第30話

 窓から差し込む朝の光に、夜来香イエライシャンは目を覚ました。

 狭い独房はほこり臭く、息が詰まり、壁が迫ってくるような、窮屈な心地がした。

 手洗い場で顔を洗い、頭の両側で髪を結う。以前いた北方の修道院で、友だちの女の子によく似合うと褒められた髪型だった。

 修道院の食堂で働き、落ち着いた時間にパンと魚介のスープと燕麦えんばくを潰してかゆにしたものを食べる。都市まちをぶらぶらとそぞろに歩いて、見飽きた景色に溜息を漏らす。畑仕事をひと休みしている農夫や、昼から飲んでいる漁夫に挨拶がてら話しかけられるが、その息の臭いことにうんざりして追い払う。

 踏み固められた道を外れ、だだっ広い草原に寝転ぶと、春の空が高い。木々の梢が鳴る音を聞きながら、草の匂いを嗅ぐのは好きだった。そのままぼんやりしていると、いつの間にか寝入っている。夕刻前までぐっすりと昼寝してしまうのが、知らず日課になっていた。

 遊びが少ない自然ばかりの土地に暮らす少女ならば、もう少し身の回りの物事のいちいちに感動を覚えてもよいはずであった。道端にひっそりと咲く野花のけなげさに心打たれたり、子馬の背に乗って一日中野原を駆けまわったり、都市まちの子供たちや腐れ縁の若者と連れ立って森の奥を探検したり、気まぐれに興味を持って調理場に入り浸り、料理に熱心になってみたり。

 そういったことのいっさいに何の感興も湧かない自分が、なぜこのようなところにいるのであろうか。不思議としかいえない、地に足がついていないようなふわふわとした思いを、幼いころからずっと抱いていて、今も手に負えずにそのまま持てあまし続けている。

 感受性の不足といっても、ここまではなはだしいのは滅多なことではない。同年代と付き合うなかで、それはよくよく思い知らされた。何に手をつけても、三日も経たないうちに飽きる。鍬を入れたり収穫をしたり、畑仕事は地道で土臭いうえにからだのあちこちが痛くなる。種まきの時期にカラスを追い払うのだけは、少しだけ楽しい。漁は、魚って重いのだな、とすぐに網をほっぽり出した。家畜は生まれの都市まちで腐るほど世話をしたので、糞の臭いなど別に慣れたものだが、もちろん喜んで付き合いたいわけではない。豚のゆるい土手っ腹を手のひらでしつこく揉んだり、牛の乳を絞る途中で力いっぱいつねってやったりは、憂さ晴らしにたまにする。このような体たらくなので、結局は食堂や酒場の給仕ないし雑用係に落ち着いて、その無愛想に呆れられながらも、食料頭の麒麟菜にまかないをもらい、食わねば死ぬのでもしゃもしゃとそれを食っている。で、散歩をして、昼寝をして、また働いて、食って、独房で寝て起きる。

 退屈だとか、けちをつける気もなかった。馬鹿ばかりだが、都市まちに悪い人間はいないし、それなりによくしてもらっている。感謝の念は自然と湧くし、無軌道な反抗心が起こる気配もない。昔はひどかったらしい飢饉ききんもなく、生きるに最低限の環境には恵まれていた。

 趣味のひとつぐらいはある。たまに来る遠方からの商人がおまけのように持ってくる、コデックスを読むことであった。内容はだいたいが物語で、分類するなら英雄譚、ロマンス、昔の人の伝記らしい何か。ほとんどは研究者向けで読むのが困難な古文書を翻案したものらしく、好事家が暇つぶしに書いているようであった。まあまあ面白いのだが、大部分は作り話じみて、いかにも他愛ない。読めば時間がさっさと経つので、重宝はする。けれどもまあ、その用途上にも聖書ケノボスキオンを前にしてはかなわない。

