第27話
「凍境教会の公式見解といたしまして、精査の結果、この研究を異端とみなします」
神官たちが論文を読み終え、
「異端とする根拠を要点で拾い読み、それに反駁を加えることで、私たちは教会の教えの正当性を回復するものとしますが、異端者にも発言の自由を与えます。間違った信仰は正せばよろしい。とはいえ、誤った考えへの固執には相応の罰が下されます。では、始めましょう」
神官団のなかから
「まず、この研究の眼目が神の究明にあること。研究の表題は『神の至福的直観』。神と天使の実体的本性は等しいという主張の下、禁断の神学が綴られている。さて、教会は至高神を否定形でしか語られえない絶対者と規定します。人の理性と言葉では神はまったく把捉しえず、したつもりになる傲慢を大罪とみまします。これは根本教理につき、なんら説明は付しません」
ここまでで何か、と訊ねられて、ノッジシは無反応であった。では、と神官は続けた。
「主題と関連して、次に、神々の本質についての解釈です。男とも女ともつかぬ美貌という記述から、神は両性具有であると考えられる。そのため、神の第一本質は原初的なエロスであり、その自己思惟に生まれた
「然りだ。管見に誤解がなければ、神を両性具有者と解釈するのは、教会も同じはずだが」
ノッジシが口を開いた。
「ええ、その通り。ですが、それは人間の原型として男女両性の形姿を未分化に持つことの表現であり、そこに性愛原理を見出すのは早急すぎると教会は反論します。結論を先取りすれば、このエロスが
「人が生涯を通じて指針となすべきは恋以外にない。富も名誉も知識も、それ自体の目的化は無際限で愚かしいことだ。老輩が貧しい一生に導き出した結論だが、神官様とは相容れんか」
「そうですね。人生論として共感はしますが、神話に敷衍はできません。性愛は自然に湧き出づる本能というより、人為的表象の渦に絶えず掻き立てられる、極めて現世的な欲望です」
「人為的な表象の渦、とな。詳しくお聞かせくだされ、それは何です」
「人と人の肉体の差異です。顔貌の美醜です。正確には、美醜で他者を値踏みする人間の認識的習慣と鏡像的自己形成の連鎖をそう名指します。性を含め、個々人のあいだにある様々の差異は、完全なる神からの神性流出の系譜における最下位の地上的被造物、つまり人間や動植物に特有の不完全性という事情です。
「ほう。それは急ぎ足にも、信仰箇条にまつわる問題に踏み込むことになりますな」
「それだけ核心を問う問題提起だと評価はいたします。自らに欠けたものを希求する働きが天為的格率であるという考えには、まったく
「人間に対する神の慈愛や、打算のない自己犠牲の愛、といった程度の意味でしたかな。だが、
「ええ。理想的な愛の形ですが、これが現世に実現することはありえません。いかに慈悲深い賢者も神官も修道士も、肉体あるかぎり自らの利益をまったく顧みない他者への無償の愛など持ちえない。それは本人の心のあり方の困難以上に、他者からみてそのような内心は信じられないためです。人が他者の存在を前提して生き、人から見た自分を常に意識して動く以上、より敬虔に見える素振りで人格者を気取るというのは、避けえない本質的なあり様ですよね。本人が
「なるほど、なるほど。神というのは、とんだますかき野郎なわけですな」
「口を慎みなさい」
ノッジシをたしなめる萵苣の一喝は、微笑を崩さずに発された。
「神々の本質に関するエロス原理論への反駁は以上。異端者には理性的な反応を期待します」
ノッジシは萵苣を
「考えは改まりませんか、残念です。では続いて、
「儂には彼女は、自らですら直観しえない神を末娘に窃視され、大いに嫉妬した実に人間らしい天使に見えますな。唯一神を自称する傲慢な
「異教的表現は好ましくありませんが、ともかく。その
「突拍子もなかったかね。だが、
「重々承知ですけれど、申し上げれば、一方的です」
「人形に子宮を押しつけて高みの見物を決め込んだ冒涜者が
「ああ、人形論と見れば納得がいきます。
「
「もちろん。ですが、私たちには
