第20話

 しばらくして、リンとジノヴィオスが洞穴に這入ってくる気配があったが、ユッタは焚き火に背を向けて、すでに横になっていた。ふたりのあいだに言葉はなく、いつしか眠りについたようであった。

 自分に根っから性嫌悪のがあるとは信じないが、先の光景は獣のまぐわいとしか思えないユッタであった。近親相姦、という古文書で読んだ禁忌の概念が思い浮かぶ。異性の肉親が存在しえない火之本の民としては、実感の薄いフィクションにすぎず、ユッタの感情には関係しないことである。それだのに、理由のない忌々しさが腹の底に煮え立つ自分に、戸惑うところが大きかった。胸中渦巻くものに入眠を妨げられ、悶々と一夜を過ごした。

 浅い眠りから覚めると、胸板と太ももがまさぐられている感触があった。起き直ると、背中に寝ぼけまなこのジノヴィオスがへばりついていた。

「うっわあ」

 勢いまかせに肘打ちを当てると、うっ、とうめいて地べたに転がった。体臭なのか、湿ったような生臭さが鼻についた。ジノヴィオスはゆっくりと髭面を上げてユッタを見た。

「お前だったのか、しらけるなあ」

「妹と間違えたと言ったらみぞおちを蹴るぞ」

 思わず吐き捨てると、ジノヴィオスはゆるめきっていた唇を引き結んだ。打たれたところをおさえながら大儀そうに起き上がると、頬のこけた顔に細い目を更に細めた。

「昨晩のを見てたのか。お恥ずかしいかぎりってもんだが、勘違いしてもらっちゃ困るな」

「当て推量をするが、そちらのお国では禁忌とされていることではないのか」

「鋭いじゃないか。見かけのうえでは咎められても致し方ないことなのは、そうさな」

 弁明する気があるのかないのか、曖昧なことを言いながら、ジノヴィオスは口角を上げるだけのぎこちない笑みを浮かべた。ユッタが不審を視線に込めると、ジノヴィオスはあくびをしたのち、やおら懐をまさぐって、手のひらに収まるほどの革袋を取り出した。

「知ってるか。神を見る秘薬だ」

 ジノヴィオスは革袋の口から、青緑色をした米粒大のものを摘んで出してユッタに掲げた。

 目の前の怪しげな男が何を言ったのか、ユッタはしばし黙考したが、笑止というほか結論がなかった。ユッタが小首を傾げてみせると、ジノヴィオスはその手を取り、薬の一粒を握らせた。

「生真面目坊主がご存じないのも無理ねえ話だ。異国のやべえ代物と見当違いしちゃ困るぜ。紛れ込んだ木菟樹つくぎ都市まちで手に入れた、純然たる国産ものよ」

「掴まされたもんだな」

「一発きめればお前もわかるよ。きめなきゃわからん。はじめてじゃあよっぽど飛ぶから、気いつけるこった。リンと食い物でも探してくるから、ゆっくり味わってみるんだな」

 言い捨てると、ジノヴィオスは洞を出ていった。どうしたものかと、ユッタは一粒の秘薬とやらを手のひらで転がした。顔に近づけると、やや青臭い。植物を練った丸薬のようだった。

 ジノヴィオスの態度には、犯すべからざることを目撃された人間の羞恥や怒りがなく、どころかお仲間でも見つけて馴れ馴れしく笑いかけるような面持ちですらあった。肉親を泣かせる背徳をなしたにしては、ずいぶん軽薄に思われる。その不可解に、言いがたく重い頭痛を引き起こされるユッタであった。

(そもそも神の直観とは、具象と抽象に神格を分離するわが国で言える売り文句か。仮にまさしく火之本の一地域で製造されているとして、教えに背く戯言が吐けるほどの根拠があるものか。どうも昨夜から暴れている腹の虫、それを確認してやることで収まるだろうか……)

 やたらとユッタに侮り深いジノヴィオスを相手にする気はなかったのだが、思い返せば今さらながらに、怒りに油を注がれるものがあった。舐められてはいけないという気も助長し、ユッタに行動へと踏みきらせた。洞から水辺へ出、雲ひとつない空から降りそそぐ日差しを反射して輝く、水面みずおもてから一口ぶんを掬った。ひと睨みしてから薬を舌に乗せ、水で飲み下した。

(いやに甘ったるい……)

