第13話

 修道都市の町並みは、数十の修道院の内外に聖堂や学校などの施設が集中し、あとは耕地に納屋や家畜小屋や水車小屋といった程度で、ほとんど農村の風情である。北端の高台にある第一修道院周辺の先に広がるのも、共同管理の放牧地となる草原で、山羊が牧草を食んでおり、ところどころのなら林には豚も放されているはずであった。第二、第三の修道院とは数キロの距離が空き、南端の港までは結構な距離がある。見はるかせば、港に大型の帆船が停泊し、あたりに仕事を放ってきた人群れが集まっているのがわかった。そこへ向かって一目散に道沿いを馬に走らせ、長い銀髪を風になびかせている、小さな人影があった。

「馬も盗られましたか。煙に非常事態を見て取って、門番が封鎖してくれればよいのですが、期待薄ですね。ですが、なぜ人も多く逃げ場のない港へと……」

 馬小屋から一頭引いてきた萵苣が、都市まちを見下ろしながらひとりごちている。状況の掴めないユッタは、皮膚の下に薄い金属板が張られたような奇妙な感覚にむずむずとしながら、ひどく焼け爛れた傷口に痛みがないのを認めないわけにいかなかった。四光術しこうじゅつの一種で、とくに神官に習得者の多い水晶光ダヴェイタイは、敬虔の祈りをもって天使の愛を準霊的な神秘の鉱物に変じ、病や傷の施療を施すというものである。わが身に用いられたのははじめてであった。

(リンがあの弓を持って逃げた……何のために?)

 草原を駆ける遠い人影を呆然と見つめるユッタの肩を、控えめに叩く者があった。

「無事でしたか。聖堂の爆発は一体?」

 服の裾をやや焦がしたコウが駆けつけてきていた。問いには萵苣が返した。

燐光ハルモゼルを使う大陸の敵国の間者に、天使の武具を奪われたのです。神官以外に明かしたくはなかったのですが、敵に知られていた時点で無駄なことだったようですね」

 ユッタは不可解のあまりコウと顔を見合わせたが、危急の事態なのは確かなようだった。都市まちのみなが港で大騒ぎの最中であるならば、おそらく我々がどうにかするべきであろうということはユッタも覚悟していた。あの繊細そうな若者、リンの真意も気にかかった。

(仮に異邦人として、四光術を操るほどだ。先の物言いを見ても、信仰に深く携わった者に違いない。火之本に根付いているのだ。彼という人間は、全体どういうことを考えている……)

 事件でなくとも、ひとときは友人のように思えた男のこと、追いかける気は十分あった。萵苣は馬に跨がりながら、ふたりに訊ねてきた。

「おふたりのどちらかに、言語光エレレイト以外の四光術を操れる者は?」

因果光オロイアエルを」と即座に返したコウに、ユッタは少なからず驚いた。

「まだ小さいのに頼もしいわね、足止めを頼んでいいかしら。君は一緒に来て」

 これ以上ゆっくりする暇はなさそうであった。ユッタは狭い鞍に尻の置き場が難儀だったが、なんとか萵苣の後ろに乗った。コウは眼下のリンに目を向け、思念に集中しはじめていた。コウは「我、叡智を信ぜしよりピスティス・ソフィア」と静かに唱えた。

 萵苣が馬の腹を蹴ると、猛烈な勢いでユッタの視界が上下した。風を切る音と蹄が鳴る音を聞きながら、ためらいながらも目の前の萵苣の細い腰にしがみついた。神官は至近に爆発を食らい、修道服の腰回りはほとんど焼け、白肌も下着もあらわである。触れた瞬間、萵苣の肩がわなないたような気がしたが、荒々しい馬の走りに気遣っている余裕もなかった。

 リンの背中はかなり遠かったが、彼の馬がなら林に挟まれた道を前にしたそのとき、突然に轟音とともに強い風が吹き荒れた。木々が傾ぐほどの風勢だが、馬はたじろいだ様子もない。果たして追いつけるかとユッタは危ぶんだが、見れば、道に降りそそいだどんぐりを食みに数十頭もの肥え太った豚が林中から現れたところであった。狭い道に溢れかえる豚を見てリンが慌てて手綱を引き、隙間を縫おうと足踏みをしている様子がうかがえた。

因果光オロイアエルか。地味なものだが、彼女は彼女なりに信仰の力を極めていたらしい……)

 わずかばかりの足止めだったが、萵苣が手綱をさばく馬もなかなかの駿馬しゅんめのようで、距離はぐんと縮まっていた。やがて港に着いたときには両者に数秒の差もなく、これなら容易いかとユッタは思ったが、リンは馬を乗り捨てて素早く人混みに姿を消してしまった。