 幼時から修道院長や、たまに神官がその内容をもとに説教するのを聞いていたが、最近本文を自分で読むようになった。固い文体はかったるいが、なにしろ馬鹿話に富んでいる。神様っぽくて偉そうな天使がのちの展開に必要もないのに三十柱もいたり、そのいっとう下っ端の小娘が脈絡もなく実の父親に発情して想像妊娠で流産したり。しかも、その出来損ないの醜い子供がこの世界の創造主で、造った人間を自分で犯してしまうのだから、笑うしかない。こんな悪趣味極まる話が、万物の成り立ちを説き明かすこの国の神話だというのだ。神官は被強姦願望でもあるのかと冗談を言ったら、一度大変な剣幕で叱られたが、その真剣さもやはり失笑を誘った。本気で信じるようなものとは、とても思えないのである。

 とはいえ、聖書のあほらしさを知って、ずいぶん気が楽になったのは確かだった。この世はだめな神様が造っただめなものなのだという神話の説明は、毎日の物足りなさの理由を的確に言い表してくれたように思えた。自分を造った偉大なる真の神々を知らない、まるっきり出来の悪いもの知らずな偽物の神様が、あの青い空に住んでいる。

 そういえば、生みの親を知らないのは、自分も同じことだった。至高神や天使アイオーンに対する無知こそが、錯誤神サクラスの失敗の原因だと神話は語る。親元を離れて好き勝手にめちゃくちゃをやったことが責められている。私窩子もみな、親なき子だ。腹の中に埋め込まれた子宮の提供者が親だと思えば思えたが、神官たちは首都に引きこもり、親子の縁は微塵もない。

 人形私窩子は、女を似せた作り物。つまり、親を知らない誰かの偽物。じっくり読み込んでみれば、お前は運命的な失敗作なのだと、ほかでもない聖書が語っていることに気づいてしまった。この神話はつくづく趣味が悪く、身も蓋もないことを教えていた。

 やってられん、と日がな一日、地べたに転がって空を見上げることが多くなった。働かずとも、腹が空けば麒麟菜が何かしら作ってくれた。親といえばこの人か、とは思ったが、彼女ですら人形私窩子であることには違いなかった。そういう意味では、親とはいえない。

 今日ものんびり空を見ているつもりだったが、ふいに頭を執拗に突っつく、荒い息遣いの気配があった。首を曲げると、牧畜犬コーギーの不機嫌そうな顔つきが鼻先にあった。黒に白斑の体毛がつやつやと輝く、引き締まった体躯。コウに懐いているやつだった。

「……分かりましたよ。お前に急かされると、かなわないです」

 よっこら、と起き直れば、とりあえず少しくらいは仕事をしようという気にはなった。

 実際、出来損ないは出来損ないなりに、楽しくやれないわけではなかった。はじめは家畜追いなどまっぴらだったが、のろのろした羊や山羊のでかっ尻にけしかけた牧畜犬の、吠えたり跳ねたり追いかけたり、無駄に元気に立ちまわる様子は、見ていてわけもなく楽しい気分になるものだった。たまに手伝ううち、なかでも不細工な一匹にやけに気に入られたコウは、ろくにさぼることもできなくなっていた。

 模像によりてこそ真理を受けよ。曖昧な物言いだが、そのぶん、どうとでも受け取れる律法であった。生まれと育ちは悪けれど、まがい物はまがい物なりに気楽にやるべし。なんとまあ取ってつけたような気慰みかとびっくりするが、どうにもならんから諦めなさい、と言われるよりはましである。聖書の教えは自分の問題に引き寄せて解釈し、勝手に不安になったり、勝手に安心できればそれでよい。そういう肩の力の抜き方で、これまでの日々をやりすごしてきたのであった。

(私はまあまあやれていますけど、あの人は融通がきかずに、今も苦労していそうですね。万一無事であれば……ですが、どこにいてもきっと、そういう生き方しかできない人です)

 最近の趣味は、いつか出会って、私窩子として買われたような、買われていないような、そんなうちになぜか船に乗り、難破してそれっきりの、妙な青年の残した遺留品を漁ることだった。聖書をはじめて読む気になったのも、それがきっかけのことである。聖書のほかは古文書ばかりで、読むのには苦労するが、なにしろ暇なので時間が潰れるのは構わなかった。