「然り。これは古文書から借りた用法だが、そのように古文書の知識を取り入れて神話を説明するのは教会の常套でもあろう。神の
「なるほど。人と神とは本来同一的であり、であるから、
「人が神という全体から生じた部分というならば、個物全体をもって普遍となすのはおかしいことですかな。また、理性的被造物の
「その結論こそ、理性の過信に堕天した
「そうかね。少なくとも、集団論理で手前勝手な教義を絶対化するよりはましな末路だがね」
「語るに値しない孤立者の反発を。あなたほどの人が悲しくも、神を愛していないのですね」
「儂は神を誰よりも愛していることを誓うよ。神官の聖域に召される日が来なくともな」
「地理的な条件ではなく、教会の教えに従うか否かが肝要です。神の愛自体に照明されなければ、神を愛することはできません。そして、その愛は教会を通じてのみ得られます。自分勝手に神を愛しても、神にその愛は受け取られない。神を気取った人の
「そんな下らない
「そうですか。その態度は神話の改ざんにまで及ばなければ現実的順応、あるべき姿でよろしいのでは。どのみち、
「女と堕天使の隔絶は、今に至っても癒しがたいということか」
ユッタは俯いたノッジシの横顔に浮かんだ、暗い笑みを見つめていた。
「ここに異端的流出論は棄却されました。最後に、至福直観論。ここに本論文の主張が凝縮されていますが……一笑に付すべきものであることは、ここまでの答弁ですでに皆様、自明に思われるでしょう。それでも最後に愚昧を開陳したいなら、教会は異端者の意志を尊重します」
神官団の苦笑を聞き、ノッジシは決然と萵苣に向き直って語りだした。
「ならば言ってやろう。神は可視である。個人の理性にとって、神は二重性を持っているためだ。自然万有を支配する自然本性的神は不可視だが、個人の理性に愛をもって働きかける、自由を生じさせる神は可視なのである。まったく客観的対象でなく、主観的対象としての神において、至福直観は実現する。それというのも、神と天使の実在はアガペー的本性ではなくエロス的本性によって証明され、神の
神官団だけでなく、
「ふふ、やっと正直なお気持ちが出ましたね。お察ししますよ。模像への愛は絶対化できませんが、模像に救われなければ、あの世での救済もありえません。霊的異性は終末の時に訪れ、単独者を救済します。あなたはきっと、素晴らしく美しい天使に救われることでしょう」
「天使ではない。儂は神に救われる」
「確かに、神は全被造物の究極目的です。自分の力の範囲内にあるものをあえて究極目的とし、神の力に頼らず、自分と神が同等と思える道を選ぶことは堕落につながります。けれど、神には達しようがないのですから、それもある程度は許容すべきなのです。模像をあえて真理とせよ、という教えは、言ってはなんですが、妥協ということなのですよ。人の分際というものを守りさえすれば、地上は決して救いのない世界ではないのです」
「黙れ」
「本当ならあなたには、穢れたこの世にもっとへばりついていて欲しかったのです。地上の汚穢は殉教によってではなく、粘り強い禁欲の居直りによって灌がれるものなのですから」
両者はまったく断絶しているわけではなく、人の認識をめぐる神への到達の意見を異にする以外は、むしろ親和性のある体系といえた。だが、そこには他者を求める営為のなかに絶望を見出した神官と、一握の希望を信じたい天使学者の深い隔たりがあった。
翌朝、
「悲しむな。神の名誉を目指す学問研究を志した儂が、知のための知に躓いたということだ。知的であっても単なる好奇心は、結局虚栄として斥けられる。儂の落ちた穴はそれだよ」
天使を退けて神の直観を夢想した彼のものとは、思われない辞世の言であった。
「師の築いた神学は忘れません」
「藁屑に等しいな」
師は磔にかけられ、その足元には薪と論文を
「
神官たちは彼を囲むと、灼熱に炙られる異端者の心安らかなるを願い、祈った。
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