第3話

 蝶波ちょうば教区修道都市を囲う石壁の片隅に、こびりつく青黴じみて建つ老朽した酒場を後にして、晩春の日の暮れ方の生暖かい空気のなか、聖堂の北面を占める第一修道院を目指し歩いた。穀物庫に脱穀所、手工業所に製樽所が並ぶ南面を抜けると、東西に長い聖堂にぶつかるが、修道士用の連絡通路が両翼廊に結ばれており、まっすぐ北側へ通り抜けられる。

 聖堂内に踏み入ると、絢爛たるフラスコ画に覆い尽くされた高い天井や、宝石の散ったような光の飛沫を祭壇に落とす周歩廊のステンドグラスが、目もあやにユッタを圧倒した。そして祭壇の上方には、惨たらしくも神々しい、無数の天使たちの磔刑像が並んでいる。遥か大陸へと渡り、異国の蛮族から火之本を守るべく、死闘に身を投じ続けているという屈強な美の天使たちが、死して平和を贖うさまを克明に刻んでいる。

 日頃のごとくに心打たれ、ユッタは内陣の聖堂者席に寄ると、ようよう堂内に薄闇の落ちて照明すらないのにも構わず、黙々と祈りを捧げはじめた。

「信じてる人ですか」

 不意に言葉を発したのは、側廊の柱に背をもたれた、夜来香イエライシャンと呼ばれていた少女だった。

 最中に不躾なやつと、ユッタは黙殺しようとしたが、

「信じられる人なんですね」

 皮肉ぶった物言いが気にかかり、集中が途切れてしまった。見ると少女は、一対に着けた数珠の輪のような髪飾りでくくり、両側頭部から肩先まで下げた黒髪の束の片方を、所在なげに指で弄んだりしている。

「君はいったい、どうしてついてきているのか分かりかねるが」

 少女は訝しむようにやや眉をひそめたが、すぐに無表情を取り戻すと、

「帰る部屋がある建物も、帰り途も同じということです」

「神官の寝所は聖堂のすぐ南じゃ……。あ、いや、そうか」

 とっさに見当違いを犯したのは、彼女が不機嫌そうに佇む姿には、何やら夜の聖堂につきづきしい、神秘めいた趣があったためである。

「場末の酒場の下働きを、よりによって何に間違えているのですか。人形にんぎょう私窩子しかしは一市民です」

 人形私窩子だの傀窩子でくかしだのと、娼婦が正確には人間でないことを明らかにする呼称を、わざわざ使う機会がほとんどないのは、男性側の忌避感がすっかり取り払われて久しいためであり、ことさら自称するほどの意味も現代には薄いのであった。本当の女が神官以外にいるはずもなく、その過半数が城壁のそびえる首都に隠修しているのであれば、火之本の俗世間で出会う女の姿をした者たちが、神官の手にかたどられた人工の似姿だという事実は周知にして前提である。

 まして、肉体のつくりに多少不自然に人の手が介しているからといって、何の差別の理由になろうか。肉体の汚穢おわいと関わらぬ、純粋なる精神体の天使を奉じるわが国である。磔刑像や教会美術に描かれる天使の肉体美は、その精神美の一表現にすぎない。肉を捨て霊に生きるという究極の理想には、すべての火之本人ひのもとじんがえんじるところなのだ。

「君にも神官にも礼を失した、今のは申し訳ない。とまれ、夜分に男女が連れ立っていては、いらぬ誤解を招くだろうに」

 なるだけ丁重に接してみると、少女はだんだんと桜色の唇を尖らせてゆき、呟いた。

「……あたし、やっぱり買われたんじゃなかったんですね」

 え、とユッタは目を丸くしたが、遅ればせて合点がいった。神官を除く全女性が娼婦という社会構成にあっては、売買春は何気ない日常の楽しみのひとつであり、――現時点でユッタの感覚に容れがたくはあるが、一般通念上、後ろ暗いところはほとんどないとされている。そのため、その合意を取りつけるにも男女の駆け引きだの恋愛めいた情感だのは重要でなく、欲しい女は抱く、好ましい男には侍るという、極めて簡潔な意思表示だけが意味を持つ。つまり、先ほど出会い頭で抱き締める体になったがために、彼女に致し方ない誤解を与えていたということである。

「のこのことついていって、とんだ恥をかかされました」

 人形私窩子の夜来香イエライシャンは、闇にも浮き上がって見える病的に白い頬を染め、青藍せいらん色の大きな目を不満げに細めると、じとっと湿り気を含んだ視線をユッタに投げかけた。こればかりは立つ瀬なく、ユッタがもごもごと言い淀んでいるうちに、夜来香の目尻にはじわじわと涙の珠が溜まってきた。

(なにも泣くほど、とも言うにははばかられる……。初物同士、と言っていたか……)

 勇んで臨んだ初仕事を茶化されたとあっては、おそらく人形娼婦の矜持に関わる事態なのであろう。色事に通じないユッタにそのあたりは心中察しかねるが、天使の御前で少女を泣かせたとあっては、こちらの教義不履行の問題にも由々しく関わることであった。

(汝、模像もぞうによりてこそ真理を受けよ、か……)

 ユッタは少女の傍に寄り、その正面に片膝をつくと、彼女の涙を人差し指の背でそっと拭った。そして両手を組み合わせ、目を閉じ祈りに集中する。

「天に対なす諸天使アイオーンがごとく、智なるソフィアの影がごとく。われわれのうちに宿りし神々の火に誓いて、修道士弓田ユッタ傀窩子でくかし夜来香イエライシャンが一夜の秘儀をここに契り、天使の御元へと奉らん」

 祈りを終えて見上げると、少女の顔は呆然として涙の余韻ははや失せていたが、むしろ稚気の残る面立ちのふくふくとした丸みと瞳の大きさ、それが湖水のように澄んでいるばかりか、春宵しゅんしょうの夜気と月光をたたえた聖堂のステンドグラスに似て、華やかなりしも凍えた光輝を深々しんしんと発していることばかりが、ユッタの興味を傾けさせ、心なずませるのであった。

「今、どういうことを天使と取り交わしたのですか」

 信仰心の乏しい少女に、ユッタは考え考え、呻吟しながらも告げた。

「君を今夜抱くということ。その閨は天使たちの関係に似て、ごく神聖な意味を帯びるということ。また、君を代償とせずに君そのものを愛することの価値を認め、天使にそう宣誓したということだ。重ねて礼を失したが、同情や責に駆られたゆえでは決してないことも、重ねて誓うよ」

 精いっぱいの誠意を込めたつもりのユッタであったが、それにも狐につままれたふうに黙り込んでしまう夜来香には、参ってしまった。

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