第24話

 ユッタは不可解と空きっ腹を抱えて、修道院の寂れた食堂を訪ねていた。

(結局、聞きたいことははぐらかされたようだった。師の内心をまるきり察せない自分ではないと、思い上がっていたのがいけないのか。理性の傲慢を戒める神話に、それを確認させたものか。ともあれ、腹に何か入れねば、その真意を汲む努力すらままならない……)

 蝶波のそれに比してやはり狭苦しい空間で、ユッタが食卓に選んだ長机は四つ脚の裏がすり減っているらしく、手を置けばがたがたとわずかに揺れた。もそもそと麦パンを噛んでいると、向かいの長机にふたりの人影が座った。ミモザとジノヴィオスである。奇妙な組み合わせであった。

「なあ、あんたさんはめんこいなあ。そっくりだよ、俺の天妖フェアリーに。俺はひと目で、あんたさんこそ俺の天使だと確信したんだけれどなあ。どうだい、よお」

「……フェアリー、ってなに」

「見えども触れられぬ、けちな女房さ。要は同じよ。あんたがたはそのお茶目なぽんぽんの奥に刻まれた、ただひとりの天使に愛されることを待ち望んでるんだろ。俺の場合、その見ず知らずの天使が不思議なことにあらかじめ見えちまうんだ。彼女とあんたは似てるんだよ」

 ぽっこりとしたお腹をおさえて恥じらいがちにうつむくミモザに、ジノヴィオスは物を口に含んだまましつこく話しかけている。年端のいかない者にねちっこく絡むさまは呆れたものだったが、彼の恥知らずな口説き文句にユッタは耳をそばだてることになった。

「男の人のなかにも、天使さまがいるの……」

「ああ、いるさ。女の側だけじゃ不公平だろ。というより、俺こそが相手の女の天使だと信じこみ、信じこませることで、俺はそいつの天使になれるし、俺は俺の天使をそいつにできるんだ。そう教えられたろ、ほかならぬ神官様やここいらの大人によ」

「まだよく……わからないの」

「そりゃ、やらなきゃわからねえことさ。減るもんじゃなし、お兄さんにいっちょ教えられてみる気にならねえか、おい」

 ユッタは、リンを抱くジノヴィオスの背中と、そのことに何の屈託もないような物言いと、彼の秘薬の効果を思い出していた。おそらく天妖フェアリーとは、ユッタも幻視したあの女性のことである。それが彼にとってあの童女と似ており、だからふたりは天使に祝福されるべきカップルなのだと主張するのは、どういう感覚からなのか。推測するに、血縁者のみならず童女も抱こうという人倫にもとる振る舞いは、無節操に見えてその実、強固な内的論理に支えられているのかもしれない。つまり、彼は彼女らを彼女ら自身として認識せず、そこに自らの幻覚にしか現れえない天妖フェアリーを重ね見ているのだ。生身の人間を捨象し、幻想を受肉させる触媒として用い、薄寒さの伴う幻の愛に人肌をもたらさんとしているのである。

「よお、坊主からも言ってやってくれよ。敬虔深い修道士様なら、はじめての一歩に迷える子羊を救ってやんなっての。経験は俺のが豊かだがなあ、はは」

 言われてもユッタは、火之本人の宗教感覚を狡猾に悪用せんとするジノヴィオスに慄然とし、またそこに悲しみをも見出されて、てんで駄目な冗談を叱りつけることもできなかった。それほどまでに肉身の女との感情の共同を断ち切り、手前の都合で幻覚の女を投影せざるを得ないとは、いかな病巣があってのことか。彼の行いが醜くとも、ユッタにはそれが他人事とは思えない。物質界の汚濁を切り捨て、人間理性でのみ純粋に可知的な天界プレローマの天使たちを観想するほか救いのない火之本人として、そのような聖書の教えに直截な恋愛の不可能を仮託して語った神官の国の民として、ユッタはその信仰の薄暗い裏面を見せつけられていたのであった。

 助けを求めるように視線を送るミモザに気づいた。推察されるジノヴィオスの歪んだ恋愛観はどうあれ、現実に幼い少女を傷つけてしまう危険性に無自覚な彼の行動は、指摘してよいことである。食事を済ませ、注意しようと立ち上がったユッタだが、その傍らを走り抜けてゆく者があった。肉の弾ける鈍い音と、食器の散乱する乾いた音が響いた。

「次に彼女に指一本でも触れたら、これでは済ませないぞ、よそ者め」

 さっぱりした短髪と青い瞳が、凛々しい印象の青年だった。食卓とともに殴り倒されたジノヴィオスから離れ、ミモザは青年に走り寄った。怪我の有無を訊ねられ、首を横に振っている。ひとまず安心したらしい青年は、ユッタに振り向いて苛立たしげに口を開いた。

「院長のお弟子がいらしたことはついさっき聞き知りましたが、とんだならず者を引き連れてきたものです。判断力のない子供相手に、どういう神経をしているんですか」

 ユッタは場を収めるために平謝りで頭を下げ、寝ぼけたような顔で起き上がったジノヴィオスが逆上して突っかからないことを願った。それが功を奏したわけでもないだろうが、意外にもジノヴィオスは余計な口をきかず、青年を睨みつけながらもすごすごと歩き去っていった。