 彼のことで印象に残るのは、模像による真理という教義に則ったらしい、修道士なりの奇妙な口説き文句だった。女を抱きながら天使アイオーン贋天使アルコーンの違いがどうこう、青白い顔でぶつぶつ言うのは傑作で、修道士の貞潔というものをこじらせるとこうなるのか、と感心すらした。人と人の交接など、豚の交尾と同じくありふれた光景で、そういったものに過剰な意味や神聖な何かを見たがるナイーブな若者というのは、絶滅したと思っていた。

 人のことを言えた身分ではない。生娘なのは認める。やぶさかでもないのだが、なんとなくやる気が起きない。修道士の理想は童貞だが、私窩子の理想は百戦錬磨であった。神官の教えに素直に頷けば、そういうことになる。だが、全員が全員、聖書の筆写に閉じこもったり男漁りに夜歩きしたりが好きなわけではない。だいたいが手に職をつける。要は、本来的な生き方すぎて、わざわざそこに落ち着けるやつがいない。どだい、互いの理想が食い違っているのである。本気で準じようとすれば、男女で戦争になりかねない。なので、お互いそこそこ。やることはやる。お偉方みたように肩肘張りなさんな、というわけで、逆に性意識はあけっぴろげ。妊娠すればラッキーだし、仕事が終わって暇ならまあやる。深刻に響かない万民修道、万民娼婦という教義。

(わけわからんっ)

 と一蹴して、実のところそれで困らない。社会構造に人間性が疎外されている、とか思わない。謎にラディカルな宗教規範が、牧歌的な暮らしとミスマッチで、意味をなさない。なんや知らんが気張りすぎやろ、と思う。聖書は古代文書と聞くし、もっとものすごい超古代文明のための神話だったのではないか。まともに受け取って変に悩んでいるのは、ごく一部のくそ真面目な修道士ぐらいである。そのごく一部なやつと、知り合った。

 突然、牧羊犬コーギーが鳴きだした。物思いに夢中だったコウはびっくらこいた。これといった悩みもないはずなのに、ひとりの時間がありあまっているので、つい考えがちになるのだ。

 犬の鳴くほうの草むらに、誰か倒れ伏していた。犬の鼻頭につつかれて無反応なので、抱き起こしてみる。小さな女の子で、髪が長い。背丈と同じくらい長い。おうい、と声をかけて起きないので、ぺちぺちと頬を叩いた。ビンタが何往復かしたのち、女の子は目を覚ました。

「いったー!」

「すみません」

 ぱっちりと瞳が大きく、声は甲高い。十歳程度か、コウを睨み上げてぷくーとむくれる顔は童女のそれで、頬は柔らかげに丸く真っ赤だが、これは叩いたためである。

「まあいいやあ。ここどこ」

「蝶波修道都市です。見ない感じですけど、修道院はどこ住みですか。お名前は」

「うーんと、イエッセウス・マザレウス・イエッセデケウス」

 ふざけた名前やなあとコウが黙りこむと、少女はつまらなそうな顔をして立ち上がった。

「なにさもう、冗談の通じない。ああでも、よく見たら神官連中じゃないね。そっかあ」

 少女はうんうん頷くと、珍しげにあたりを見回しはじめた。何の変哲もない野っ原に山羊が草を食んでいるだけだったが、少女はうっわあと大喜びで手近な山羊の尻を蹴った。悲痛にメエと鳴いて逃げるのを大笑いで追いかけまわすので、どうかなあと思ってコウはやめさせた。

「家畜をいじめると農夫に殴られますよ。私もよく殴られます」

「わあ、やっぱりあれが家畜かあ、はじめて見た。農夫のけつーも蹴りたーいなあ」

 こいつなんなのかなあと面倒になりはじめたコウを、少女はまじまじと見つめてきた。

「人形私窩子、ってやつだよね。人形私窩子、人形しかし、人形。しかし、……」

 ぶっ、と少女は吹き出した。だはははと笑い転げる。「ああおかしい」だはははは。

(付き合っていられない……)