 凍境湾に面した港の近くには、猟師が多く住む第七修道院が建つ。普段から魚の市が建ち、他の修道都市からも人が集まる活気盛んな場所だが、今日はとりわけひとところに集まった市民たちの喧騒と磯臭さに満ちている。リンの銀髪は目立つはずだが、あまりにも人が多かった。萵苣に続いて馬を下り、リンを探そうとしたユッタの耳に、つんざくような悲鳴が聞こえた。見やると、港にもやわれた大陸連絡船の高い甲板から、修道服たちがひとりふたりと海へ落ちていくところであった。船尾のあたりに、老年の神官に銃を突きつけた男の姿が現れた。

「仲間がいたのですね。船が乗っ取られてしまいます、急がなければ。我、叡智を信ぜしよりピスティス・ソフィア

 萵苣は言うと片手を突き出し、瞬刻、人混みに向けて何か長く鋭いものを放った。新たな悲鳴が上がった。猟師風の男の肩に、氷柱つららのように青光りする巨大な尖った鉱石が刺さって、だくだくと血を流している。萵苣はなおもてのひらから氷柱を吐き出し、続けざまに人々を刺し貫いていく。あたりのお祭り気分は消え去り、大いに騒然としはじめた。

「何をやっているんですかあなたは!」

 ユッタは憤激して萵苣の肩を掴んだ。振り向いた萵苣に表情はなかった。

「一刻も早く彼を見つけるためです。説明の暇はないし、船首の男には射程が足りません。これで人は散るでしょう」

「よりにも聖職者が……市民を傷つけてまで取り返すほどのものだとでも言うつもりか」

「もちろんですよ。天使様の品に異教徒が触れることなどあってはなりませんし、あれを悪用されれば火之本は危機に陥ります。殉教は推奨していませんが、事態に要求されれば別です」

 青ざめたユッタを見返し、萵苣は何の屈託もなく微笑んでみせた。

「天使を固く信じればこそですよ。さあ、あなたは盗人を確保してください」

 当然のように言うと萵苣は駆け、木の舷梯げんていが落ちてもやいも解けていることがわかると、船尾の男に向けて氷柱を連射しはじめた。人質を取っても無駄なことがわかった男は、手元の神官を海に投げ捨てると、銃で応戦しつつ甲板の奥に隠れた。ユッタが憤慨をひとまず措いて周囲を見回すと、海風に揺れる銀の軌跡がすぐ傍らを駆け抜けていくのに気付いた。リンは勢いをつけて石畳の岸壁を一蹴り、身軽にも空高く飛び上がって、数メートルはあろう高さの甲板の柵に手をかけた。すぐさま標的を変えて殺到した萵苣の氷柱も柵を飛び越えがてらにひょいとかわし、懐にしまった弓の金色をちらと輝かせ、甲板の奥に消えた。

 なすすべがない。萵苣は貴重な大陸連絡船を破壊すべきか否か、迷っているようであった。万策尽きたかと思われたが、そのときユッタの背中を押す風があった。先ほどなら林を激しく揺らした、あの因果光オロイアエルが起こす風である。因果光オロイアエルの祈りは風という具象を取る。その風が吹きすさぶ場所は、想像力による因果変換の力場となる。人の思い描いたことが物質に働きかけ、本来結びつくはずのない原因と結果を結びつける。ユッタは一か八か、今さっき目撃したリンの卓抜な身体能力を思い出し、その通りに動けるよう頭のなかで最大限にイメージし、運動不足のわが身にリンの動きを再現させる覚悟を決めた。思いきって助走をつけ、岸壁のぎりぎりで踏み切り、飛んだ。すると、下から風に押されるように重い躰が宙に浮き、なんとか船腹にへばりつく形で柵に手をかけることがかなった。よじ登って甲板に立つと、

「受け取って」

 岸壁の萵苣がユッタに向けて青い鉱石を射出した。慌てて両手で掴むと、それは細長く鋭利な刃と柄を持つ、剣の形状をとった水晶である。言わんとしていることはわかった。綱でも渡して昇ってきてもらったほうが万全だが、相手もぬかりなくそのようなものは片っ端から断ち切っていた。しぶしぶ萵苣に頷いてみせ、甲板に振り向いたユッタを襲う轟音と一瞬の光があった。頬の皮膚が傷んだ。かすめてよぎっていったものがあったのだ。帆柱ほばしらの裏から男が銃を構えるのが見えた。男は嘲笑った。

「今日はいい風だ。今、帆を広げるところだよ。そんなおもちゃで何をしにきたのかは知らないが、なんにせよご同乗は勘弁願いたいな」

 火之本では古文書にのみ知られた、黒光りする小型の拳銃を異邦人は握りしめている。その威力は今しがた確認された。彼我に距離がある。剣でどうこうできる間合いではない。形だけでも両手に構えて凄んでみせたが、ユッタは虚しさを覚えた。

(天使のために信徒を殺すような神官に、義理立てる必要などあるのだろうか。もはや関係はないだろう。では、本当に何をしにきたというのだ。気になるのか、彼が……?)

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