第8話

「たんと食べて、神官に若人の精力を見せつけてやるんだね」

 当修道院の食料頭しょくりょうとうである麒麟菜きりんさいは、ぬらぬらと油に光り水入り袋のように震える肉色の固まりを大皿に盛ってユッタに配膳した。下品に笑い皺の寄った顔をその料理らしきものに近づけ、すごぬごと鼻を鳴らし、得も言えぬ臭気を放つそれが馥郁ふくいくたるとでも言わんばかりである。

「パンと豆類でいいと言っているだろう。どういうものなんだ、これは」

「今日食わないでどうするんだい。雌豚の乳房に海胆うにを詰めたものだよ」

 ユッタは呆れてものもいえなかったが、コウは傍らでくっくっと笑いを噛み殺していた。

 ユッタとコウは朝食を摂るため、修道院一階の食堂まで下りてきていた。百人を前後する院内の人々が一堂に会してなお余裕がある空間であり、聖堂より収容力が高く、まして日頃の賑わいとなればそれと比べるべくもない。

 仮にも修道院だというのに、人々はよく食いよく飲む。日々の食卓にはパンのほかに蜂蜜やミルク、魚類や各種の果物が主で、葡萄酒も開けられる。ユッタは自分でも生真面目と思うほど、教義にならって節制を心がけているが、祭り事となると度外れた御馳走を振る舞いたがる食料頭には参っていた。

「俺のところの兄弟の分も忘れてくれるなよ、女将」

 向かいの長テーブルを見ると、似合わない礼服ダルマティカを着たヤッセが礼拝服アルバの兄弟連と卓を囲んで、揃って杯を傾けていた。珍しく正装になったかと思えば、あの体たらくなのが凡夫の現実である。

 男女の生活圏が各地方と首都に分断された火之本には、古文書に言う家族という単位の集団がない。女の代替品としての私窩子の懐妊という奇跡に結ばれた例外は、首都に召されて安定した暮らしのうちに数十人もの子をなす。物心のつかない赤子の間は親や神官の手で育てられるが、そのうち男子は成長すれば親元を離れ、首都から各修道都市へ送られるのだ。遊び盛りの男児に厳かな宗教都市の暮らしはそぐわないと言えばそれらしいし、修道都市はといえば本来の教義による禁欲を実践するところは僅かである。教義上定められた多産義務のために家庭での教育が困難であるならば、修道院という地域共同体にその任を負わせるほうが賢明だと、神官連はそう主張するのだ。なるほど、信仰が伴わずとも元来それは宗教上に結束した共同体にはほかならず、そのコミュニティへの所属は自ずと宗教への帰属意識を高めようし、神職ばかりの観想都市よりは世俗での暮らしのほうが、義理人情に揉まれほだされ、男の子は逞しく成長しようというものではある。それはそれでよかろう、ともユッタは思うものの、手間のかかる小煩いわらじに祈りを妨げられたくない、というのが凍境の神官連の本音だということは予想がつく。やっとのことで運命の相手と憂いなく愛の営みに励める夫婦にしてこそ、実体験なき家族愛の希求よりも多産の義務からの倦みが来て、腹を痛めたわが子にも未練がましくならないのかもしれないが、ユッタには承服しかねた。

 なぜかというに、親と女性が不在の血縁意識は必然、兄弟愛に一元化される。やはり古文書を繙くところのホモソーシャルなむさ苦しさというのか、捨て子のユッタにとってはなおさら、何事も内輪の気風で動く兄弟団のあり方が好ましくないのであった。彼らは結局、信仰よりも確固とした同胞はらからの繋がりに拠り所を求め、慣れ合いの集団意識に安穏としては修道の寄る辺なさ、不確かさを率先して嘲笑う人種に育つのである。ゆくゆく猟師や漁夫に甘んずるならまだしも、下手に色気を出して僧兵になどなられた日には、聖職の愚弄もはなはだしい。

「わが兄弟たちよ、ついに一人前にまで無事に育ったお前たちの勇姿と、今日という日に乾杯だ。酒神バッコスの祝福に感謝して、今朝こんちょうは飲み交わそう」

 古文書に記された旧世界の神を持ち出すところなど、天使アイオーン的神格への希求を欠いた、人に都合の良い安易な偶像崇拝の好例であろう。ぱっと読みの教義ではそれ自体は禁止されておらず、ならばこれは生活のなかにあらわれた素朴かつ本来的な信仰心なのだと言い張るのだから、たまらない……。ユッタが内心鬱勃としながら磯臭い雌豚の肉を突いていると、やおら大男のヤッセはこちらに振り向いて、

「五月生まれはお前も同じで、つまりお前だって俺の兄弟同然だ、ユッタ。まあ、成長具合と拾われた月でざっと数えているというが、そう痩せっぽちでは本当に一八のよわいかどうかは怪しいもんだがな」

「放っておいてくれ」

 火之本では加齢の時点は、日数を省いて月はじめに簡略化されている。神官様には成人の儀を授けるためだけに、何度も田舎くんだりまで地方に赴く暇はない。いずれにしろ、捨て子のユッタに正確な日時は知られないため、関心が薄い話ではあった。

(しかし相も変わらず愚鈍で馴れ馴れしい。あからさま不機嫌な顔をしているつもりだのに。何事も人情にからめ捕ろうとするから、善良なのもほどほどにしろというのだが……)

 彼らに救われている部分もあればこそ、素直に友情を認めることができなかった。

「拗ねるなよ。お前もようやく男として成し遂げたってことは、認めてやってもいいんだぜ」

 ちらちらとユッタとコウを交互に見やり、ヤッセと同じく筋肉質で大柄なその兄弟たちは意外そうやら悔しそうやら嬉しそうやら、複雑な顔をして酒を舐めている。ふん、とコウは毅然とすまして雌豚の乳首から海胆汁を吸っており、少なくとも手を出されていないことを暴露して、ユッタに恥をかかせる悪戯心は起こしていないようであった。

「さっさと食べちまってくれよ。ばらした豚はまだまだあるし、商人から買い付けた食材、余らせちまったら勿体ないだろう」

 麒麟菜は新たな皿を次から運んできた。ユッタはコウを小突いて逃げる準備をした。視線を泳がせたユッタは、ちょうど近くに歩み寄ってきた、見知った人影に目を留めた。

「あなたは、ノッジシ……天使博士ではないですか」

「新成人おめでとう。しばらくぶりだが、元気にやっておったか」

 当修道都市には珍しい根っから修道士気質の老人で、ユッタにとっては幼時に信仰の教えを賜った恩師である。身をくたびれた青い長衣ローブに、おとがいを伸びきった白髭に包んでいる。いかにも老体といった猫背の身ごなしが頼りなげだが、聖職者に特有の敬虔さが滲むような面差しが好ましい。

「突然すまんな。少し話があるものでな、食事が済んでからでいいが、少し歩かないか。ここは、どうも老人には匂いがきつくてな……」

 ユッタが目顔を使ってみると、麒麟菜は仕方なげに頷いた。十字を切り、ユッタとコウはノッジシの後に続いた。ヤッセは背後から酒気を帯びた挨拶を張った。

「ともあれ今日は新たな門出だ。大人になりゃ猟が許されるわ、僧兵として各地を回れるわ、なにより女を買うにもこそこそせずに済むわで、これを門出と言わず何と言おう。ユッタ、餓鬼のころから世話してきた俺が、一人前になったお前を喜ばないわけがなかろう。儀式の最中じゃ嫌がるだろうから、今言っておくぞ。若人に幸い多からんことを」

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