「いったいどういう人間なのですか。お里が知れますよ、同じ蝶波の人でしょう」

 異邦人とは言えず、リンとジノヴィオスは蝶波の漁師だと周囲には偽っていた。

「貞操の乱れた無頼漢のこと、ご無礼はいくらでも詫びますが、あなたは?」

「ロッカといいます。ミモザとは、隣の房です。保護者づらをするわけではありませんが、まあしてしまいましたけど、そのよしみだけでのこととは思わないでください」

「仲がおよろしいので」

「ん、いや、そうですね、まあ」

 はぐらかすよう鼻をかいて青年は言った。ノッジシになつくようではなくとも、頭を撫でられてまんざらでもない顔のミモザを見れば、仲睦まじきことは明らかであった。男女のそれというより、古文書での知識ゆえに使いづらい形容だが、それこそ兄妹のそれと思えた。

「……礼拝服アルバを見るに、やはりあなたが院長の」

 先までの激した様子もなく、青年はおずおずとユッタに訊ねてきた。

「あまりいい弟子ではありませんでしたが、古く馴染んではきているつもりです」

「そう、ですか。お訊ねしたいことは少しくあったのですが、ためらわれるものでして」

 青年の表情に、苦いものが混じっているのをユッタは見て取った。

「本人にできない、かつためらったままにもしておけないご質問ですか」

 ユッタにしても、師がまったく無邪気に慕われているとは思っていなかった。少なくとも、その同郷らしい者であっても、悪行には有無を言わすことも容赦もなかった。都市まちの若者に探りを入れさせるような不審の気配が、やはり覆い隠せてはいないのである。

 迂闊だった、というように口をおさえると、ロッカは席を外すよう、ミモザに目顔で伝えたようだった。察しと融通のきく娘らしく、気にかかることに違いないのをおくびにも出さず、ミモザは小走りに院の外へ出て行った。

「……なついているあれに聞かせたくないのは、間違いないことです。どころか、疑惑の渦中の中心にいるのが、ほかでもなく彼女なのですから」

「あれは、夜ごとのことなのですか」

 ゆうべ見た光景の意味は、まさに師に問うてみて、つまびらかにされなかったことである。少女と親しき若者の心はさぞかき乱されることであろうと、重く受け止めたユッタの表情に、ロッカも事情を打ち明けるにあたう信用を置いてみる気になったようであった。

「あれは一年ほど前、凍境からここに送られました。いかにもへんぴで活気のないこの都市まちですから、家畜と戯れる以外に能のない大人ばかりです。あれの面倒をちゃんと見てやれる修道士は僕くらいだという自負はありました。暴力沙汰で兄弟団から爪弾きになった僕が、人に修道の徳を教え、健やかに育むなどと浅ましいこととは思いましたが」

 背丈はユッタよりやや高く、肩幅も広めで、貫頭衣チュニックに浮き出る胸板も厚みがあった。全体に細身だがよくよく見れば筋肉は密で、動作のきびきびしたところも含めれば、精悍といえなくもない青年である。

「あれが僕よりふさわしい寄る辺となる者を見つけたならば、喜ぶべきとは心得ていました。四六時中くっついて、研究の助手を気取る彼女は幸せそうでもありましたから。でも、夜に着いたそうですが、おそらく扉は空いていましたよね。恐るべきことをしながら、人目をはばかるつもりもないのです、あの老いぼれは」

 ロッカの語気はしだいに勢いを増していった。漏らした罵言にしまった、という顔をしたが、ユッタは気にせず、というふうに頷いてみせた。

「夜ごとも夜ごとなのです。夜を徹することもありました。最低限の分別はあるのか、あらぬことまでは及んでいません。ただ一晩中、あの薄いおぼこの胸に顔をうずめているのです。触れるのは腕を回した腰と……ただ顔面と頬でって、胸だけを」

 言った自分で気分を害したらしいロッカであった。歯を食いしばり、拳はジノヴィオスを殴ったときのまま固く握りしめられている。これほど事細かにして確言するのは、一晩中でもふたりの様子を扉の陰からうかがっているためであろう。淫らながら煮えきらず、決定的な間違いにまでは至らない老人の色ぼけに、迷惑を被っていればまだしも、おそらく幼いミモザに性観念などいまだ芽生えていないのである。何のお遊びかと不思議がる程度で、平生は穏やかな賢人を無垢に信頼する感情に変わりはない。親愛の少女が倒錯の愛玩を危うく受け入れているさまを、寝ずの番で見守り続けて溜まりに溜まった鬱憤は、察するにあまりあった。

「度重なることで、先の彼には余計な怨念をこめて手を出してしまったかもしれない。もう、僕の忍耐も持つ気がしません。お願いします、これ以上僕を悩ませないでください。どういう人なのです、本当に、彼は、あなた方は」

 同じことを訊ねて、ついに答えをきけなかったユッタには、沈黙させられるに十分な質問だった。それでも、弟子として師の暗闇を、なにかしらの言葉にしなければいけない気はした。

「師のことは、小生にもはかりかねるものを感じます。ただ、自分にも何か奇妙に身に覚えがあり、それはもしかしたらあなたも同じかもしれない。源はひとつだと思うのです。それをいつか明かしたいと思いますが、今ひとまずの解決を見せろというならば、もう少しだけ考える時間をいただけないでしょうか」

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