第21話

 異形ネフィリムの襲撃をかいくぐり、飢えと渇きをぎりぎりのところでごまかしながら、何十日も砂漠を歩いた。ジノヴィオスはあの薬を服しながらおぼつかない足取りで歩き、時たまユッタにもそれを勧めたが、リンの燐光ハルモゼルに守られている手前、否、それでなくても拒まなければならない一線が、ユッタにはあるように判断された。

 荒涼とした景色のなかに小さな泉を見つけたときは、涙が出かけたユッタであった。砂漠の果ては見つからなかったが、地平線の先に遠い山脈の影が見えた。ただたださまよい続けるよりかは、見当をつけたほうが歩きやすいのは確かであった。

 近づくにつれ、連なる峰々は若緑に色づいていることがわかってきた。そのころには砂漠が途切れはじめ、砂地と草地がまだらに続くような地形が目立つようになった。草原が広がるほうへ、踏み固められた街道などを探すようにして行く手を変える。気温はだいぶましになり、山裾にさしかかると涼しいほどに感じられ、風の吹くほうへ山に沿ってゆくと、木々の隙間にリンが洞窟を発見した。

「砂漠を抜けてみたところで、まるっきり人の暮らしの形跡がないのは変わらないわね。遠目に見渡した感じ、ここって山懐やまふところに抱かれた陸の孤島と思われないかしら」

 火打ちに苦労して松明をこしらえると、抜けた先に人里があると信じて、一行は洞窟に潜った。水と果実の備蓄も心もとなく、どこに続くともしれない暗闇の岩窟に這入るのは自殺に等しく思われたが、冒険慣れしているらしいリンの胸を張るさまだけを、ユッタは頼みの綱にして後に続くしかないのであった。

 時間の感覚はなかったが、二日は経っていた。何十本目かの松明が消えかけたとき、うっすらと手近に照らされた濡れた岩肌に沿っていった先、火明かりではない、射すような白い日光が見えた。歓声を上げて洞窟を抜け、見渡せば、再び一面の砂漠が目の前に広がっていた。

「あたしの方向感覚が正しければ、まっすぐに抜けてきたはずなのよ。同じ砂漠に戻ったとは考えにくいわ。自然に対して恨み骨髄に徹してもしようがないけれど、まったく勘弁してほしいものね」

 気落ちしているだろうに、冗談めかしてリンは言った。その強靭さに幾度も舌を巻くような思いをし、甘美な薬の誘惑があっても申し訳なさが勝ってしまう心境のユッタであった。

 冷えきった砂上に襤褸ぼろを敷いて横になるたび、コウの体温に包まれたあの閨を懐かしく思った。ささやかな温度でも恋しかったが、リンに劣情を催すことはできなかった。いつもあられもない姿を晒している彼女だが、水辺での一件以来、何か腹の底で蛇がとぐろを巻くような言い知れぬ生理的不安感が、ユッタをして彼女に根深い警戒心を起こさしめるものなのであった。それでいて、砂漠の道中に気力を失わぬためには、彼女とジノヴィオスの由無よしない軽口がありがたく感じられもするのである。そうこうするうち、漂着から一ヶ月以上も経ったのではないだろうか。

 泉が見当たらず水も尽きかけ、いよいよ危機に瀕した一行の視界の先に、外壁を建てた修道都市の影が見えてきた。とっぷりと日が暮れて橙色に染まる砂漠を一目散に駆け、そこにたどり着くころにはすでに夜も深まりはじめていた。

 都市まちの入り口の青銅の大門扉は、押せばあっさりと開いた。関所で居眠りをしていた門番を起こして訊ねれば、ここは饗境きょうきょう修道都市というらしい。

「たまげたもんだな。漂着したって、南の海からは山と砂漠を隔ててずいぶんあるって聞いているぞ。運の良い連中だよ、天使様のご加護ってやつだろうな」

 蝶波ちょうばと比べると規模の小さな都市まちらしい。門と関所を抜けて石畳を進んだ先の修道院に、灯りのついた房はまばらである。深夜に当然だが、人の気配が希薄だった。

「宿に案内してくれないか」

「こんな辺境によその人間の来ることが、年に何回あると思う。そこの修道院に空いている房がある、院長に許可をもらって借りることだ」

 錆びた鉄扉の門構えをはじめ、修道院は全体にものわびしく、ほこりっぽい空気があった。門番に教えられた修道院長の房は、扉がなかば開いていた。ユッタが歩み寄ると、その気はないが内部の様子がうかがい知れてしまった。

 前下がりのおかっぱ髪をした童女の前にひざまずく、老年らしい男性の背中があった。拝跪はいきしているようにも、腰に手を回して抱きついているようにも見え、ユッタのところからは判断がつかなかった。ノックをするか、声をかけるか迷ったが、童女に気取られてしまったらしい。なにか言いかけている童女の様子に気づいたか、老人がゆっくりと振り向いた。穏やかな目元と、豊かにたくわえられた白髭に、思い当たるところがあった。

「……ユッタではないか」

 ノッジシの表情に驚きの色が浮かんだ。ユッタにしても同様で、あとについてきたリンとジノヴィオスへの説明もさておき、ユッタは再会の師に駆け寄った。

「どうしてここに……ともあれ、お懐かしゅうございます」

 心細い砂漠の旅からの解放と、期せずして旧知の人に巡り会った喜びで、ユッタは知らず涙声になった。なにより、砂漠への隠修を告げて消えた師の無事を見て取れたのである。感動のあまり腰が抜けたようなユッタに、ノッジシは強く頷いて、その肩をひしと抱いた。

 呆気にとられたらしいジノヴィオスとリンは、目をぱちくりさせていた。

「ロリでも稚児でもいけるなんて、なかなか見られない肝っ玉じじいのようね」

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