百二十六の城

鶴の門跡の石段を降りるとそこには緑色片岩の緩やかな勾配を描いた石垣が積まれていて、砂の丸と本丸の石垣の隙間のスペースには紫陽花あじさい所狭ところせましと育てられていた。


「季節外れなのが本当に残念だわ。」


完全に緑の葉っぱだけになってしまっている紫陽花を見てあゆみ先輩は残念そうにしている。


「紫陽花を見に来たわけじゃないし仕方ないな。」


たずねちゃんが先輩を励ますようにそう言った。


「そうね、分かっていたことだけど、でも残念ね。季節になると鶴の渓には綺麗な紫陽花が奥まで咲き乱れて青と紫の花で染まるのだけれど・・・」


「来年、もう一度来ましょう。」


残念そうにしている先輩を励ましたいだけではない、鶴の渓の紫陽花の話を聞くと私も綺麗な青や紫の紫陽花をこの目で見てみたいと思ったのだ。


今は一度枯れ落ちて来年まで待たなければ見れない状態だが、私の心の中の鶴の渓には綺麗な紫陽花が咲き乱れているような気がした。


「そうやそうや、来年また皆で来ればええんや。今日一日だけで和歌山城の全てが知れるわけやないんやし。」


私の言葉に同調して訪ちゃんもまた来ようと呼応する。


先輩はまた来年訪れようという三人の約束を交わせたことが嬉しかったのだろうかパッと明るい顔になって首を縦に振って頷いた。


「約束を交わせるのは嬉しいことね。また皆できましょうね。」


先輩は本当に嬉しそうだった。


ところで鶴の渓は本当の渓みたいに物凄く深いわけではない、私が見る限り西の丸に作られた砂の丸と本丸石垣の隙間の花園の事らしい。


花園を作ることで当時のお殿様はこの端境のスペースで寛いでいたのだろうか?


鶴の門を潜ると砂の丸の勘定所だし、そうかも知れないな・・・


私は乏しい思考で考える。


「確か、西の丸には庭園もあったし、それも合わせて景観を重視して作られたんかな?」


訪ちゃんは西の丸の庭園との位置関係も考えているようだった。


「そうみたいよ。でも現在の鶴の渓の紫陽花園は昔は実は池だったのよ。そして、鶴も実際にこの池で飼育されていたの。緩やかな石垣には黄色い山吹やまぶきの花がたくさん植えられていて、対面に置かれた庭園の漆喰壁しっくいかべには赤と白の花をつける檜椿ひのきばきが植えられていた。季節が来ると石垣の黄色い山吹と朱と白の檜椿が色とりどりの通路を作っていたみたいね。想像するだけでもとても美しいわ。」


先輩は美しい花々が織りなす西の丸の通路を思い浮かべてうっとりとした顔をしていた。


私も同じように想像するとなんだかとても綺麗な虹色の空間の中に立っているような気がした。


鶴の渓はそう言う空間だったのだ。


「なんか想像すると物凄いけど、春の季節の後は掃除が大変そうやな・・・」


訪ちゃんの言葉に私は急に現実の世界に呼び戻される。


確かに、椿は花ごと落ちるから葉っぱが舞い散ったようなそんな雰囲気にはならないし、一輪だけが道に落ちていればはかなさを感じて綺麗だけど、ぼたぼたとそこらに椿が落ちていると少し無粋かもしれない・・・


私がそんな事を訪ちゃんの言葉に考えさせられていると先輩がフフッと笑った。


「訪の言うとおりかもね。沢山の花が並んでいると華やかだけど現実には後の掃除が大変かもしれないわね。それに美しくて綺麗な花が華やかに咲き乱れているのは私は良いものだと思うけど、美しいものは一輪さえあれば良いと思う人もいるかも知れないわ。千利休せんのりきゅうみたいにね。」


先輩は鶴の渓の紫陽花に花が残ってないか探し始める。


季節は8月だし残っていれば相当遅咲きだけど、先輩はゆっくりと紫陽花の木を見て回るがやっぱり見つけることができなかった。


「この木の中に一つだけ紫陽花の花が残っていればそれは驚くほどに神々しくて美しかったかもしれないわ。」


先輩は見つからないと分かっていても残った一つだけの花を想像して紫陽花を探していたのだ。


一方で訪ちゃんは先輩がさっき話に出した千利休が気になって仕方なかったようだ。


「千利休って和歌山城と関係あるん?」


訪ちゃんが疑問をぶつけると先輩はあっさり


「無いわ。」


と首を横に振った。


「あなたが椿や山吹が散った時の掃除が大変そうだと言ったから、千利休の朝顔のエピソードを思い出したの・・・それを考えると鶴の渓の紫陽花に一つだけ花が残っていればそれは物凄く美しいのではないかと思ったのよ。」


