第25話

 滅入るような出来事が多く、深くものごとを考えるにも、ひと気のある場所でそうしたい気分のユッタであった。都市まちの片隅のうらぶれた酒場に入ると、昼間から葡萄酒を舐め舐め、気だるげに卓に肘をついていたのは、リンとジノヴィオスであった。

「ユッタ。都市まちでさんざっぱら言われているわよ、君のお師匠のことは」

 ぼちぼち仕事の合間にくだをまきにきた人々の視線を、気にも留めない過激な露出で、肩まであらわな腕を上げ、ユッタに手招きかけるリンである。ジノヴィオスはその横で酒瓶を抱くようにして卓に崩れだし、すでにできあがってしまったようであった。

「知っているよ。あけすけでとんでもない小児性愛者という評判だろう」

「情報を仕入れるくらいの社交性はあるんだ。まあ、どの人捕まえたって口の端にのぼすほどだものね。現場を見ておいてなんだけど、言わせておいて構わないの」

「事実は事実のうえ、見せびらかしているようなものだからな。悪く言われたがっているのさ、ノッジシ師は。挽回させる気もないが、その被害を被っている青年にも出会ってしまった」

「ああ。ここのへべれけが愚痴っていたのが、その顛末だったわけなのね」

 ユッタにも気づかず爆睡している兄の頭を小突きながら、リンは笑った。

「あたしたちはそろそろ船のあてを探しに、どこかの港町を目指すつもりなのだけれど」

「砂漠をようやく踏破して、昨日の今日でせわしないな。もう少し休んでいかないのか」

「この国はもうこりごり、さっさと故郷に帰りたいわ。もしかして、旅のあいだに情でも湧いたの? 一緒に来たいというならば、連れて行ってあげるのにやぶさかではないのよ」

 いかにも軽やかに言ってのけるリンを見ていると、大陸での暮らしも悪くないように思えてくるが、ユッタにはまだこの国で果たさねばならないことが多く残っている気がしていた。

「魅力的だが、少し時間が欲しいんだ。しいていうなら、男としておろそかにできない義務とか、まだまだ心残りは尽きないものでな」

「なあにそれ」

「まあ、まあ」

「ユッタのくせにもったいぶって。当ててみせましょうか、君の心残りとかいうものを」

 もともと活発なたちのリンが、酒が入っているのと、砂漠を後にした解放感のためか、なおさら陽気になっているようであった。卓に置かれた、空いた酒瓶と皿の数は著しかった。

「まずお師匠のロリコン問題でしょ。あとは信仰がどうの青臭いことでしょ。それと……うーん、ほかに君には、なにがあるんだったっけ」

「ひどいことを言うな。まあその通りだが、話すまでもない下らないことがもうひとつ」

「えぇ。男としての義務がどうこう、調子に乗った男の子がマッチョを気取って拘泥することなど、ほかに女しかないじゃない。そんなにあたしといると、目のやり場に困っちゃうわけ」

 自分の胸元からへそにかけ、なぞるように手を滑らせながら、ちろりと舌先を出してユッタを見上げる酒気帯びのリンは、確かに艶めかしやかなのだが、それでも旅路で見慣れたというか、じっと見てみれば健康的にすぎるのであった。兄との不義を目撃してからは、淫乱な獣臭さすら嗅き出しているつもりのユッタであったが、ジノヴィオスが異常な霊的性愛にとらわれていることを勘定に入れると、あの光景の意味もまた変わってくるように思われた。

「リン、べつに君のことじゃないんだがなあ」

「そう? でもジーノに聞いたわよ、あれを見ていたらしいじゃない。軽蔑したのでしょう」

 ジノヴィオスがそれをリンに伝えていることは、意外であった。

「怪しい薬をもらったわよね。天妖フェアリーだか知らないけど、あいつはやるとき必ずあの薬を飲んで、頭のなかで違う女を見ながらあたしを抱くのよ。気持ち悪いったらないけど、孤児院を出てからずっと一緒にやってきた腐れ縁だからね。無下にできないかわりに、うまくあしらうのもわけないわけよ」

「では、彼を兄貴と呼ぶのも」

「血はつながってないの。この国の兄弟団を見て、じゃあってことで兄妹で呼び合うことに。それだけってわけでもないけど、あたしはそれ以上の意味を込めてそう呼んだことはないわ」

 じつにあっけらかんとした答えであった。ユッタは肩のこりが取れたような気分になった。

「にしても、年中顔を合わせる相棒なのだろう。そちらの国の貞操観念までは存じないが、気まずいというか、躰を許すのに抵抗はないのか」

「許すといったって、その、そこまではしないわよ。砂漠のとき以上に厄介な旅はしてきたわ。溜まるものもあるから、仕方なしにガス抜きをしてあげたのが最初で、あのときもそういうこと。君のところからは、どういうことをしているように見えたの」

 思わずユッタが黙りこむと、リンは酒気で上気した頬をさらに赤らめて卓を叩いた。

「そこで口を閉ざすことはないでしょう、このばか」

「すまない」

「そんなことより、本当のところは何の話なわけ。君の心残りというものは」

 そう訊ねられてユッタは、いかにも彼女と対照的な、むっつりとした少女のことを思った。思ったものの、コウとの関係をどう人に説明したものか、皆目見当がつかなかった。たまたま酒場で出会って、勘違いで一緒になり、神について語らい合ううち、ユッタが勝手に興に乗って不完全燃焼で朝を迎えた。ほんのひととき、そのような奇妙な関係を築いただけである。私窩子として買ったわけでなし、恋愛やら何やらの人情に結びついた風情があるでなし。今になって胸に問えば、まるで一夜の夢のような、はかないつながりの記憶だけがほんのりと浮かびあがってくるばかりであった。

「その顔は、やっぱり女のことを考えているのではなくて。むかつくやつね」

「決めつけたがるなよ。何にむかっ腹をたてているんだ」

「ここでいう女って人形のことじゃない。あたしのような美人を目の前にしてまだ人形に未練があるなんて、おかしいのではないのかしら。ほんと、どいつもこいつも」

 今はリンの私窩子嫌いに食ってかかる気もなかった。修道と売淫に引き裂かれた火之本人としての現実に、ユッタは答えを出せていないが、リンという人間の現実のありようにも、ようやく目が向けられるようになってきているのであった。通じ合えるところのない異人ではなく、ひとりの人間として対等に彼女と語らい合えることが、やけに嬉しく思われた。

 なにげなくリンが差し出す葡萄酒の盃を、ユッタはほんの少しだけ舐めてみる気になった。

「べっつにいいわよ。人を人とも思わないより、人とも思われないものも人と信じるほうが、感心っちゃ感心ですからね。それを人間からの逃避とするからおかしくなるんだわ。まあまあ、あと数日は逗留するつもりだから、やり残したことはさっさと片付けてきなさいな。少しぐらいなら、待っていてあげるから」

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