第12話

 都市まちの人々は成人の儀が終わるのを待ちぼうけている気はないらしく、更に大きなお祭りごとの気配に向かって、つまり、北側の聖堂から蝶波都市の最南端、凍境湾の港へ集まりだしているようであった。現実の天使軍の無事を確かめてきた神官らの大陸連絡船の帰還は、長距離航行の危険度にしろ、福音じみた結果が持ち帰られることにしろ、年中の宗教行事のなかでもとりわけ盛り上がるうちのひとつである。騒ぎに乗らない手はないのだった。

 いっぽうユッタは、新成人たちが続々と儀式を終えて港に向かい消えてゆき、残りはほんの数人となったところで、リンが再び武者震いか貧乏揺すりかわからぬ症状に見舞われたせいか、祭りの騒ぎにあてられたせいか、つられてせかせかした気になっていた。だから、

「どうしてこう落ち着かないんだろう、秘蹟なんて大仰に言うせいか……」

 と地面に語るリンを誘って調子よく、

「そこまで不安がるなら、ちょっと覗き見するぐらい、精神衛生のために許されることだ」

 なんて軽口を叩くことができたのだろう。ちょっと前なら、とても言えない言葉だった。

 こうして、話に乗ったリンとともに、翼廊の通用口の鉄扉を隙間だけ開け、前の番の儀式の様子を盗み見ることになった。別段、教義に反することでもない。新成人のひとりは、堂内の片隅にある洗礼盤の前に立つと、神官の萵苣ちさに頭から灌水され、続いて額に香油を塗られ、按手を受ける。どうということもない、てきぱきとやって数分間のことで、しかもその所作のひとつひとつには緊張感が感じられず、按手中は新成人が萵苣に「頭なでなでしてください」と馬鹿を言っていた。萵苣は困ったように笑っている。宗教儀式と冠するのもおこがましい何かにユッタは頭を抱えた。

「抑圧的な社会制度をひく神官が、ご地域ではやんわりを決め込んで……」

「かまととっていうやつでしょ」

「よりにも秘蹟にかまとともあるまいが」

 言っているうちに聖体のパンが軽くまれたらしく、続いて萵苣が胸に抱いていた黄金の弓を新成人に手渡した。儀式はまだ続くらしい。新成人が弓の弦を引いて、ぴいんと鳴らした。間を置いて、新成人が頭を掻きながら弓を返し、萵苣が口に手を当ててくすくすと笑った。あれは何の秘蹟なのだろうか。知ってるか、とユッタが傍らのリンに振り向くと、リンは苦々しげな顔をして彼らの様子をじっと睨んでいた。

「また具合が悪いのか」と声をかけたとたん、はっとしてリンは頭を振り、ユッタにいらえた。

「ううん、もう大丈夫」

 儀式を終えた新成人がこちらに来るので一度扉から離れた。続いて、リンが呼ばれた。どうにも不安で、ユッタはリンの儀式を見守ることにした。再び扉の隙間からうかがう。

 リンが儀式をこなすさまは先ほどの新成人とはまるで似ず、一挙手一投足が極めて慎重で、固まりきってぎくしゃくしているのとも異なり、本来要求されるべき厳密な動作を正確になぞるがごとくであった。その実直さに最初はおや、と意外そうな顔をした萵苣ちさも、応えて表情を引き締め、いきなり取り繕うのは無理でもなるだけおごそかに秘蹟を授けようと努めているようである。聖餐が終わり、例の弓が手渡されるところで、リンが口を開いた。

「これ、何の秘蹟なんですか」

 問われると、いかにも真面目そうな顔つきを作ったまま萵苣は答える。

「ちょっとした確認です。本当に形だけの……ですが、敬虔なあなたには説明しないと失礼でしょうね。この弓は天使のお力が封じ込められた、神器しんきのひとつです」

 やや距離があったが、ユッタにも聞き取ることができた。聞き覚えのない言葉だった。

「芯から忠実に修道生活を守り、教会の教えに正しく従った者だけが、この弓を鳴らすことで天使の祝福を授かることができます。自ら償うべく努めた堕天の罪が天使にあがなわれ、そのときあなたは凍境に召されます」

 初耳だったのはユッタだけではなかったらしく、リンも目を見張って手元の弓をしげしげと眺め回している。

「天使の純粋思考は人と違って器官的感覚に頼らず、直接に事物の本質を捉えます。弓を引いたら、あなたが認識したいことをただ切に思惟してください。あなたが知りたいことを、あなたが知りたい真理を。万に一もありませんが、天使が応えるやもしれません」

 媾合こうごうの奇跡も捨て身の学究も必要とせず、ただ祈りの純度によって天使の愛を賜る、秘蹟を飛び越えた信仰の試練。凡夫同然な一般の修道士には期待すべくもなく、おざなりに済ましていたのだろう。それでも、多少なりとも誠実な者にはその意味を明かしているらしい。

 リンは無言で頷くと、緊張の面持ちで弓を構えた。矢をつがえないまま、弦はぴんと張り詰めた。彼の手元に、見えない矢でも引かれているような気配があった。

 彼ならもしや、と思うところがユッタにあったことは否定できない。

我、叡智を信ぜしよりピスティス・ソフィア

 小さな呟きが聞こえた瞬間、ユッタの視界は真紅に染まり、次に暗転した。鳴弦の音は聞こえなかった。背中に気付いた鈍痛がじわじわと四肢に広がった。目を開くと沁み、眼底に疼痛がある。

 妙な明滅と涙に滲む視界のなかで、草花が荒れに荒れて地面が剥き出しになった庭園、その土を蹴って走り去る人影がおぼろに見えた。強いて半身を起こすと、ついで燃え上がる巨大な炎に包まれた聖堂が目に入った。ユッタの頭はようやく、爆風で吹き飛ばされたという事実に追いついた。

 爆音に耳がろうされたらしく、何も聞こえない。儀式に何があったのか。疑問は一瞬で、全身に自覚された痛みが思考を吹き飛ばした。起こした半身は土に引き戻され、身じろぎもできず空を見つめる。気が遠くなりかけたところで、ふいに躰が楽になる気配があった。

「起きてください。動けるはずです」

 静かな声に促されるまま、ユッタは立ち上がった。不思議と難ないことであった。ふらつく頭をおさえながら、ユッタは目の前に立つ修道服を焼け焦がした神官の萵苣を見たのだった。

水晶光ダヴェイタイであなたの肉体の傷を一時的に補修しました。霊鉱れいこうが皮膚と骨に継ぎ接ぎになって動きづらいでしょうが、今すぐ私についてきてください。彼が儀式の最中に燐光ハルモゼルを放ち、神器を持って逃げ出しました」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る