 いやにハイで調子のよい、コウの苦手な性格だった。犬を連れて帰ろうとすると、ぐっと袖を引っ張られた。「うっわーごめんごめん待って待ってまって」とうるさい。

「うるさい」

「えーそんなむげになさらずとも。せっかく抜け出してきたのに第一村人冷たいなあ」

「どこから抜け出してきたっていうんですか」

「凍境だよ凍境、うるわしのみやこ凍境からだよ。これでも苦労したんだからあ」

 えへんとない胸を張る少女の服は、煤けたように汚れの多い木綿の襤褸ぼろだった。

「出荷されたての私窩子といったところですか。聖堂で儀式を受けてから出てくるものですよ」

「ちがうってば、しっつれいしちゃうなあ。人形しか、私窩子と一緒にぷ、いっしょにしないでくれないかなあ。こう見えて一応、神官どもを顎で使うぐらいわけないんだからね」

 わけもなく腹の立ったコウは、無視を決め込むことにした。第二修道院付近で羊追いをし、ついでにこの娘に見覚えがないか、通りすがりの人に訊ねてまわった。答えはすげなく、犬とともに羊の尻を追いかけてはしゃぎまくっている少女は、隙を見て置いていこうとしてもしつこくコウにつきまとってきた。

「あなたはいったい、どうしてついてきているのか分かりかねるのですが」

 少女はうーむと悩むようにおでこを押さえて唸ったが、すぐに明るい表情を取り戻すと、

「なんだか君って、ほっとけないんだよね。だって今にも自殺しそうな殺伐顔してるしさ」

 生まれつきの無愛想を殺伐とまで言われると、腹が立つより呆れてしまった。

 日が暮れ、酒場に戻ってきた。麒麟菜は客に酒をいでいた。

「今日もほっつき歩いてたのかい。こちとら腰をやってんだから、さっさと入っておくれよ」

「うわーぶっくぶくのでぶばばあ。そのうえ腰痛持ちとか役満ってやつだよねあで」

 麒麟菜の投げた空きの酒瓶が少女の頭に当たった。下手すりゃ死ぬがなとコウは目を見張ったが、少女はたんこぶをさすりながら「おさけ出すの」と目を輝かせている。

「小娘に出すわけないだろう。なにさね、この見かけないのは。ほかの修道院の子かい」

「ちげーっての、凍境育ちじゃ田舎もんめえ。三段重ねの尻肉さらに割ってやろうかわれ」

 しばらくは物が飛び交ったりごちゃごちゃと騒ぎがあったが、本人のたっての希望で、少女も酒場で働くことになった。声がでかくてすばしこい調子者なので、コウよりもこの仕事に向いているように思われたが、下品な冗句を飛ばす農夫の尻をやたらと蹴飛ばすので、なににつけてもやる気のないコウと差し引きどちらがましと言えるかは、むずかしいところであった。少食なコウに比べ、馬鹿のように大食いなのも、夕食時に判明した。

 どっと疲れて房に戻ると、当たり前のように少女もついてきた。

「なんで入ってきているんですか」

「空きがないっていわれた。しゃーないな、今晩はさくらの胸をかしてやんよ。存分に泣きな」

「いらないので。凍境から来たというなら、凍境にお帰りにならないのですか」

「かえりたくないよお。どうせ神官が追ってくるし、それまで遊び相手になってってのー」

 言うと少女は、コウのベッドにぼふんと飛び込んだ。長い黒髪がシーツに広がる。

「……本当の名前をさくら、と言うのですね」

 少女はからだをあお向けにしながら、はーいと手を挙げた。

「そうだよ。サクラスよりは、さくらのほうがかわいいでしょ。それをもじるのもしゃくだけど、エホバ、ヤハウェ、エル、エロヒム、アドナイ、エルシャ・ダイ、どれもいまいちぴんとこないんだよね。別にデミウルゴスとかヤルダバオトと呼ばれたって、構いやしないけど。どうせ最初の名前がなんていうのか、もう忘れちゃったしさ」

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