第43話 還ってきたユリシーズ

 王太子は濡れた芝の上に転がったまま、掠れた声で言った。


「リー……セル? なぜ、」


 手を差し伸べて、王太子が体を起こすのを手伝う。

 私と目を合わせていたその茶色の双眸は、すぐに斜め下へ流れ、剣でバッサリと切られてしまった私の髪をひたと見た。


「リーセル、その髪はどうして、」


 王太子の目が、傍に落ちていた剣に辿り着く。そして信じられない、という表情で剣に焦点を当てたまま、自分の腰元の鞘に触れた。その空になっている鞘に。

 王太子の目がゆるゆると見開かれる。


「まさか……私が?」


 王太子は雨に霞む周囲の景色を見渡し、こめかみを押さえながら尋ねてきた。


「どうなっているんだ、何が起きた? ここは…」

「私があげたお守りは、何色だった?」


 王太子の言葉を遮って尋ねると、彼は私の唐突な質問に激しく瞬きをした。

 お願いだから、答えて欲しい。戦地に向かった彼しか知らないはずの、お守りの色を。


「リーセル、これは、」

「答えて! ミクノフに向かう前にあなたにあげたお守りのことよ……!」


 焦りで声が尖ってしまう。少し強い口調で問うと、王太子は雨に濡れて水滴を垂らし続ける前髪を、鬱陶しそうに払いながら、答えてくれた。


「――あれに、色はなかったよ。透明の水の花だった」


(ああ、神様!!)


 感極まって、目頭が熱くなる。

 ――彼だ。

 私のユリシーズが、本当に戻ったのだ。

 嬉し過ぎて力が入らず、へなへなと地面に膝を突いてしまう。

 やっとの思いでぎこちない笑顔を見せながら、私は王太子を見上げた。


「殿下、お帰りなさい」

「――殿下?」


 王太子はすぐに自分の衣服を見下ろした。

 豪奢な刺繍が施された袖に触れ、両手を見下ろし、数秒ほど硬直していた。そのあとでハッと息を呑み、自分の顔に両手で触れた。

 おそらく、顔を確かめようとしている。

 茶色の目が愕然と見開かれ、手が小刻みに震えている。


「まさか……。いや、あり得ない……!」


 突然の事態に王太子はすっかり動揺している。

 私は自分のポケットに手を突っ込み、携帯している丸い手鏡を彼に差し出した。

 王太子は無言でそれを受け取り、鏡の中の自分を覗き込んだ。

 雨に濡れて見にくい表面を、何度も手で擦って水しぶきを払いながら。


「そんな! 信じられない」


 彼は自分の顔に何度も手を這わせながら、鏡の中を確かめた。王太子に――本来の姿に戻ったことが、すぐには信じられないのだろう。破られた古魔術集に何が書かれていたかなんて、彼は知るはずもなかったのだから。


「一体、何が……」


 王太子は鏡を握りしめたまま、私に向き直った。動揺に震える眼差しを必死に私に向け、掠れた声で訴える。


「リーセル、私だよ。ギディオン・ランカ…、いや、違う。何から話せばいいのか、」

「いいの。私、全部知ってるの。多分あなたよりもね」

「知ってる?」

「ええ。私たちが今、二度目の人生を歩んでいるっていうこと。私たちが一度目の人生でも、愛し合っていたこと。巻き戻ってからのあなたは、ついさっきまでギディオンの中にいたこと」

