第6話

 ベッドの下に取り落とした聖書は、すきま風に吹かれてぱらぱらと薄紙をそよがせていた。目を醒まし、ベッドから下りたユッタは、気づかず聖書を踏んづけた。窓から差す日差しが黄色く見える。傍らに依然と眠りこけている夜来香は、衣服をまとったままの姿である。

(無理だった……)

 肝心のやるべきことはおろか、抱きあい横たわったあと、遅い眠りに包まれるまで、お互いに身動きひとつ取れなかった。それだけであった。本当にそれだけだったか、と昨夜のことについてぼんやり思い巡らしているうち、朝の祈りの時間を告げる鐘の音が院内に鳴り響いた。ユッタは十八歳になっていた。もう成人だった。

 窓を開けて風にあたった。晩春のぬるい空気を吸いながら、青空の広がりとまばらな雲のみちゆきを見つめる。地上には、街道と平野がだらだらと続いている。その地平線には、灰色の城壁が高々とそびえ立つ、観想都市凍境トウキョウの無骨な威容があった。いくら景色を見はるかしても、気重さが増すだけであった。衣擦れの音に振り返ると、夜来香が起き直っていた。

「まるで付き合いたての純な恋人同士さながらな青さを演じさせてくれましたね」

「まるっきりそうだった。古文書に材を取った、巷の安手の小説さながら……」

「唾棄すべきと思われます」

 着けっぱなしだった髪飾りを外し、ひどい寝癖のついた髪を手で梳かしながら、夜来香は不機嫌そうにぼやいた。下ろした毛先がくすぐるように頬にかかった寝起き姿は、しどけなさがかえって妖しく、ユッタはなぜかしら胸を衝かれる思いがした。

「それで……あなたの信仰に宿る天使と、私の子宮に宿る天使は、結局合一したのですか。その契機となる神聖な瞬間を、残念ながら私は記憶していないのですけれど」

「悪かった。話が長かったのも、未熟者が大言壮語したのも謝るから、やめてくれ……」

 くまのできた夜来香の、例によって湿り気を帯びた細い目つきに見つめられると、ユッタは居心地の悪さと同時に、脇腹をくすぐられるような妙なおかしみもなぜか覚えた。見つめ返すと、ぷいと逸らされてしまうその瞳だが、覗き込めば湖水のように清く澄んで深いことを、ユッタはすでに知っていた。思い当たった昨夜の収穫といえば、それぐらいだった。

 顔を洗いに廊下へ出ようと扉口に立ってから、ユッタは少女に振り返った。

「大聖堂で神官に成人の儀を受けるんだ。興味があるなら見に来ないか?」

 どうでもよいと言いたげな夜来香の無反応に、ユッタは短い頭髪を掻いたが、

「暇だからいきます。筆下ろしに失敗した新成人の間抜けづらを見物しに……」

「君のほうはまだすれたつもりが抜けないな」

 ユッタが苦笑すると、少女も同じような薄い笑いを返してくれた。感覚を共有できたような感触がえられたのは、これがはじめてのような気がした。

「君、君じゃなんですから、名前で呼んでくれていいですよ」

「……どうも言いづらい。イエ、ライ、シャン。下の名前はどこなんだ?」

「コウでもいいです。夜来たる香り、と書きますから、音読みで。みな、そう呼びます」

 どうしてそこなのかと渾名あだなのセンスを疑ったが、ユッタが戯れにそう呼んでやると、コウは「はい」と返事をした。「なんですか」

「いや」

「意味もなく呼び合うほどに気安くなったつもりですか」

 手櫛で寝癖を直すことは諦めたか、コウは立ち上がると、房を出て行くところであったユッタの横に続いてきた。道々みちみち由無よしなしごとにずいぶん積極的で、今朝の機嫌は昨夜に比べると思いのほか、まんざらでもないらしかった。

「一晩をともにすごしたからといって、馴れ馴れしくはしないでください。私は人形私窩子しかしとして与えられた職能を、とりあえずは果たしながら世間をやりすごしていくつもりなんです。古文書が言うところの観念的プラトニックな愛情だとかを、あなたの側ででっち上げても無駄ですよ。殿方がどう誠実ぶったところで、気の迷いは気の迷いにすぎないんですから。それと、誕生日、おめでとうございます」

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