 たった一粒でむせるようであった。続けて顔を冷水で洗うと、頭がすっきりする気分がともなった。名も知らぬ鳥のさえずりを聞く、清澄な朝である。まったく信じなかったわけではなく、だからこそ試してもみたのだが、もちろん神が現れることはなかった。嘆息し、手持ち無沙汰に青空を見上げていると、ふいにかさり、と枝の鳴る音がした。

 音のほうを見ると、湖の対岸の木陰に人影が動いた気がした。ジノヴィオスにしては小柄で、リンかと思ったが、髪は銀色でなかった。まだ、茂みのあいだに確かに見え隠れしている。あのふたりが昨晩隠れていた、こちらから死角になる岩場に向かったようであった。

 この土地がどのあたりかわからない、漂流者の自分を思い出した。近隣の都市まちの者なら、道を訊ねることもできよう。慌てて立ち上がり、「すみません」とユッタは声を上げた。いらえはなく、ユッタは仕方なく湖岸づたいに岩場へ歩いてゆくことにした。

 たどり着いたとたん、紫水晶のような瞳と目があった。昨夜のリンと同じ場所に、その少女は佇んでいた。ごつごつとした灰褐色の岩肌に背を投げ出し、全体に上気して桃色の肌がほとんど半裸で、朝日を受けてくっきりと見える。シュミーズのようなゆったりした半透明の肌着のみをまとい、長い亜麻色の髪を白魚の指でくるくると弄び、甘い笑みを浮かべてユッタをまっすぐに見つめるその美貌。ぎくっとして、ユッタは動けなくなった。

 妖精、という語は古文書で見つけたものだが、つきづきしい形容と思われた。お互いに黙りこくってしまい、ユッタは混乱してとりあえず視線が痛く、女の脚に目を落としたがその肉感をそそるほど生白く長く綺麗なことにまたも混乱した。

「その、そのぉ……そんなに見られると、恥ずかしいです」

 美しい少女は頬を赤らめ、困ったように眉尻を下げてユッタに上目を遣っていた。どっと汗が吹き出し、ユッタは少女に背を向けて謝罪した。

「とんだご無礼を……この近くの方でしょうか」

「はい、とってもすぐ近くの人ですぅ」

 ふわふわとした声音に伸ばすような語尾。やはり、ほど近いところに人の住む場所があるようだと安心したユッタを、背後から包むような気配があった。少女に背中を抱かれていた。力は入らず、感触がどうというよりは、眠くなるような香りに鼻をくすぐられるのがやけにこそばゆい。緊張で躰はこわばったが、心地は夢見るようであった。

「いったい、ええと、なにをしているので」

「言わなければだめです? なにをされても、ということですよ」

 耳に吹きかけられるように少女の吐息を感じた。生唾を飲む音は自らのものだった。あらぬところに触れてしまいそうで身じろぎもできないユッタだが、少女は構わず躰を押しつけ、ついには顔に顔を近寄せ、あわや唇も触れようという瞬間であった。

「おいっ」

 耳元で大音声だいおんじょうを張り上げられた。総毛立つような衝撃でユッタが振り返ると、亜麻色髪の少女の代わりにしかめっつらのリンがいた。

「あれ……」

「あれ、じゃないでしょう。こんなところで馬鹿づらぶらさげて、なにを突っ立っているのかと聞いたのよ。単独行で野垂れ死ぬのは勝手だけど、後味が悪いことは分かりなさいよね」

 周囲を見回しても半裸の少女は見当たらない。まあそう変わらない露出をした少女がいるにはいるが、なかなかの迫力できっ、とユッタを睨みあげるところは似ても似つかなかった。ただ、この場所で艶夢えんむめいたものを見させられたのは、彼女からも同様である。

「……ぶらついていて悪かったよ。そろそろ発つのか」

「準備は済んでいるわよ。あてもない砂漠越えなのだから、水はたっぷり持って」

 先ほどの少女がリンに見えていないのならば、このことは彼女に言わないほうがいい気がした。寝起きのジノヴィオスのすけべづらから思い当たるまでもなく、おそらく例の薬の効能とはこれである。あの少女を神と呼ぶジノヴィオスの真意は定かでないが、ユッタにもまったく不本意という白昼夢ではなかったのだ。胸のざわつきが、リンを目の前に口をつぐませた。

 ジノヴィオスと合流すると、ユッタたちは春の終わりから真夏じみて太陽が燃える、砂漠へと足を踏み入れた。

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