第32話
さくらは言葉を区切った。ふう、と一息ついてからだを転がし、コウと目を見交わした。
「なんか僕ばっかり話してるじゃん。君はどうなの、神について」
漠然とした問いかけにも、ひとつの方向は呈示されているコウであった。しかし、
「まだ分からないことは多々あります。それが明かされない限り、まだあなたを神と信じきるわけにはいきません。たとえば、
「あー、人が言うところの実証的な説明、ってのは諦めてよ。あれは旧世界の教会で異端とされた宗教的文書の断片的な集成だね。それが現世界でなぜ正統教義となったか、というのは、現世界の人間がそう求めたからとしか言えない。異端の神話がたまたま神官を救い得た」
「そういう事情が分かるほどには、旧世界にも現世界にも詳しいのですね」
「まあねえ。僕は神と人の中間にいる半端者だから、この通り肉体を持ってる。そうと知られないよう慎重に、旧世界から人の中に混じって楽しくやってたけど、うっかりバレちゃったことがあってさ。ガワが小娘風だからナメられて、錯誤神なんて言われちゃった。神は確かに存在したけど、人間様のお気に召さなかったということ。けど、そのおかげでわりかし正確な神話ができちゃった。実態に則しただけぐっちゃぐちゃでわけわからん体系になって、まとまった信仰共同体ができずに廃れたけどね」
「私欲的な偶像が
「普遍への信仰の上に成り立つ神の不可触の個人的人格、って核心はおいおい僕が思いついたことだけどね。……ところで、その事態の現実的な側面を見れば、神の人格は大勢の信仰共同体に担保されたもので、それを一人の人間が私物化することはもはや許されず、そういう個人的神は
「その
「いや、そうでもないと思う。当時の事情を言えば、農耕神とか地母神、その他色々の信仰概念が交じり合うなかで、多神教的な社会と、統括的な唯一神や創造神を信じる民族が対立しはじめた時代だったの。その信仰の行き着く先は僕だけど、信仰は実体としての神を見て出発するものではないということは、さっき言った通り。それでも、僕はようやく自分のことを人に概念してもらえるようになったのだなあと、誇らしく思ってたわけよ。だども、信仰集団の規模はしょせん民族単位。色々と難儀な彼らにこっそり教えを賜ったりもしたけど、結局彼らの信仰は新たな啓示者への信仰に取って代わられてしまった」
「概念的な創造神を信じる根拠を、その
「そういうこと。神が人に受肉して、人の罪とされることの償いを神が肩代わりしてくれたわけ。だからこそ尊ばれた。神が肉を持つということの意味は、絶大だよ。その大いなる不可解との対面が、神という存在への洞察を人に深めさせる契機ともなったんだ。この事件が人の動機によるものか、神の動機によるものかは、後から考えれば前者と考えてしまいがちだけど、当事者としての答えは明白だよ。
「……人が神にすがったのではなく、神が人にすがってほしがった、というのですか。それも、ただひとりの神が、全世界の人々にそれを求めたのだと」
「もし至高神の御心を汲めるとしたら、ただそのひとつだけだよ。神性流出の末端で自らの不完全性を埋めるべく
気落ちしたように嘆息するさくらに、コウは訊ねた。
「ひとついいですか。多くの信仰を勝ち得なければ、本当の神とは言えないのですか」
「うーん。神の最小単位として、ある個人が自分ひとりを救い給うと想定した偶像的神があるとすれば、神の最大は全個人を分け隔てなく救いうる普遍的神であるとは言えるよね。多神教的様相も結局は程度の低い偶像崇拝の乱立だと、そう聖書も含意してる。でも、現世の苦悩にまみれた人々の自我を一身に引き受け、まったく至福のうちに救済する一者が、人と同じく個人的主体性を持っているなんて、どうかと思わない。信仰集団なんて簡単に言えるけど、多くの人間の信仰をひとつにまとめるのは死ぬほど大変だよ。全人類が心から信じられる究極の
