第9話

「ずっと周囲に馴染めないと言っていたお前が、ずいぶん打ち解けてきたようではないか」

「あれは酔っ払っているだけです」

 修道院から聖堂を抜けて、酒庫や食料庫に面する庭園までノッジシと歩いてきた。聖堂横の集会堂などに通じて回廊が巡っており、その中心にささやかだが手入れの行き届いた緑と噴水の園が整備されている。

「そう突っぱねるな、世俗の者とやってゆけるに越したことはない。どだい、世間や自然とまったく関わりを断つことなどできはしないのだから」

「それはそうですし、きっとえがたいものなのでしょうが、正直けったいです」

「けったいなのが人間じゃろう。そちらのお嬢さんとのご縁も、またそのようなものに違いあるまい。万人修道と万人娼婦のやりきれない世において、仲睦まじく連れ添う若者らの姿のなんと不可思議で貴重なさまよ」

 コウは何か言い淀んだが、完結した老人の物言いに口を挟みがたいのか、頬を掻くだけにとどまった。人前ではあまりしゃべらないたちらしい。

「そう言われれば、とくに彼女との付き合いは……奇妙なものではありますが、べつだん恋仲ではありません。なんて、はるか昔の死語でしょうね、これは」

「ああ、だが僥倖と思いなさい。古代の言葉のなんと麗しいことよ。もし恋という言葉が、世をはかなんだような作家連の夢想に横領されず、しっかと現実に根ざした人々のありようになっていさえすれば、わしも馬鹿げた研究に熱中することなどなかったろうに」

「世をはかなんでも、夢を見れるだけ幸福でしょう。それに、博士の研究は馬鹿げてなどおりません。優れた学術性がありながら……その作家連を凌ぐような憧憬がある」

「褒めているやら、どうなのやら。さておき、隠修の徒としては儂も負けないようだな」

「え?」

「砂漠にいおりを結ぶつもりだ」

 言いながらノッジシは、庭園の片隅のベンチにゆっくりと腰を下ろした。こうべを寄せ合う花壇の花々を眺めながら、口調は恐ろしく静かであった。

「そんな……危険です。都市の外には異形が蔓延はびこっているというのに、ましてや最低限の水や食物も期待できない砂漠におひとりで?」

「もちろん、弟子を連れてゆく。ほかでもない儂の直弟子で、霊炎アイテール豊かな信頼の置ける四光術しこうじゅつの使い手を数人な。不安はあるまい」

言語光エレレイトでは戦力になりませんよ、せめて僧兵を雇って……。それに、俗世とまったく袂を分かつことなどできないとおっしゃったのはあなたです」

「食物なら弟子に、近場の都市へ手工業品と交換に行かせるぞ。古文書によるところの、エジプトとやらの隠修士さながらの生活だ。僧兵なんぞ雇ったら、それこそ隠修の意味がない」

 なおも言い募ろうとユッタは口を開いたが、ふいに花々から顔を上げたノッジシの表情は険しく、まなじりを決した切れ長の瞳は爛々と輝き、一瞬にしてユッタを射すくめた。

「儂が俗塵を疎むばかりに死に場所を探しに行くとでも思っておるのか。これ以上は、あえて言わせるな。天使学の追求は、形而上学の精髄の快楽けらくがある。頭脳のなかの淫蕩がある。年寄りに娼婦がどうと愚痴を垂らせる気はあるまい。老いの木登り、年寄りの冷や水、なんとでも言うがよかろう。決めたことだ。別れを告げに来たことがわからんか」

 灰色のなかに白濁が混じる眼光の澱んだ気迫に、ユッタは言葉を失った。ノッジシは長衣ローブの袖で汗ばんだ禿頭とくとうを拭うと、ベンチから腰を上げた。

霊炎アイテールが芽吹くまでお前を見届けたかったが、儂に残された時間は少ない。この歳まで生き永らえたことが奇跡と言ってよいな。ユッタ、弟子の成人の儀も見ないまま旅立つことを許せ。そちらの君、」

 ノッジシの視線を受けたコウは肩をびくっと跳ねさせた。

「不肖の弟子だが、きっと最後までこいつに寄り添っていてくれ。それ以外にたのみはないのだ、われわれには……この世には。それ以外に何もないのだ、情けなくもな」

 わけもわからず、といった風情でコウは頷いたが、ノッジシは満足げに微笑んだ。立ちすくんだままのユッタに無言で頷きかけると、ノッジシは庭園の土を一歩一歩踏みしめるように、少しずつだがしっかりとした足取りで、その場を歩き去っていった。

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