第4話

 独居房の扉が何十と並ぶ殺風景な修道院、その二階の一角にユッタの房は位置していた。日が落ち、夕食を終えた人々がいそいそと房に這入はいり、また親しい者や恋人同士も公然と一緒になって、孤独とは建前ばかりの独房生活に帰ってゆく。それを内心苦々しく思っていたユッタも、今晩は自分にだって、しかも正式に天使に誓いすらした相手がいるのだと意識すると、得も言われぬ心地にとらわれるものであった。

(いざとなると、振る舞いに困るものだ。僭越にも聖職者づらをしたが、今どき形骸化した婚姻の秘蹟の祈祷、文言もうろ覚えではないか。それでなくても、年端のいかないものを相手にあの説教。教義に沿いはしたものの、睦言じみて慚愧ざんきに堪えない……)

 ユッタは開閉のたびに金具の軋む薄い木扉を引き、夜来香を先に入らせた。突き当たって窓のあたりに机と本棚、部屋の端にはいかにも共寝に窮屈そうな小型のベッド。調度といえばその程度の独居房に足を踏み入れると、夜来香は低く嘆息した。

「淋しいところですね」

「こうあるべきものだよ、本来は。雑念に惑わされず、祈りに打ち込むためにも」

「天使というのを信じると、ずいぶん不都合を強いられるんですね」

 修道院内で無駄口をきくことが厳罰となった時代は遠く、隣室や下階からはつねに何がしかの話し声が壁を床を抜けてくる。それは慣れたことでまだしも、明確に不信心をあらわす娼婦が同房にいるとなっては、自ら課した沈黙の習慣も破らずにはいられなかった。

「さっきも何か言っていたな。天使を信じていないのか」

「いないわけではないですけれど、ことさら信仰信仰と、肩肘張るのは分からないです」

「万民修道士たれ、が火之本唯一の法だ。それは律法の子細にも国家の統治にも先立つ。無信仰の風潮はあれど、その精神が分からないような火之本の民ではないだろう」

「人形に国民意識を求めないでください。人でなしに信心が宿るとでも思いますか」

「言葉を悪く取りすぎている。お前は人でないと神官に言われたのは、小生も同じことだ」

「小生って」

 夜来香はベッドに腰かけ、薄笑いを浮かべたままユッタを見上げた。まともに取り合うつもりがないのを見て取って、ユッタは腰を据える覚悟を決めた。

「君は春をひさぐことの意味を分かっていない。そういう人と寝ることは、……僕にはできない。ここに聖書ケノボスキオンがある」

 切り火して卓上の蜜蝋に明かりを点け、懐から薄緑色に染められた山羊革の表紙を取り出した。「うわ」と辟易した顔をする少女の横に座り、ユッタは携帯用聖書の頁を繰った。

「お説教は手短にお願いします。やること済ませて、早く寝たいです……」

「手短に済ますため略式のものをひもとくんだ。それと、生娘がすれたような真似を言うな」

「何を決めつけているんですか。知りもしないくせに」

 ユッタは強いて真顔で、傍らの少女の目を無言に見つめた。しばらくすると根負けしたか、

「誘われたことはなくもないですけれど、きまってお戯れの最中に飽きられてしまうんです。愛想なしと貧相な身体が、殿方のお気に召さないんでしょう」

 すねたように白状する夜来香を見、ユッタは胸をなでおろした。内心不安に思っていたのは、別に生娘への食い意地ではなく、未経験を恥とからかわれることへの恐れでもなく、なるたけの貞潔を異性に求めてしまう若者に自然な感情ゆえである。

「どうして嬉しそうなんですか」

 じっとりと湿り気を帯びた夜来香の視線が横顔に刺さっていた。しょっちゅうこういう目をする娘らしい。そんなはずは、と顔面をおさえながら、

「本題に入ろう。君はわが国の神話をどこまで知っている」

 少女は肩をすくめた。分かりきったことを、という呆れの意と思いたかったが、まるでさっぱり、という意をやる気なげな目が告げていた。

「至高神から諸天使アイオーンへの流出、そして経綸界オイコノミアにおける人類の誕生までの過程は複雑だ。だが、これだけは憶えておいてほしい。神は決して見えず語り得ず、究極には人の信仰も及び得ない。人が信じられるのは精々、超世界プレローマ経綸界オイコノミア境界ホロスまします諸贋天使アルコーン、つまり人の認識の限界内に捉えられた地上的な天使の姿だけだ。わが国が神ではなく主に天使を奉じるということには、そのあたりの事情が含まれている。ここがまず肝要なんだ」

 ユッタが前のめりに語り出すと、とたんに少女は渋い顔をして、

「まくしたてないでください」

「かいつまんで話しているつもりだ」

「男と女がすることをすべくベッドに並んでおきながら、天使がどうこうごちゃごちゃと。生粋の修道士というのは、からだばかりの馬鹿な農夫よりよほど不健全ですね」

 来たるべき初夜への緊張がことを先延ばしにさせているのは確かだが、いわばゆきずりの一夜とはいえ、否、だからこそ譲れない一線がユッタにはあったのである。

「……私がそういう天使論を厄介と思うのは、その天使というのが何なのかがまったく不明瞭なことです。そのごちゃごちゃした創世神話に続く建国神話みたいなものなら、私も神官によく聞かされました。曰く、隔たりし大陸の諸国に不断に狙われている小さな島国の火之本は、屈強な男子で組織した軍を大陸に送り込んだ。彼らの活躍はめざましく、当地にて世代を継ぎ、何千年に渡って火之本を守護し、今なお熾烈な戦いを続けている。軍神のごとく蛮族を屠る彼らこそ、まさしく天使の一族であった、ということですが……」

