第17話

 ヤッセに聞いたところでは、赤ん坊のユッタは馬小屋に捨てられていたらしい。

 馬糞まみれでさぞかし汚い赤子であったろうに、拾ってやった麒麟菜の婆の気が知れない。

 生命の誕生をなにより尊ぶ火之本に、捨て子などめったにいない。そもそも、出生の秘匿が大罪に値する国である。とすれば、親によほどの事情があったのだろうと察せられた。たとえば、気の合わない男の種で奇跡的に孕んだ母親なら、結婚後も望まぬ多産に励まねばならず、隠蔽を図りもするだろうが、業の深い話で、気分はよくない。

 なにせ、物心ついたころから変化の乏しい毎日であった。野に出て家畜を追ったり、収穫を手伝ったり、ヤッセの兄弟の同年代などと都市まちのあちこちで遊びまわったり、幼年期はまだそのような日々を無邪気に笑って過ごしていた。その幸せを生意気にも他愛ないことと遠ざけはじめたのは、そう遅い時期ではない。しけた修道院で一生を終える境遇と知りながら、性根の腐らないやつのいるほうが不思議であった。

 少数の真面目なほうの修道士らに、日課の祈りや霊的読書の意味を初めて問うたのはいつだったか。修道士の意識をなくした実務者と同じく、彼らからもお国の教えだから素直にやりなさいと、理屈を省いたお題目の異口同音をいただいたのは失望だった。それは根本からの問い直しを許さない単純な集団内不文律で、到底ユッタの曲がった性根を正すものではなかったのである。しかし、当時の修道院長であったノッジシがぶつぶつと聞き取りづらい声で説く、微に入り細に入る神話と信仰の講義には、抗いがたい眠気と同時に、少年の見知らぬ世界へも導かれるところがあった。

 質素な修道院内学校で教わる基礎教養は牧畜と農耕の技術、あとは神話の注解と修道士の心得程度で、そのほかには耕具や農具作り、漁業、石工、冶金やきんといった各分野を職人に学ぶしかなく、それは修道士に霊的読書と同じ重みで課せられる肉体労働の義務がゆえに、その専門に携わる労務者になる道とひと続きになっていた。もちろん、建築のために幾何学や算術を学ぶことがあれば、教会音楽の演奏や合唱のために音楽の理論を得ることもあるし、何事にも最低限の言葉を知ることは必須である。だが、それらの知識は実用に奉仕する以上の意味を与えられず、学問として独立するところがなかった。

 なかでも、最も実務に結びつかないのは歴史である。たまの神官の説教に観想歴五九八〇年代と聞けば、わが国の積み重ねてきたものはさぞ深大極まるだろうと胸弾ませるところだが、その都市の成り立ちと聖書の記す建国神話以外に、修道士たちに明かされるものはない。何かぽっかりと抜け落ちたような気配が、なおさらユッタの気を引いて、ノッジシにその教えを乞うまでに至らせた。古文書の山を積んだノッジシの独房に招かれたのは、ユッタが十三歳のときである。

 各地の遺跡や洞窟に発掘された古文書の数々は、かつて火之本に豊穣な知的文明が築かれていたことを知らせるもので、退屈な都市まちの暮らしにみきった少年の興味を否応なく惹いた。そのほとんどは神官連が管理しており、凍境の大図書館に所蔵されているという。具体的な研究目的を記した申請書を審査に通し、妥当であると認められてはじめて貸出が許可されるもので、やはり学者への道もごく少数の師にあたるほかはないのであった。

 天使学者を自称する輩自体は、成人したのちも定職に就かず僧兵にもならず、都市まちをぶらついて私窩子を買う軟派な男を中心にちらほらと見られた。そのほとんどはユッタとどこか似て、若い精気をもてあましながら刺激に飢えてあてなくさまよい、打ち込める何物をもないことを蒼白な顔で悲劇と語り、鬱気が溜まれば怒りのように女遊びにぶつけまくる、吹けば飛ぶほどの根無し草だった。古文書の読解に夢中だった当時のユッタの目に、彼らは良き師を見出せなかった不幸な等輩とうはいと映ったが、秀才ぶった小僧の自意識が見下ろすに適した反面教師でもあって、今も根深い同族嫌悪は肥大の一途をたどったのである。

 古文書への知識欲で無聊ぶりょうを慰めていたユッタも、修道院長を辞したノッジシが私塾で教鞭を執りだすと、自らも関心をひるがえして師に四光術を学びはじめた。古文書の研究にも有意な言語光エレレイトの修得を目指したのだが、なかなか芽が出ずねし、一時はわが個人教師のごときであったノッジシが広く生徒を募ったのも何とはなしに寂しくて、いつかユッタは私塾から離れてしまった。てつは踏むまいと肝に銘じていた、俗流天使学者たちの同穴にはまりだしたのが、いよいよ盛りの一六の齢からであった。

 独力で読み解くこつも身につき、ノッジシから又借りの古文書と睨み合う独居の日々に思うことは、若くして才気煥発、天使学の処女論文を上梓し、研究の盛んな隣都市となりまち木菟樹つくぎ教会にでも認められ、神官公認とまではいかずとも、次期修道院長候補としておおいに嘱望しょくぼうされるであろう、近い未来のわが晴れ姿である。

 巷間こうかんの天使学者気取りは当然、凍境の裕福な暮らしを夢見て突飛な天使論をでっち上げるが、護教的傾向でがちがちな神官のお眼鏡に、空想ばかり先走る彼らの筆がかなうであろうか。なんといっても、学識と堅実である。ユッタは基礎文献にもとづいたうえで古文書から新奇の概念を借用し、右にも左にも振らずに知的刺激に富む天使論を構想していた。それでも、最初から神官に評価されるとは楽観できないわけであるから、まずは各地の修道院長で組織された天使学学会に提出し、彼らのうちのひとりにでも後継者として唾をつけられたならば、現実的な身の処し方につながるというものである。手っ取り早く育てのノッジシに頼りきるのは、気まずく思うところもあったし、なにより若い自尊心が許さなかった。

 こうした将来設計も、考えるは易しというものである。まず、異界の博物誌じみた古文書に親しんだユッタにとって、今さら聖書の長々しい砂を噛むような記述を丹念に読み返すことは、大変退屈な作業であった。まったくいかにも抹香臭い、という言い回しも古文書から覚えたものである。中庸を行く計算はすっかり狂い、自らの関心事ばかりについつい筆が滑ること、天使の実像をあらわすべく、悪魔の定義に言を使い涸らすがごとしであった。出来上がった渾身の処女論文は、下読みをしたノッジシに大笑いを食らい、屈辱のうちに独房の奥に仕舞いこんだ。

 農作業の労務を疎ましくもやり過ごし、研究と執筆を繰り返す毎日。溜まった鬱気を払うべく、軽蔑しきっていたはずの酒場に出向くようになった。ほとんど信仰と手を切った農夫や漁夫や猟師らが、能天気にどんちゃん騒ぎをやっているなかに身を置くと、ひしと寂しさが胸に迫るものではあるが、孤立感がむしろ尊厳を慰める風情もあるのである。青書生などと邪気もなくからかう、幼時から世話になった人々の快活さに触れるたび、彼らの存在を自尊心の保持に利用している自らの悪趣味に腹が立つようになったのは、いつからのことであろう。

 天使学の追究は、依然として思うよう捗らなかった。邪魔をするのは、書物にばかり擦れっ枯らしたたちの悪い感性が、矯正しがたく珍妙な天使論を書きたがる、魂のままならなさが第一である。第二に生じて悩ましきこと多大なのは、肉体のままならぬことであった。

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