「――いつから?」

「戻った時から、ずっとよ」


 王太子は震える手を私に向かって伸ばし、けれど遠慮がちに途中で下ろした。


「覚えていた? 何もかも……?」

「そうよ。だからマックとシンシアと、未来を変えたの」

「リーセル、君はそんなことはおくびにも出さなかったのに」

「あなた達が入れ替わっていると知ったのは、ごく最近のことなのよ」


 王太子は自分の両手を広げて、手のひらを覗き込んだ。


「なぜまた元に戻れたのか、全く分からない」

「あなたの中にさっきまでいたギディオンは、時が来れば入れ替わりが解消してしまうのを、阻止しようとしていたのよ。でもきっと今頃、本当の身体を取り戻したわ」


 王太子は再び視線を上げ、私を見た。


「私達は戻れたのか? 自分の身体に……」

「そうよ。『発議者』と『発動者』は、本当の姿を取り戻したのよ、ユリシーズ。――とりあえず屋根がある所に行きましょうか」


 全身は雨を浴びてずぶ濡れで、冷えた足で立ち上がろうとするとふらついてしまう。

 王太子は私を支えようと腕を伸ばし、けれどその視線が首元に釘付けになる。


「すぐに、医務室に行こう! 血が出ている」


 フラフラと立ち上がると、私の背中に手を回す。その雨に濡れた王太子の手が背に触れた瞬間、無意識にヒラリと避けてしまった。

 そればかりか、右手でパシッと軽く振り払ってしまった。

 王太子の目が傷ついたように陰る。


「あ、ご…ごめんなさい」


 中にいるのが共に学んだあのギディオンで、本物のユリシーズだと言うことに、すぐには順応できない。気を取り直して彼の手を取ると、その熱さに驚く。

 医務室に直行しないといけないのは、彼も同じだった。

 私は彼を支えて歩かせようとした。

 そしてはたと気がついた。


「そういえば、ギディオンは今までどこにいたの?」

「昨日までは国境の空き家で、寝泊りしていたよ。上官が怪しい動きをしていたから、ずっと警戒していたんだ。だからサーベルの残党が天幕に乱入してきた時に、その一人を私に仕立て上げて、寸前で逃げ出した。隊に戻ればまた命を狙われるから、身を潜めていた。今は丁度王都に向かっている途上で、野宿していたよ」

「野宿?」

「蚊に刺されて大変だった。――顔が腫れ上がったお陰で、人相を隠せたけどね」

「大変。今頃、ギディオンは元に戻ってパニックなんじゃない?」

「そうだね。持っていた食べ物もちょうど尽きるところだったし」


 今頃本当の体に戻って目覚めているだろうその姿を想像し、ちょっぴり同情してしまった。




 ユリシーズはその後、風邪をひいて高熱を出し、五日間寝込んだ。

 近衛魔術師の私はその間休暇となり、王都の酒場でシンシアとマックの三人で、無事に『あの日』を迎えられたことを盛大に祝った。


 酒場ではとある貴族のスキャンダルがもちきりだった。ランカスター公爵家のことだ。

 死んだと思われていたギディオン・ランカスターが奇跡の生還を遂げ、公爵が大喜びしたこと。けれど彼は火の中の天幕から逃げ出すときに魔術をすっかり失ってしまい、そのショックから人がすっかり変わってしまい、公爵家の人々は戸惑っているらしい。王宮魔術師は辞めざるを得ないだろう。

 中身が本当に変わったのだから仕方がない。その代わりにおそらく、寝込んでいるユリシーズに魔術が戻っていた。魔力は魂に付随するのだ。



 王太子の風邪が治ってから初めての出勤日。

 私はまるで、近衛魔術師として初めて王宮に来た時のように緊張をした。

 王太子の執務室の大きなドアの前に立ち、ノックをする瞬間まで、異様に心臓がバクバクと鳴っていた。

 ごくりと喉を鳴らしてから、トントンと扉を叩く。

「どうぞ」という聴き慣れた王太子の声がした。声そのものはつい先日までの王太子のものと変わらない。

 だが、微妙な発声の柔らかさや、言い方に違いを感じる。

 扉を後ろ手で閉めて、中に入る。

 王太子は執務室の机から離れ、大理石の床の上をこちらに向かって笑顔で歩いてくる。

 それは見慣れたようで、ちっとも見慣れていない、十三年ぶりに見る本当の王太子の姿だった。




 王太子ユリシーズは高熱から復活すると、公務をこなすのに少し苦労した。彼は高熱の後、部分的に記憶が抜ける後遺症を負った(ということにされた)。

 何せ十三年ぶりなのだ。一度目の人生で同じことをしていたとは言え、そう簡単にはいかない。王太子にこの一年ずっと付き添っていた私が、細かなことを教え、なんとか彼の復帰を助けた。

 侍従達も初めは困惑したが、彼の性格が丸くなり、穏やかになったことに対し、寧ろ怪我の功名だとユリシーズの変化を喜んだ。

 飲み込みの速いユリシーズは一月もすると、いちいち私や周囲の者に確認することなく、一人で粛々と執務をこなせるようになった。

 彼はたびたび私の方を向いては、切ない表情を浮かべた。


「リーセル、髪の毛を本当にごめん」


 肩先で切りそろえた私の黒髪を、ユリシーズが指先で触れる。短く切らざるを得なかったのを、自分のせいだと思っているらしい。

 分別のある彼は執務中は私と一定の距離を保ったし、まず彼が今、一番に取り組む必要があるのは、公務のペースを取り戻すことだった。そこに肉体的にも精神的にも、全力を傾けなければならなかった。

 だから私達はあの雨の日以来、気持ちを封印してただの近衛魔術師と王太子であり続けた。

 何より私の心境も複雑だった。

 私達には気持ちを整理する時間が必要だった。



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