第17話
ヤッセに聞いたところでは、赤ん坊のユッタは馬小屋に捨てられていたらしい。
馬糞まみれでさぞかし汚い赤子であったろうに、拾ってやった麒麟菜の婆の気が知れない。
生命の誕生をなにより尊ぶ火之本に、捨て子などめったにいない。そもそも、出生の秘匿が大罪に値する国である。とすれば、親によほどの事情があったのだろうと察せられた。たとえば、気の合わない男の種で奇跡的に孕んだ母親なら、結婚後も望まぬ多産に励まねばならず、隠蔽を図りもするだろうが、業の深い話で、気分はよくない。
なにせ、物心ついたころから変化の乏しい毎日であった。野に出て家畜を追ったり、収穫を手伝ったり、ヤッセの兄弟の同年代などと
少数の真面目なほうの修道士らに、日課の祈りや霊的読書の意味を初めて問うたのはいつだったか。修道士の意識をなくした実務者と同じく、彼らからもお国の教えだから素直にやりなさいと、理屈を省いたお題目の異口同音をいただいたのは失望だった。それは根本からの問い直しを許さない単純な集団内不文律で、到底ユッタの曲がった性根を正すものではなかったのである。しかし、当時の修道院長であったノッジシがぶつぶつと聞き取りづらい声で説く、微に入り細に入る神話と信仰の講義には、抗いがたい眠気と同時に、少年の見知らぬ世界へも導かれるところがあった。
質素な修道院内学校で教わる基礎教養は牧畜と農耕の技術、あとは神話の注解と修道士の心得程度で、そのほかには耕具や農具作り、漁業、石工、
なかでも、最も実務に結びつかないのは歴史である。たまの神官の説教に観想歴五九八〇年代と聞けば、わが国の積み重ねてきたものはさぞ深大極まるだろうと胸弾ませるところだが、その都市の成り立ちと聖書の記す建国神話以外に、修道士たちに明かされるものはない。何かぽっかりと抜け落ちたような気配が、なおさらユッタの気を引いて、ノッジシにその教えを乞うまでに至らせた。古文書の山を積んだノッジシの独房に招かれたのは、ユッタが十三歳のときである。
各地の遺跡や洞窟に発掘された古文書の数々は、かつて火之本に豊穣な知的文明が築かれていたことを知らせるもので、退屈な
天使学者を自称する輩自体は、成人したのちも定職に就かず僧兵にもならず、
古文書への知識欲で
独力で読み解くこつも身につき、ノッジシから又借りの古文書と睨み合う独居の日々に思うことは、若くして才気煥発、天使学の処女論文を上梓し、研究の盛んな
こうした将来設計も、考えるは易しというものである。まず、異界の博物誌じみた古文書に親しんだユッタにとって、今さら聖書の長々しい砂を噛むような記述を丹念に読み返すことは、大変退屈な作業であった。まったくいかにも抹香臭い、という言い回しも古文書から覚えたものである。中庸を行く計算はすっかり狂い、自らの関心事ばかりについつい筆が滑ること、天使の実像をあらわすべく、悪魔の定義に言を使い涸らすがごとしであった。出来上がった渾身の処女論文は、下読みをしたノッジシに大笑いを食らい、屈辱のうちに独房の奥に仕舞いこんだ。
農作業の労務を疎ましくもやり過ごし、研究と執筆を繰り返す毎日。溜まった鬱気を払うべく、軽蔑しきっていたはずの酒場に出向くようになった。ほとんど信仰と手を切った農夫や漁夫や猟師らが、能天気にどんちゃん騒ぎをやっているなかに身を置くと、ひしと寂しさが胸に迫るものではあるが、孤立感がむしろ尊厳を慰める風情もあるのである。青書生などと邪気もなくからかう、幼時から世話になった人々の快活さに触れるたび、彼らの存在を自尊心の保持に利用している自らの悪趣味に腹が立つようになったのは、いつからのことであろう。
天使学の追究は、依然として思うよう捗らなかった。邪魔をするのは、書物にばかり擦れっ枯らしたたちの悪い感性が、矯正しがたく珍妙な天使論を書きたがる、魂のままならなさが第一である。第二に生じて悩ましきこと多大なのは、肉体のままならぬことであった。
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