先輩はそう言って微笑んだ。


千利休ってお茶の先生だよね・・・


「利休と言えば黒い茶碗と切腹しか思い浮かばんわ。」


訪ちゃんもそこまで千利休には詳しくないようだった。


「千利休は千宗易せんのそうえきとも言って、本名は田中与四郎たなかよしろうよ。」


「田中さんなのですか?千さんでは無いのですか?」


元々田中さんだったけど途中で千さんに名前を変えたのは想像できるが、全く別の名前過ぎてなぜそこまで飛んだのかは全く想像が働かない。


「うーん、田中でもあり千でもあるわ。利休の千姓はお祖父ちゃんの阿弥あみから取られているの。」


「網?編み?なにそれ?」


訪ちゃんにも意味がわからないようで理解が全く追いついていないようだ。


「阿弥っていうのは南無阿弥陀仏の阿弥よ、物凄く簡単に言えば法名ね。平安時代後期から戦国時代にかけて勢力を拡大した時宗門徒じしゅうもんとがよく阿弥を使用していたの。例えば足利義満あしかがよしみつに仕えた猿楽師さるがくし観阿弥かんあみ世阿弥ぜあみなんか特に有名よ、本阿弥ほんあみは安土桃山時代の後期から江戸時代にかけて能書や刀鍛冶で有名な、あの本阿弥光悦ほんあみこうえつよ。千姓も元は千阿弥と言う阿弥号から取られているの、千利休の高弟の山上宗二やまのうえのそうじは著書で千利休のことを田中宗易と言っているから千姓を当時本姓として名乗っていたのか通り名や号として使用していたのかは定かではないわ。」


千利休で有名なお茶の先生は元々田中さんだったのだ。


「ほんで、本題の利休の朝顔の話はなんなん?」


訪ちゃんはこのまま延々と利休の話になるのを恐れて話を本題に戻す。


先輩は訪ちゃんの言葉に現実に引き戻されたかのようにハッとして


「話が逸れそうだったわ。そう、朝顔の話ね。利休が天下の茶堂として秀吉の下で仕えていた時のことよ。ある日、秀吉が利休の育てていた沢山の朝顔がとても美しいという話を小耳に挟んで、朝顔を見てみたいと利休にお願いをするの。当然天下人の頼みだから利休も断れないわ。」


「秀吉が懇願こんがんするくらいやから茶人の間で知れ渡ってて有名やったんやな。」


当時はSNSも無いから情報の伝達スピードは遅い、それなのに秀吉の耳にしれたというのはとんでもなく有名なことだったのだ。


「早速茶会を開いて朝顔が最も美しい時間の早朝に秀吉を招待するのだけれど、秀吉が利休の茶室を訪れると外には一輪も朝顔が咲いておらず全て切り取られていたの。朝も早くに呼び出されて美しい朝顔を拝めると思って張り切っていた秀吉は、朝顔の惨状を見て激怒したわ。利休は秀吉の機嫌も気にせず茶室に案内すると狭い茶室の小さな小窓から漏れる光にキラキラと照らされたとても美しい朝顔が一輪、床の間の花入れに置かれていたの。秀吉はその美しさに感動して、利休のもてなしの心に感じ入り怒りを収め朝顔と茶の湯を楽しんだという話よ。」


千利休は秀吉が激怒して自分の心象が悪くなるのも恐れずに秀吉に美しい朝顔を見せるために選びに選びぬいた一輪の朝顔を秀吉の為に用意したのだ。


「花はとても美しい、だけど美しいものも群生するとその中には見劣りするものも必ず出てくるの、利休は丹精込めて育てた朝顔の選びに選びぬいた一輪だけを秀吉に饗するの、それがどれだけ贅沢なことか計り知れないわ。」


確かにその通りだが、せっかく育てた朝顔を一輪意外全て切り取って捨ててしまうのは勿体ないなあと小心者で小物の私はそう思うのだ。


「私が紫陽花を探したのは、朝顔の話とは全く関係無いのだけれど、でも、もしもまだ散っていない紫陽花がほんの一つだけこの群生する紫陽花の木の中で残っていたのなら、それは利休の朝顔にも劣らず綺麗だったかもしれないわ。私は季節外れの希望に賭けたのよ。」


先輩はそう言って何も咲いていない鶴の渓の紫陽花の木を見て笑った。


8月の暑い太陽の光が鶴の渓の狭間に所狭しと植えられた紫陽花の木に真上から綺麗に落ちていた。


もしもその中で一つだけ、紫陽花の花が残っていたならこの強い日差しに綺麗に照らされて美しかったのかもしれないな。


先輩の言葉に私と訪ちゃんはそう思わされるのだ。

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