第22話
その晩のユッタは、疲れを取るため早々に寝床についた。翌朝はノッジシの房で、まずはここにいたった互いの事情を語らい合うことになった。
「……大変な困苦があったようだな。その果てに出会えたのも、天使のお導きといったところであろう。
「こちらにお着きになったのは、いつごろになりますか」
「
ノッジシは
「砂漠の庵では、やはり研究がはかどりますか」
「芯からはかどれば、ここでのうのうと院長をやってはおらんよ。俗世の喧騒なぞ、
目を細めた師の顔に、拭いがたい
「地上の監視者であったのが肉欲に駆られ、女共を犯して
ユッタは目を閉じ、黙祷した。かけられる慰めの言葉が見つからなかった。
「……ほうほうの
そのとき、房の木扉が開かれる音がした。見やると、昨夜見たおかっぱの童女が簡素な衣服に前掛けをして、ふたりのあいだに入りあぐねているのか、もじもじと戸口に立っていた。
「ちょうどよい。
ノッジシが手招くと、こくりと頷いて房内に入ってきた。並べば老人の座高に、やや届かないほどの身丈である。ひとつひとつの身のこなしはびくびくと縮こむようで、気の小ささが推して知れた。ノッジシに促されて会釈し、ユッタを見上げるのも首元あたりにとどめている。
「
言いながらノッジシは童女の小さな頭を、大きく節くれだった手でくしゃくしゃと撫でた。ミモザはあからさまに赤面し、床に視線を落として薄い唇をなおさら固く引き結んだが、老人の長衣の袖を引っ張って用件を伝えようとしているようであった。
「そうか、朝食か、そういえばまだだったな。今朝は軽くで、彼のぶんも頼めるかい」
ミモザは頭を上下させると、とことこと小走りで房を出ていった。食堂に向かうのだろう。ユッタはいくぶん気重さが和らぎ、童女を見届けるとノッジシに向きなおった。
「……かわいいお弟子さんではありませんか」
振り向いたノッジシは、別れのときに見せたあの澱んだ瞳に、暗い眼光を宿らせていた。
「そう言ってくれるか。そう、言わざるをえないか。教え子を見殺しにして老い先をつなぎ、世事を捨てるどころか名声にいわせて役職に就いた、厚顔が過ぎてもはや憐れましい儂には」
腰掛けに座しながら、ユッタは立ちくらみのような心地を覚えた。師の鬱積と自責の念を、自分に受け止められる気がしなかった。迂闊なことは口に出せず、不運に躓いてしまった今のありようの是非を問うより、その発端にあった師の思惑から問いなおすことのほうが、自らの関心にも誠実であるとユッタは結論した。
「ノッジシ師。あなたが隠修を決意した理由だけ、お訊ねしてもよろしいでしょうか」
「頭からずけずけと無粋を言ってくれるのう。命の恩人を小間使いに走らせるろくでなしと罵ってくれれば、どんなに儂が楽になれるか、一番弟子のお前なら重々承知しているだろうに」
「小間使いで済みますか。昨夜のあれは、祈りだったのですか、渇望だったのですか」
あのとき垣間見てしまったものが、ノッジシという人間の核心に根深く関わっているということは、自らの懊悩と照らしても明らかであった。ノッジシはくまの深い眼で、不機嫌そうにユッタを見た。
「お前がかつて
「火之本の教えの源は、神官たちの異性嫌悪です。祈りは神に向かう観想を装って、その実、過去の男への未練ではありませんか。俗な古文書を読むまでもなく古典的ですよ、遠距離恋愛というものは。そのような湿っぽさは、我々にも浸透せざるを得ないでしょう」
煮え切らない師の物言いに我慢がつきたユッタは、問題の底流について切り出さざるをえなかった。ノッジシはやや腰を浮かし、また椅子に座りなおした。
「天使の原型は現実の異性にある。天使と女を同化させてしまうお前の魂の宿痾は、むしろ本来的かつ自然であり、国の精神的土壌にもともと用意されていたと言うのだな。だが、そのような性愛論への一元化は、すでに神官が自戒しているだろう。
「そうすることで語るに値しない自明のことと棄却したのではなく、信仰の困難を信者に表現したのでしょう。それが正しく民に理解されず、逆説的に開き直りとして性愛の肯定論理に利用されている。素朴な人間論でしか捉えられていないんです。でも本当の眼目は、神ですよ」
「なまじ、
「ええ。
「教義上は前者だが、本音には後者なのは儂も腑に落ちておるよ。神官ら自体、揺れておる。自省の契機と超越の契機を並置しているのだ。私的で素朴な信仰感情から出発した神官の教えでは、この神話を国家宗教には据えられない。神官の解釈を普遍化する過程こそが天使学であり、その裏面に未だ充満している情念の臭いを塞ぐ蓋なのだと看破したお前の論文は、一面の真理を得ていたよ」
ノッジシは一度言葉を切り、まぶたを揉みながらユッタに問うた。
「……頭が痛くなるわい。基本に立ち返らないか。人の愛欲の葛藤を表現しうる神格が天使だと定義し、一度措こう。その前に、そこに前提されている、神とはいったいなんのことかね」
