第36話
「なるほど、
「おいっ」
古文書に読んだ表現にすぎないが、はしたないことは知れた。
「乙女みたいにうぶな男の子だねえ、君は。さくらちゃんのほうが恥ずかしくなっちゃう」
きゃー、と両頬に手を当てる少女を前にして、わらにもすがる思いのユッタである。創造主を主張してはばからない妙にませた少女を、まったくの悪童と決めてかかるのも損やもしれぬという気はしていたが、こんな冗談を飛ばされてばかりではこちらの身が持たなかった。
「さて。確かに
「哲学、というものに近いのだろう。誰かは定かでないが、古文書からの知識なのは間違いない。小生も原文を見たが、断片的に残っているだけで註釈もなし、理解は怪しかったな。誰が借用したにせよ、どだい完全にその概念を写し取れるわけはなさそうだった」
天使学も古代哲学を吸収して発展したと聞くが、十分学んだとは言えないユッタであった。
「なるほどねえ、哲学は現役で神学の
ぺらぺらと語りだしたさくらに、ユッタは黙り込んだが、聞き捨てならない考えが先回りで指摘されていることは、なんとなく汲み取れた。
「……人神というのは、人が神になるという意味なのだよな」
「そうだね。絶対知なんて、君らには容れがたい夢物語だと思うよ」
「確かに、人が神を究極目的とせず、あえて自ら手の届きうる範囲のものを究極目的と設定して満悦することこそ、天使の堕落だという教えが教会にある。神の照明を自覚せず、自らの才能を買いかぶり、それこそ自らを絶対的な存在、神とする道はやはり棄却されるんだ」
「届きえない神をこそ求め続けよってのも必定、人の挫折を招くから良し悪しだとは思うけど、僕個人としても君らと付き合ってるほうが好きだなあ。まあ、それはどうでもいいこと」
問題それちゃった、と頭を掻き掻き砂風に吹かれるさくらは、こう続けた。
「弁証法的なアプローチにも見るべきものがあるって言いたかったんだ。止揚ってのは、絶対の他的存在のなかで純粋に自己を認識すること。
で、人自身の実感はもちろん、堕天した
この矛盾した二重的自己、絶対の他的存在から、よりよい自己のためになるものを分別し、知識として保存しておく。この過程で、自己を壊すような他なるものを捨て、自己に利するような他なるものを吸収するわけ。絶対的な他者性の廃棄、そこそこな他者性の保存、他者性を取り入れた自己への昇華。これらの同時的遂行が止揚という意味。で、これって言いかえれば本来的自己から非本来的自己を分断し、前者を絶対化して後者をしょせん他人と切り捨て、その美味い身の部分を選り分けてるだけ。その取捨選択の手前勝手さ自体は反省されないんだよ。本当の自分を保持するのに都合が悪い根本的な矛盾の原因は結局ポイしてるんだもん。たとえば、
話が長くなったけど、僕が価値を見るのは、むしろ弁証法的に棄却した他者性のほう。この作業を通じて、自分が絶対いやだなあと思うものを他者性と確認できたことに意味がある。身勝手な理性が理解できなかったもの、個人が個人であることを守るために忌避したいもの、それが神だよ。絶対他者という神。有限なる個物が無限なる普遍を知るための活路がそこにある。互いに容れがたき他者同士が、理解しあえなくともその理解できないものに輪郭を持ち、それを尊重しあうこと。僕が考えるに
ユッタはいささか唖然とした。さくらという少女の下品な舌から喋られたこととも思えなかった。少女の言葉を咀嚼すべく、荒涼とした砂漠の地平線を望みながら、しばし口を閉ざす。
「
「……二元論すらも、人が他者と自分を個別化するために用いる恣意的な操作なのか」
「場合によりけりとしか言えないけどね。その知的操作自体に意味がないわけじゃないよ」
風に乗った砂埃をまともに受けて「うひゃーしばしばする」と涙目になっている傍らのさくらに、ぞっとするものを感じているユッタであった。創造主とまでは鵜呑みにできないが、少なくとも神童――そのような言い方も危ういが、自分に及ばぬ叡智を年若くして秘めた者ほど、青年に畏敬の念を抱かせるものはない。およそ推し量れず、共感も理解も向けがたい距離がある。これが他者性ということか、と軽々に言っていいのかも、ユッタには分からなかった。
「理屈では腑に落ちましたが、二元論を斥けた後、どんな思索の実践をすればよいのですか」
「わっ、なんで敬語になってんの。やだなー照れちゃう」
いささか自尊心が傷つくところもあるが、そうせずにはいられない性格のユッタであった。
「二元論がだめなんでなく、どこまでも二元論が機能してしまう厄介さそのものが問題の筈だよ。さっき言ってたけど、
ユッタは頬を掻きながら頷いた。見知らぬ奇妙な少女に対し、かつての挫折を含めて身の上のすべてを相談せざるをえない自分が恥ずかしいが、そうも言っていられない状況であった。
「じゃあ、なおさらそこから始めるべきだよ。えと、
いきなりそう問われ、どぎまぎするユッタには、やはり明確に答えられるものがなかった。
「……そうきっぱり物事を二分すること自体、好きではないのです。人が神を信じる心。それを最も根底から支えるものを、他人に伝わるよう言葉にすることに意味が見えない。極端を言えば、個人的な神秘体験の共有はいくら説明しても不可能だ。信仰という事態に含まれるものの豊穣さを、狭く貧しく言葉で定義すること自体、間違いだと思われてしまうのです」
「暗黙知ってことかあ。でも、神との愛の共同は、他者との愛の共同だよ。頭の中だけでなく、現実で神と関わらなきゃ。拙くても、自分の一部分だけでもそのときそのとき言葉にしないと、どうしようもないじゃない。もーう、内向的な若者はこれだから。そりゃ」
さくらは突然、着ている
「やめなさい、異性の前ではしたない」
砂漠の暑さからの発汗に、冷や汗が混じるユッタであった。慌てふためくユッタを見上げながら、さくらはいたって平気な顔で、分析にもとづく所感を述べはじめた。
「禁制と侵犯だのは、もったいぶりになるから率直に言うよ。今この瞬間、僕は君の神になった。性欲という信仰の根源が求める神に。この事態を先の二元論から説明づければ、
「ちんちくりんが自信満々、胸を張ってそれを言う……」
あまりに卑近すぎるたとえにユッタは正直うんざりしたが、卑近がゆえに目をそらしきれないものが今一度、目の前に突きつけられていることにも気づいていた。ユッタの呟きにぷうとむくれるさくらの子供らしい反応のほうには、たとえ演技であっても、よほど安心させられる。
「……私窩子をいかに愛すべきか。女の背後に神を見てしまう、性と信仰の癒着した感情は正しいのか。肉の愛に精神の愛を忘れる彼女たちと共になるには、その腹に仕込まれた運命の天使と合一するしかないのか。それが神に祝福された婚姻と言えるのか。そういう実際のことに、二元論がどうのはもはや意味をなさないと小生は言いたいんです」
さらけ出せば知らず顔がこわばるほど、深い屈辱か後悔のようなものに襲われる。やはり、日の下に照らされるべき懊悩ではないのだ。しかし、師の刑死にもミモザの孤独にも、なすすべなく立ち尽くしてしまった自分の病根は、そこにしかあるはずがないのである。
「なるほど。悩みの底が浅いねー、とか笑うつもりないよ。笑われたほうが楽だろうけど笑ってやらない。それはやっぱり、神官が君らに都合の良い他者を
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