「そう……ですね。神が最大公約数ならば、あえてそれを拒否してごく私的な領域に閉じこもるひねくれ屋は、どこにでもいるでしょうし」
「人の自我はそういうものだよね。けど、その信じがたきを信ずること、他者との共同を前提に自我を救うこと、その困難こそが信仰の醍醐味でもあるよ。救われるべき自我と汲み取るべき他我、その間に生じる永遠の葛藤から神概念、宗教思想、信仰集団、さまざまの多様性が萌芽する。そして、その際限なく多様な信仰を一手に引き受ける神は、やはり最後には無我であることが求められる。相異なって対立しあう有限な被造物たちをまったく同一物として包括する無限であり、真理に達しえない不完全な人間理性の対象的かつ相対的な認識をまったく受け付けない絶無としての神――全ての対立を一致させる、輝ける闇のような、矛盾相即の場としての神が」
「……自我を持ちながら無我であるというような
「厳密に考えれば、どのような神もそういう性格を持たざるをえない。どのような人間もそのように信仰せざるをえない。けれど、その虚無を、何も持ちえない無限を、真理のないことが真理という益体のなさを、どうして全ての人が受け容れることができよう、ということさ。そこに至るまでの思索の豊穣であることに意味を見、そういう生き方に納得できるならいいんだ。でも、どうせ人は絶対の答えを見つけて安心したがるんだよ。僕には、そういう人のあり方を咎めることはできない。本物の神が人間を挫折させるなら、贋物の神を信じるしかないじゃないか。模像によりてこそ真理を受けよ、というのは、そういうことを言っているんだよ」
いつしかさくらはベッドにまたうつ伏せ、沈鬱な面持ちで肘をついていた。
「模像を真理として絶対化しろってことじゃない。それは模像と同時に神であるということを意識しろってこと。答えがないことにあぐらをかいた軽薄な言葉遊びに耽るのもいいさ。神を殺したつもりになって、喜色満面にふんぞり返っているのもいいだろう。お互いの差異を半笑いで受け容れた気分になって、延々と答えを先延ばしにしていくのだって賢明なやり方だよ。死ねば助かると信じ込めるなら、死という神に救済されるのも一興だろうね。で、それで満足なのかと、僕は人に問いたいんだ。模像という神を無自覚にすり減らしながら生き、潜在性独我論の憂鬱症に痩せ細っていきながら、晩年は安手の
「……無我でありながら自我を持ち、決して本物になりきれない贋物の神。その矛盾した神を信じることの重さに、耐えて生きてゆくということですか」
「いつでも贋物にすり替わり、
コウはさくらの話を聞きながら、ゆっくりと胸に溢れてくるものを感じていた。ただ、それはたやすく言葉にしてよいものなのか、判断がつきかねた。
「その信仰は時に、人に苦痛を与えるかもしれない。けど、神だってきついのは同じだよ。幾重もの
理想的には、人は信仰と折り合いをつけながら自我を確立していき、神は被信仰と折り合いをつけながら無我を確立していくべきだ。人として生きるため、神として生きるため、ほどほどにお互いを必要とするべきなんだ。人が絶対でも、神が絶対でもなく、存在者としての役割と領分をしっかりと自覚して、ね」
窓から見える空はもう暗かった。コウは息苦しさに呼吸を深くしながら、さくらに訊ねた。
「……あなたは、何者なのですか?」
「僕ですか。何を隠そう、僕こそが
だけ、と言われても、とうてい一私窩子に抱えきれる話ではなかった。少女の妄想にしては、微に入り細を穿ちすぎている。聞かされた神の弁の是非よりも、それに触れた自分はどうすればいいのか。今はそればかりがコウの頭を悩ませ、落ち着かない心地にさせていた。