ユッタは喉の渇きを意識した。ひとつ息を吐いてから、再び口を開いた。
「天的な偉大なる霊。もっとも普遍的かつ客観的なもの。肉を持たず目に見えないが、人の知性が作り出した概念ではなく、確かにそれ自体として実在し、人間と同じく精神的主体性を持つ者。救済原理の根源であると同時に、永遠に人間と対峙する絶対他者。その身から万物を流出させた一者にして、端的に、世界の原理。しかし、彼自身に関する具体的な記述は聖書に皆無であり、その真理の力を分有する
ノッジシは重々しく頷いてみせた。
「聖書ですら口を閉ざし、神官も至高神への信仰は実現しえないと諦観する。にも関わらず、なぜ我々はそのような究極の超越存在のことを考えずにいられない」
「我々があり、自然があり、世界がある。それを存在せしめる第一の根拠が知れないためです。あらゆる不可思議の背後にあって、それを原因するものを素描せんと欲するためです。人の知性が及ばないものを解明すべく、それらを神の名の下に――本来不適切な言い方ですが、綜合的探究の便宜として、そこに集約する必要もあったためと言えます」
一息つくと、ミモザが朝食を運んできた。一礼し、童女はそそくさとまた引っ込んだ。
「……そうだな。ところで、人にそのような形而上学の動機を与えたものは、もっと根源のところにあるな。我々にあまねく先天的に備わった特別の知的能力、それをなんと呼ぶ」
「理性です。感情を退け、論理にもとづき思考する働き。感覚を越え、抽象を認識する働き。人にあって動物にない、神を見るための力であり、また、人と神とに似たところがあるとすれば、それはこの理性の存在においてのみ考えられるようなものです」
息が詰まるような空気のなかに、牛の乳の匂いがぷんと漂ってきた。
「ああ。人の心の動きにおいて最も重要なものであり、どころか、この地上の世界で最も優れて上位にある能力……はっきり言えば我々の自我、本来的自己といったものともイコールだ。人の本質は感覚でなく知性にあり、であるからこそ神は我々に恩寵を与え給う」
「そのことの神話的表現が、
「話が込み入るのはそこからだな。修道の徒ならもちろん、暗誦するほど読みこんだはずだ」
ノッジシは大口を開け、蜂蜜の塗られたパンを頬張った。ユッタも腹が空いたが、続けた。
「聖書には神の流出が語られます。至高神の自己思惟に
ノッジシは牛乳を干しながら、ユッタに続きを促した。
「
「とんだ熱愛だな。理性こそが意志の自由を保証するという主知主義的な神官らの人間観は、このあたりからひねり出したものだろう」
「ですが、これは禁忌であり、神への背反として罰せられます。
ノッジシはユッタのぶんのパンにまで手を伸ばした。それを認めつつ、ユッタは続けた。
「ただ、
神話のあらましを一息に話すと、緊張の糸が切れてどっと疲れた気がしたユッタであった。
「ご苦労だが、やれやれの一言だな。集約すれば、理性による愛の凄絶さと、その限界を語る神話といったところか。この聖書自体は神官がでっちあげたものではない、編纂者も成立年代も不明な文書というのだから、未だに信じがたい」
「天使軍の神話的伝記しかり、詳述のない
わかりきったことを、といぶかる気持ちはあった。ユッタは喉を湿すため牛乳の杯を持とうとしたが、素早く伸びたノッジシの手がそれを奪った。まっさかに杯を傾け、二杯目もぐい飲みにした師を前に、さすがにユッタはむっとした。
「なんだその顔は。感覚の快を妨げられたことに、修道士が苛立ってどうする。青い青い」
「学会の権威たる天使博士のあなたが……なんなのですか、おとなげない」
「権威がなにほどのものかね。穢れた神が経綸する
「冗談でも茶化すのはやめてください。教義の表層の厭世感にかぶれたニヒリストの月並みを演じていれば、罪悪感を忘れられますか。
ユッタを見返しているはずのノッジシの目は、瞳孔が開ききるとぽっかり穴の空いたようで、どこを見ているのかもわからなかった。
「お前に言えたことか、それは。恥ずかしくはないか、おい。わかるはずもないのではないか、探究の挫折を補償するため信徒ぶっているようなお前に、儂の崇高な観想とやらは」
憤ったように吐き捨て、ノッジシは立ち上がった。戸口に立って振り返ると、ノッジシは渋々というふうな口調で、ユッタに言い置いた。
「……理性の無限という夢とその有限という現実を神話に認めているならば、物欲しさが先立つような天使の希求は斥けるべきだ。敬虔なんぞに腐ったお前に、まだ果敢にも学とやらを身につける気があるのなら、腹を決めておくことだな。甘美な天使への愛を語って普遍に達した気になる前に、否定神学でのみ記される、絶対他者たる至高神との対決が来たるべきことを」
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