 観念して相手をする気になったらしい夜来香は、聖書を疑り深く見つめている。

「実際にそうだったのか、後の神話的脚色でそうされたのか、そもそも人間が天使とはどういうことか。それは創世記に語られる天使アイオーン贋天使アルコーンとどう関係するのか、ということです。神官が彼らを天使と呼ぶとき、あなたたち本土の男性は堕天使と貶められますよね。それが万民修道の根拠と言うなら、端的に疎外されていると思わないんですか。火之本民族の血は同じにも関わらず……」

「まず、事実か否かの聖書批判学は実証する術がない。そして、現実の天使軍の様子は、首都の高位|神官たちが大陸連絡船に一般市民――我々のような堕天使と私窩子しかしを容れず、困難な航海を処女の細腕だけで定期にやってのけて確認をしている。市民は神官らの無事と天使軍の健在を祈り、節制や断食を心がける。まあその伝統を守る者は稀で、今現在も航海中だが、出航と帰還の際にお祭り騒ぎをする程度だろう……。とまれ、天使軍の実際の働きすら、神官が神話的色彩を基調に語る言葉でしか市民は知れず、もちろん市民に国外行は許されていない。神官の特権性は認めるよ」

「命を賭して大海原へ乗り出す神官のご勇姿に免じ、天使軍の実在は信じます。けれど、思考の速度で羽撃はばたくという当千の天使の武勇、なぜ現実に民に開示しないんですか?」

「天使の光輝を見た堕天使は目が潰れ、天使の美貌を見た私窩子は伴侶の堕天使を愛せなくなるため。天使の権能にしても、全てが伝説じみていると言えばそうだ。だが現実、大陸からの侵略者を我々は見たことがない。生まれてこの方、平和そのものだ。なれば未然に我々を守り給う存在を信じるほかない。それでも事実を知りたいなら神官を脅して吐かせるだけだが、彼女らの鉄の敬虔深さは僕の比じゃない。背教の咎を受けてまでそれを試し、成果を得ぬまま処刑された者が何人いるか」

 ひとまずは彼女の納得やら諦念やらを得たらしいことを確認し、ユッタは続けた。

「次に天使と人間の関係だが、創世記の記述の限り、人間の本来的自己には神的天使アイオーンの霊性が宿っている。経綸界オイコノミアと人の肉体は錯誤神サクラスの創造した不浄なものだが、人の霊は天使と同質の神聖な光を秘める。これを信じるなら天使軍の伝説も、強いて我々が堕天使と呼ばれることも、僕は受け止められると思っている」

「人間と天使は本来イコール、そう考えていいんですか」

「畢竟そうだが、両者を隔てるのは肉体の有無だ。肉体に縛られる限り、我々の認識は欲望と感覚に支配され、自らに眠る霊的なものを捉えるに至らない。自己の霊性を掴まぬ限り、天使の把握も覚束ない。肉体に産み落とされた堕天使が物質への固執と戦い、肉体なき純粋霊体、天使に接近せんとする永遠の葛藤。結果として天使に到達はできなくとも、そこに理想の人間像がある。これが万民修道の理屈だ」

「本能から逃れ得ない人間が現実を善く生きるための教義だというのは百歩譲って了解します。けれど、肉なき霊なんて空想でしょう。医学の心得は以前いた都市まちで多少教わりました。人は二元論で割れるほど単純な生物ではないです」

「医学の空気プネウマ理論は魔術の霊炎アイテール論と相互に依拠し合っている。二元論への落着は確かに危険だが、今の科学がその反証たりうるとは思えない。そう空想せざるを得ない人の現実を問題にすべきだ」

「欲に惑って溺れているのが最も人間に相応で、らしい姿ですよ。それに倦み疲れて形而上学の動機とするのはわかりますが、極端に走っていると私には思えてならないです」

「ご指摘は重々承知だ。それに、君のような賢明な少女に天使学の否定を強いるこの国の矛盾が、元を正せば権力と不可分な聖職者たちの側から生まれているということも……」

 欠伸を漏らす夜来香に、ようやく本題をぶてるとユッタは嘆息した。薄手の木綿服に覆われた少女の躰、その中心にふと目をやって、ユッタは肉身を沸き立たせる婬欲いんよくの抑えがたきを感じつつ、それを自ずから戒めるためと、あえて尾籠びろうな話題の口火を切った。

「おそらく無神論を主張したい君には愚かしく聞こえるだろうが、婚姻に臨むにあたって、聞かずにはいられない僕の事情もわかってほしい。つまり、君の花床サラムスが思い描く天使は、果たして僕に似ているだろうか、僕を受け入れてくれるだろうか。そのことについてだ」

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