「……ところで、人の思惟が無限なる神により近づくのは、概念による厳密な定義によってではなく、むしろ象徴を通じた自由な感覚によって、という考え方もあるんだ。人が神と接点を持つには、不完全な理性だけでなく、人間に備わった肉体的感覚をも動員しなければならない。それは神にない肉を授かった人間として、卑下することもない、順当なやり方だと思うな。宗教とは、象徴を介した絶対他者との愛の共同である。少なくとも、今の世界の小市民が一番平和でいられる宗教哲学ってこんなものさ。気張ることなんてない、他人に言わなきゃ安全至極、絶対の真理なんてひょっとしたら至高神も知らないよ。だから君みたいな子はなおさら、等身大でいいんだって。
あ、小娘が生意気言うて偉そうだの性格悪そうだの思ってるでしょ。その通りっでーす、っけー。何千年幽閉されてたか分からんわ、そりゃ拗ねるってもんよ。ともかく、結局は本当に分かり合えるところのない絶対他者との関係が、神への信仰の言い換えであり、人々の現実の言い換えでもあるってこと。だから僕みたいな半端者が神を代弁しちゃうとみんな不幸せになるしさ、隔離すべしって神官の判断も正しいよ。でも腹立つし逃げます。神だって少しぐらいの自我は持ちたいもんね。こういうバランスの取り方は、きっと
さくらの饒舌が、ふと止んだ。肌に黒髪を滝にして、さくらは起き直っていた。
「ごめんね、愚痴りすぎたかも。でもこういうこと、ずっと誰かに聞いてほしかったんだ。眠そうな顔してるけど、最後まで馬鹿にせずちゃんと聞いてくれて、ありがとね。……今夜は、あのでぶっちょの房にでも泊めてもらうよ」
ベッドから下りようとするさくらだったが、コウはとっさに駆け寄って彼女を胸に抱いていた。「わぷ」と驚いて固まったさくらに、コウはどう言うべきか迷ったが、ここで彼女に遠慮をさせるのは、どうしても気が咎めるのだった。
「ご高説、と言ったら皮肉ですが、興味深い内容でした。話の長さは前に出会った人を思い出しましたが、比べるものでもありませんでしたね。べつに、ここで寝ていっても構いませんよ。……急に、思い出したら寂しくなってしまったので」
なぜこうも恥ずかしい
「そ、そうなんだ。しょうがないなあ、じゃあ今晩だけだよ。もう」
だらしなくにへらと笑うさくらと、固いベッドの上に横たわった。すえたような自分の臭いで、
コウは、ユッタの熱を思い出していた。今のように少女がちょこんと丸まった小動物のような感じではなく、大の男ががちがちに凝り固まっていやな汗をかきまくっている、たとえるべくもなくそれそのものでしかない異様な存在感を、あのとき隣に感じていた。そこには不快というより、どうもむず痒くすわりが悪い、けれど守られているような、包まれているような、ほっとする心地があった。いつ何をされるか分からない緊張があったはずなのに、からだの芯がすっかり安心しきってしまうのであった。それは今このときも同じで、神を名乗る不気味な少女と不用意にも肌を重ねているのに、彼女が昔なじみのように底から慕わしく思えてくる。ふと至近に目が合うと、無邪気にふわっと微笑んで、少女は目を閉じた。
「そういえば、名前なんていうんだっけ」
半分寝息を立てる気配を出しながら、さくらは思い出したようにそう問うてきた。
「言ってなかったですね。
「あー、そうなんだぁ」
言う少女の語尾は、消え入るようであった。寝入るのがずいぶんと早く、人にはいつも眠たげな顔と言われるのに寝付きの悪いコウにとっては、うらやましいかぎりである。そういえば、彼の寝付きも自分よりはましだった。いかにも堅物ぶった彼の、一転してほうけきった寝顔は愉快であった。
彼のことがなにかと気にかかっている自分が、どうにも奇妙に思えた。情の絡むことは何もなかったはずである。それなのに、彼の体温がやけに恋しかった。神のほうはやけに冷え性のようで、ひんやりした小さな手を握ってやりながら、コウは眠りに落ちていった。
「おやすみなさい、さくら」
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