第26話

 成人して初めて飲む酒は甘露であり、結局その晩は、リンとジノヴィオスを相手にだらだらと飲み明かした。翌日は頭痛をおして、修道院の軒を借りた恩に報いて畑仕事を手伝った。ひととおりを終えて日が暮れたころ、ユッタはあぜ道を上がった先の街道に修道服の列を見た。すれ違うとき、その顔のひとつに見覚えがあることに気づき、振り向くとその神官も立ち止まって列から外れ、ユッタを見ていた。まちがいなく、蝶波修道都市の司祭、その人であった。

「お久しぶりですね。ご無事で安心しましたが、私が言っても空々しいだけでしょうか」

 ととのった顔立ちにも丸い目に愛嬌がある神叡者ソフィステス萵苣ちさだが、蝶波の港で雷雨をもって船を沈没せしめたのは、おそらく彼女の判断一下に動いた神官団の因果光オロイアエルであった。修道士に慈愛をふりまくその微笑は、はりつけたように見えた。

「ご無沙汰しています。とんでもない目に遭いましたが、お恨み申し上げる気はないです」

「あら、懐が深い。それに、ずいぶんたくましいお顔つきになられました。怒っていたらどうしようかと考えていたの。申しわけなくは思うけれど、お互いさまと納得してもらえたのね」

「……間者の逃走に手を貸した背教者だと、お疑いにはなられないのですか」

「やむなく船を壊した時点で、教義上はともあれ、安全保障上の目的は達しましたもの。火之本から大陸に向かう術はもはやありません。間者が海の藻屑となろうが命を拾おうが、あまり関心がないのです。もしあなたが教えに背いていたとして、私たちに何か意味がありますか」

 萵苣が足止めを食っているのを、神官団の連中も足を止めてじっと見守っていた。

「なるほど。ところで、こんなに連れ立ってどちらに行かれるので」

「面倒なことが起こってしまったんです。おいおいご相談するかもしれませんので、そのときはお願いしますね。立ち話もなんですし、あなたも都市まちへ」

 突然の神官団の訪問に、辺境の都市まちの広場は騒然とした。ひとりでも珍しいのに、数十人もぞろぞろと隠修の神職があらわれるのは異例の事態であった。平伏するやらお祈りするやら、蝶波よりは素朴な信心が残ると見える人々はあたふたとして、それぞれに神官を出迎えていた。何の御用向きであれ、天使に仕える清い乙女らの来訪に悪い気がするはずもなく、人々は歓迎の意を示していたが、ふらりとノッジシが姿を見せたとき、広場の空気は凍りついたようになった。

「まあ、奇遇が続きますね。天使博士、研究の拠点を移したことはうかがっておりました。順調なのですか」

 蝶波育ちでなじみがあるらしく、萵苣は道をふさぐよう前に立ったノッジシに声をかけた。

「順調も順調だよ。このような研究発表の好機まで、天使が与えてくださったのだからな」

 頬がそげてやつれたふうなノッジシは、片手に握りしめるように羊皮紙の束を下げていた。

「ご研究の成果なのですか?」

「儂の畢生ひっせいの大業と自負します」

「困りましたね、論文の提出は学会の査読を通してほしいのですけれど。でも、その学会の一人者たるあなたですから、せっかくのご自慢の一筆、袖にするわけにも参りませんね」

 萵苣の胸に押しつけるようにして、乱暴な手つきで論文を渡すと、ノッジシは背を向けてさっさと修道院のほうへ歩き去っていってしまった。神官らはなんら気にしたふうでもなかったが、都市まちの人々は手荒い態度に彼への不信をますます深めたようであった。場は白け、神官団は修道院に併設された専用の宿舎へ案内されていった。

(師の研究は完成していた……砂漠でお弟子を亡くし、夜間少女を愛でていたこの一ヶ月で、早すぎる。いや、隠修を決心するに至るまでに、すでに構想されていたに違いない……)

 そのとき、ユッタの袖を引っ張る者があった。ミモザが不安げにユッタを見上げていた。

「どうかしたのか」

 なるべく優しげに響くよう言ったが、ミモザは少しく肩を震わせていた。

「ノッジシじいのことを、みな悪く言うの。ロッカまで。みな、いじわるなの」

 泣くようにか細い声でぽつぽつと言う頼りなげなミモザは、ユッタの哀れを誘った。

「君はノッジシのことをよほど慕っているみたいだね」

「はじめはみなもそうだったの。えらい博士さまなのでしょう。お弟子になれば、私の知らないことをたくさん教えてもらえると思ったの。頑張ってお手伝いをして、天使さまのお話をしてもらったの。私は好きだわ、ノッジシじいのこと」

 ユッタは膝を曲げて腰を落とし、童女に目線の高さを合わせた。暖かい灰色の目が間近にユッタを覗きこんだ。

「君によからぬことをしたとがをノッジシは言われているが、正しくはないんだね」

「とが、というのはわからないけど、よくないこととは思わないの。ごめん、ごめん、と泣きながら、じいは私のなかの天使さまにお祈りをするの。お祈りはよいことなのに、なぜじいが泣くのかも不思議なの。ねえ、おにいさまはじいのはじめてのお弟子なのでしょ。なぜじいが泣くのか、なぜみなが怒るのか、教えてほしいの」

 取りすがって言いつのるミモザに、ユッタは沈黙した。なぜ、と問われて胸を張って答えがたいことが、自分には多すぎる気がしていた。

「ミモザ、ここにいたのか」

 息せき切ったロッカ青年が、ふたりに駆け寄ってきた。ミモザを見れば安らいだように息を吐くが、傍らのユッタには威圧するよう睨みをきかせ、表情は剣呑としていた。

「師が師なら弟子も弟子と疑わせる真似はやめてくれませんか。それに、昨日はどうしていたのです。あなたは彼を止めるどころか、昨晩の極めつけの愚行まで見逃して、防げなかった」

「話をかないでください。いったい、なにがあったのですか」

「昨晩、ついに彼はしてはならないことをしたのです。身に覚えがないとは言わないよな、ミモザ。もう怖がらないでいい、前のように僕になんでも相談してくれていいんだよ」

 事態の掴めないユッタを話にならん、と捨て置いて、ロッカはミモザに近づくとその小さな肩をがっしと掴んだ。ミモザは怯えて身を引こうとしているように見えた。

「布団に引き入れられて、さぞ恐ろしかったろう。息もできなかったのだろう。文句も言えなかったのだろう。悲鳴さえ上げられれば、すぐに僕が助けてあげられたのに、ごめんな、仕方ないな、怖かったのだものな。さあ、正直に言ってくれ。やつに何をされたんだ」

「な、何回も言ったとおりなの。せめて今夜はそばにいてほしいって、じいがどうしてもと頼むから、ちょっとおふとんはくさかったけど、添い寝をしてあげただけなの」

「嘘は言わないでいいんだ。じいをかばうことはないんだよ、じいは悪い人だったのだから。そうだ、神官様が来たじゃないか。神官様に本当のことを言おう。可哀想に、口にもできないおぞましいことをされたんだね。懺悔をすれば、きっと天使様がお赦し下さるよ、ねえ、」

 ロッカが言い終わらないうちに、その手をはねのけてミモザは逃げ出した。待て、と叫ぶロッカも、目尻に涙を溜めた横顔のミモザも、ユッタを置いてどこかへ行ってしまった。暗雲に曇る空から、ぱらぱらと小雨が降ってきた。ユッタは雨を避けるため、修道院の房に戻った。

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