第28話

 ユッタは磔刑たっけいを最後まで見届けることなく、修道院に戻っていた。

(人々はおそらく、師の弁を戯言たわごとと侮ってしりぞける。幼い私窩子に熱を上げるさまを晒していれば、当然そう受け取られる。だが、一顧だに値しないことがあるか。頑迷な老人の強弁のようでいて、その思索の水準は神官に見劣りするところがあっただろうか……)

 師と神官の議論はユッタ自身、考えが追いつかないような白熱したものであった。そして、滅多に起こりうることではない異端審問と焚刑。事態の急転に、ユッタはついていけなかった。思考をまとめようにも、心が千々ちぢに乱されたようで、修道院の廊下を歩く足の運びもおぼつかなかった。

 ノッジシの房の前に差しかかったところで、半開いた扉の奥から物音が聞こえた。論文の写しや覚書おぼえがきの類まで灰にしようという、神官の差し金の者が房を漁っているのだろうか。だとすれば、師の教えを吟味すべきユッタには不都合なことであった。理不尽に師を殺された恨みなどというものはなく、師は自らの業に焼かれたがっていたのだという確信が、自分でも気味が悪いほど、ユッタを冷ややかな心地に浸していた。扉を開けると、ベッドの上に獣が交わっていたが、ユッタが房の床を踏んだ瞬間には、ことの果たされてしまった様子が見て取れた。

 掛け布団から這い出たロッカの青い瞳がこちらを見ていた。青年は散らばった衣服をかき集め、駆け出して房を出て行きざま、ユッタに強く肩をぶつけた。人の力とも思えない恐ろしい衝撃にユッタはよろめいた。ベッドには、放心して天井を見上げるミモザが躰を投げ出していた。

「じいは、どうなったの」

 人の気配に向かって、ミモザは小さな声で刑の次第を訊ねていた。聞くまでもないことであり、ものを訊ねるべきはむしろユッタのほうであったが、口がうまく回らなかった。

「決められた通り、ノッジシは神官に身柄を渡して、磔と火炙りの刑に処された」

「痛かったと思うの。じいはかわいそうなの。そう思うのに、じいの顔を思い出せないの」

「え?」

「わからないの。嫌いなのに、ロッカの顔しか浮かばないの。じいが、どこにも見えないの」

 いたたまれず、ユッタは見ずに、ミモザに布団をかけてやった。私窩子の花床サラムスが脳機能を有するというのは、つまりこのことであった。私窩子は万人に春を売るが、同時にひとりの男しか愛せない。人と交わるたび、過去の恋情が上書きされる。ユッタは初めて、肉体の契りに精神の契りが冒涜され続ける私窩子の現実を見た。しかも、ひとりの幼い少女が私窩子である自分に目覚める、最初の瞬間を。私窩子に理性がないというのは、肉の愛に魂の愛を容易く忘れる生物であるがための、悪辣な物言いなのであった。

「待って」

 房を出ていこうとしたユッタの袖を、ミモザの小さな指が掴んだ。ユッタの手に、その冷たい指が絡んだ。握りしめれば脆くも折れそうな手々であった。

「その声はおにいさまよね。おにいさまから、じいと似た匂いがするの。じいのお布団はもう違う匂いだから、懐かしいの。もっと、そばに来てほしいの」

 いつの間にか、ミモザは目を閉じていた。目の裏には、ノッジシの面影の代わりにロッカの姿が浮かんでいるはずであった。それでもミモザはこれ以上、他の人間への視覚を重ねて、ノッジシの残滓を記憶の底に消してしまいたくないのであろう。ユッタはベッドに腰かけ、すがりつくミモザをそのままにさせておいた。

 彼女と悲しみを同じうするはずのユッタであったが、うわ言のように師の名前を呼んで、わが胸にしなだれかかるミモザに対して、正直なところを言ってしまえば、ただただ居心地が悪かった。わが肉肌の暖かみを糧に、わが魂を素通りして、師への祈りを捧げるミモザに、気色悪ささえ感じた。だが、この偶像的な客体化こそが、ノッジシが彼女に向けた愛の形ではなかったか。自己愛にならざるをえない神への愛アガペーを、赦しを乞いながら他者に仮託することではなかったか。これこそ、肉を捨象しながら魂の次元でも共同しえない、人間の孤独の極北ではないか。

 師は自己愛の重苦しさに耐えかね、あえて性愛エロスに本質を見たのではなかったか。

「ねえ、おにいさま、お願い。じいと、もう一度会わせて」

 わらべは女の声を出し、ユッタの胸に熱い吐息を吹きかけていた。ふと、コウを抱いたあの夜が思い出された。ユッタはあのとき、教義にしたがって、模像によりて真理を受け取ることを決意したが、ついにそれは果たされなかった。彼女への思慕が目の前の少女の柔肌に喚起されたことは間違いなかった。ミモザの腕が胸板を這い上がり、首の後ろに回る。ミモザとユッタは、お互いにお互いが希求するものの模像であった。ユッタは模像の愛を信じきることができなかった。

 扉の陰からこちらを見ている人影に気づいた。薄く笑っている男は、ジノヴィオスであった。半開きの扉をノックするようなポーズで、ユッタににたりと笑いかけたが、目の焦点は合っていなかった。薄汚れた衣服の前をはだけ、片手には小さな革袋を握っていた。

(忘れられないかつての女と、幻想の天妖フェアリーと。彼と自分が肉のカンバスの上に思い描くものに、大した違いがあるのだろうか。どのみち透明な魂の肉体同士、素直にお相手を願い出られるほうにこそ、託されるべき役目が、これなのではあるまいか……)

 ユッタがこわごわ頷くと、ジノヴィオスは忍び足で近づいてきた。鎖骨を吸い、首筋に蛇のように舌を滑らす、少女のかなしい美貌を避けると、ユッタはミモザの躰をベッドの上に突き飛ばした。嬌声を上げる彼女の目が閉じたままであることを見、ユッタは傍らのジノヴィオスとその位置を入れ替わった。ジノヴィオスは声なき絶叫を上げるように、少女の躰に食らいついた。

 ユッタは足音を立てず、房を後にした。


 酒場を訪れると、客はみな悪しき異端者の処刑に興奮し、昼間からがやがやと飲み交わしていた。カウンターの隅に座り、ひとり葡萄酒の深紫色を盃に揺らすリンの姿があった。葡萄酒の紫も、ユッタを見上げるリンの瞳の赤も、人の血の色を思わせた。

「……別に、君の事情がどうということじゃないけれど、やっぱり早めにここを発とうと思うの。ちょっとすわりが悪いというか、ね。ちなみに、どこかでジーノを見なかった」

 訊かれてユッタは無意識に、懺悔するように先の事態の顛末を口に出していた。どこまで話したかは定かでないが、途中でリンに思いきり頬を張られた。

「馬鹿兄貴も馬鹿兄貴だけど、君も大概だったのね。顔を見せないでちょうだい。なぜ寄る辺ない女の子を慰めてあげる程度の甲斐性すら持ち合わせていないわけ。気持ちのすれ違った愛がそんなに穢らわしくてたまらないの。この際、人形がどうこうなんて関係ない。それしきを受け止めきれない人間ってなんなのよ。そこまで現実とかかわり合いになりたくないなら、君もお師匠と同じように、清潔で高慢ちきな魂のままあの世にいってしまえばいいのではなくて。もううんざりだわ。本当に、もういい」

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