体的感覚という基本をつい忘れがちで、自分のことを天使のように宙に浮かんだ、純粋に知的な存在だと思い込んでしまうわけ。

 じゃあ、人には決してありえない、事物の真理を直接に知るという天使的知性を想定してみようか。まず、肉体のない天使は感覚を持たない。感覚像イメージを一切用いずに、最初から事物を最高度に抽象化して認識できる。そんなこと、生まれる前からあらかじめ、全ての事物の理念や形象を知っていなきゃ不可能だよね。つまり、天使はものすごい量の本有観念を持ってなきゃいけないじゃん。物事を感覚して観念に抽象化するのでなく、いきなり物事を自分の持つ観念へと当てはめるという認識形式。不完全な被造物を、より完全に近い模範にもとづいて、上から目線で認識できるわけ。存在そのもののレベルが違うと思わない。自分より不完全な存在の本質になら、観るだけで空間や時間の隔たりすらも超えて到達できるかもしれない。こんな天使様に限りなく近づくために、人間がしたことってなんだとおもう」

 見当がつかない、とユッタは首を傾げた。どうも、深く物事を考える気が起きない。先からなにやら頭の中がぐるぐるしている。

「つまりね、人間である限り感覚に頼らざるをえない。どう足掻いたところで、人間自身の本有観念なんて幻想だし。ならば、観念を飛び越えてそのまま真理を表現する究極の感覚像イメージを作ればいいじゃない。旧世界の文明末期に、そんな神の幻像エイコーンが電子ドラッグとして氾濫したんだよね。人間は長い時間の中で神を表現する技術を蓄積し研鑽し、言うは易しってもんだけど相当に頑張って、確かに人間理性が認識できる究極の美には限りなく接近したんだ。けど、感覚像イメージ化されて人の手に落ちた神はすでに神じゃない。人は真理の模像を感覚像イメージとして知覚し、よりよい幻像エイコーンを作るためにそれを観念化し、新たな真理を表現してゆく。真理は感覚になり、感覚は観念になり、観念は真理になる。それを神と信ずればこそ、人は幻像エイコーンの形而上学を思考し続ける。神を認識する力として、感覚を極限まで研ぎ澄ましてゆく。じきに肉体的感覚が認識できる現実の全事物が、かつて観念や真理に属していたものと変わらない美に完成される。こうして彼らは天使になるため、感覚と理性の底力を総動員し、地上に神を充満させたんだ。その感覚像イメージ化された神こそ、さっき君が見た少女たちの正体なんだよ」

「えっ」

 突拍子がなさすぎて、ユッタには反応しづらかった。「なにそれ」馬鹿のような反射めいた言葉がどんどん出てきた。ショックを受けずにいられない、驚くべき話を聞かされたのは分かる。なのに、それについて全然興味が起きない。「ようはどういうこと」

「あー、君も本質馬鹿になっちゃったか。これ、旧世界が潰れた遠因かもしれないけど、神を表現した感覚物はまともな人間には劇物同然なんだよ。まして、時代を隔てたうぶな修道士が、身近な神に囲まれて育った天使の魂を自己に容れて、正気でいられるわけがない。本当の神に対する深い敬虔がなければ、今ごろ君は脳味噌ぶっ壊れてますかき続ける猿同然になってたよ。神に照明された君の自己は呑み込まれずに贋物にせものの神々を取り込んで、超古代人の天使的知性と融合できたみたいだね。それでも、その美しすぎる幻像エイコーンたちはひとりの人間が背負い込むには本質的すぎ、重すぎて、逆に知性の働きを奪っちゃうわけよ。真理への愛は理性の情。感覚の美は人間に、真理への情熱を呼び起こすもの。ひとつの幻像エイコーンの美にとらわれず、多くの幻像エイコーンを認識してそれらに宿る共通の美を見、更に幻像エイコーンの魂や行為や知性の美をもあわせて観、徐々に普遍的な美へと昇華させてゆく。エロスの上昇が腐っても幻像エイコーンを普遍存在としての神に近づけている以上、彼女たちは単なる幻想ではないわけ。人間という一本の針の先の上で、いくたりの神々を踊らせられるか。やだね、そんなことに執着してたんだよやつら」

「なんてぼうとくてきなんだ」

 ユッタの脳裏に踊る幻像エイコーンたちの裸形の数は、およそ五本の指では足りなかった。目の前に彼女たちが現れて自分を抱きしめる光景を思い浮かべることばかりに意識が働いている。彼女たちの美は神に等しく、甘い笑みの唇は今にも万有の真理を秘めた音楽を奏でようとしていた。実際はそこにいるちっこいのに聞いたほうが早いのは分かるのだが、分かるだけだった。今の自分に理性にもとづいた行動を起こす余裕のないことは明らかだった。

「しばらくはつらいと思う。でもね、決して彼女たちを他者性として切り離してはいけないよ。時と場所が違えば、君も同じことをしていたかもしれないんだ。神の追求の方法を間違えた世界の贋神がんしんをすら呑んでこそ、僕は真の信仰者、真の人間、真の天使だと思う。贋天使アルコーンの模像の真理を絶対とせず、君本来の信仰を忘れないことだよ」

(真の天使……小生は天使になってしまった。堕天使の烙印を押されて生を受けながら……)

 天使のごとく、願うだけで本質の知れた下位存在のもとへ飛翔し、肉薄できる力。この天使光ピスティスの獲得は、リンを救うためという状況の要請だけではなく、――それだけでも十分に有意だが、自分自身の信仰の矛盾にも望まれていたことである。しかし、これを手に入れたことに何の意味があるのか、先の悪夢は試練と言うほどの試練だったのか。幻像エイコーンへの酔いを覚まして冷静になれば、疑問に思われるユッタであった。もしこの感情が信仰の最果てだとしたら、こんなにつまらないことがあろうか。脳内に住まう少女たち以上の真理など、この退屈な世界の中にあるのだろうか。ついに性と信仰は我がうちで完全に一致し、矛盾をきたすこともない。真の信仰の探求に葛藤していたかつての自分ならまだしも、今の自分に更なる絶対の神へと情熱を燃やすことなどできるのか、まったく自信が持てなかった。耳元に幻像エイコーンの心地よい幻聴を聞きながら夜空を見上げるユッタと、「こいつ大丈夫かなあ」と困り顔のさくらのもとに、向こうからリンが駆けてきた。

「ちょっと、そこまで神官が来てるってうわ君なにそのすっごいあほづら! あたしを助けるためにこんなことになっちゃうなんて、なんだか申し訳なくなるじゃない。やめてよもう」

 気付きつけのように両頬をぱんぱん張ってくれるリンの手つきは、あのときと比べて優しく気遣いに満ちていた。そのとき、傍らのさくらが観念したように「うっへー」と漏らしたのは、岸壁をまわった道の先から修道服の一団がぞろぞろと姿を現したためであった。やはりその先頭には、氷の微笑をはりつけた神叡者ソフィステス萵苣ちさがいた。

「おめでとうございます、ユッタ。あなたなら、もしかしたらと思っていたのです。天使光ピスティスと感応した賢明なあなたなら、喜んで錯誤神サクラスを引き渡してくれますね。新たな天使の誕生を心より祝福いたします。さあ、参りましょう。私たちの観想都市、凍境とうきょうへ」

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