第42話 (偽)王太子の追放②
王太子は片手で乱雑に私の手を振り払った。
「お前はあいつの最大の弱みだったから、そばにおいたよ。まさかギディオンになっているあいつと、また恋に落ちるとはね。あの時点で、お前にも記憶があると気づくべきだった。――全く、この術は欠陥だらけだな」
「あなたは勝手すぎるわ! 人の人生を盗み取るなんて」
「じゃあ、お前は二度目の人生に、何を望んだ?」
その質問は私の胸に、深く突き刺さった。
私たちはしばらくの間、大雨に打たれながら、お互いの目にお互いの顔を映して固まっていた。池の水面を激しく叩く、雨の音を聞きながら。
――私は、何を望んだか。
それに答えるのはとても簡単なようで、実は難しかった。
時間が戻って目覚めた時の六歳のあの朝を思い出す。
あの時に望んだのは、本当に単純な未来だった。
全身から力が抜けた。
ゆっくりと首を左右に振る。
目の前の、王太子の仮面を被った――いや、王太子の仮面を盗んだ男を睨みつけながら。
「私は、祖父の屋敷で平穏な人生を送ろうとしたわ。弟と、長生きをするって誓って」
王太子にもギディオンにも、もう会いたくなかった。
けれど私たちの運命は強く絡み合ってしまっていて、無関係ではいられなかった。
結局はここ、王宮に来てしまった。
「愛する人に殺されて、もうあなたたちに関わらないで生きようとしたのよ」
あの時、ユリシーズは私の胸を剣で刺した。彼は悲しみで心を砕き、それは強大な力に変換され、『三賢者の時乞い』の魔術を成就させた。だが心を砕かれたのは、この私も同じだった。
だからもう、二度と王太子に関わりたくなかった。
「でも、違うわ。あなた達は報いを受けるべきだったのよ。私が逃げるのは、間違っていた。――あなたが偽物だと、みんなに訴えてやるわ」
「誰が信じる? 病院送りになって一生監禁されるぞ。このことは、世界中で私たち三人しか知らなかったのに」
本当はギディオンに聞くべきだった質問を、王太子にぶつける。
「ギディオンにも、時間が巻き戻る前の記憶が残っていたの?」
すると王太子は一瞬目を見開き、そのすぐ後に噴き出した。
「は! なんてことだ。愚かな! 何も奴から聞いてなかったのか? それなのに惹かれたのか! 奴も何もかも覚えているぞ」
「やっぱり、そうだったのね…」
王太子は青ざめる私を見下ろして、意地悪そうに言った。
「時間を巻き戻してまでお前を助けたのに、実に歯痒い思いをしただろうな」
口を開けると雨粒が入り込み、それを飲み込む。今や下着まで濡れていたが、それどころじゃなかった。
(やっぱりあなたにも、全ての記憶があったなんて。一体どんな気持ちで、私に接していたの?)
その時唐突に耳の中にこだましたのは、王宮の庭園で以前、ギディオンが言った台詞だった。
「この顔で、君とキスしたくない」
彼は仮の姿である、ギディオン・ランカスターの姿で私とキスをしたくなかったのだ。何度も私の頬や額にキスをしてくれたけれど、ギディオンの姿では、決して私と唇を重ねようとはしなかった。
彼が王太子の記憶を持っていた――そう考えれば、彼の学院時代の行動も、全て腑に落ちた。
王太子は剣を地面から抜いた。
また彼が剣を振る前に、私は素早く魔術を唱えた。水の竜で、私の上に座る王太子を薙ぎ払うのだ。
「集え、水の…」
パシッと鈍い音がしたと思うと、視界が一瞬真っ白になった。続けて鋭い痛みが頬を襲う。
王太子が私を引っ叩いたのだ。水溜りの水が跳ね上がって目に入り、視界が濁る。
ようやく目を開けられた時、反撃の隙はもうなくなっていた。
王太子は私の喉元に剣先を当てていた。剣に降り注ぐ雨が、剣を伝って私の喉を流れていく。
「哀れな魔術師。気の毒な前世に免じて、命だけは助けてやるつもりだったのに。……お前のことは、出来れば手に掛けたくなかったのに。ばかなことをしたな。またあいつを好きになるなんて」
そう言うと王太子は、口の端を歪めて自嘲気味に笑った。
「俺がギディオンだった頃など、誰も俺を慕ってくれなかったのに。あいつは誰になっても、皆から愛される」
意外な言葉に目を見開く。そこに彼の妬みを感じた。
「分かっていたよ。アイリスに好意を寄せられるほどに、虚しさが募った。アイリスが好きなのは、俺じゃない。ただ俺が王太子だからだ」
「殿下……」
弱音を振り払うように、王太子は頭を激しく左右に振った。その後で暗い目つきで私を見下ろす。
「全てを知っているお前を、生かしておくわけにはいかない。……言い残したことは?」
王太子は剣を握り直し、剣先を私の喉に押し付けた。
王太子の目から、ひっきりなしに雨粒が流れている。まるでそれが、涙のように見える。
彼に残されたものは、何だったんだろう。
手に入れようとした聖女は、永遠に囚われ人だ。
この先、本当に偽りの人生を死ぬまで歩むつもりなんだろうか?
剣先は震えており、なかなか振り下ろされない。王太子も葛藤しているようだ。
私はそこに賭けた。
(あと、少し。少しだけ時間を稼ぎたい……)
ここで二度目の人生も王太子に殺されるわけには、いかない。
雨に打たれて冷えたのか、持ち上げた私の手の指先は、もう感覚がほとんどない。
王太子の動揺に合わせてガタガタと小刻みに揺れる剣先が、私の皮膚を一体どのくらい傷つけているのかが、猛烈に気になる。
「あなたが憎い。それでも、一緒にいて時々はあなたにも良いところがあったわ、殿下。ピアランのチョコレート、本当に美味しかったの。あの時は嬉しかったわ」
王太子の頬がぴくりと動いた。開きかけた唇が震える。
「なぜ、今、そんなことを。下らんっ」
「殿下との庭園のお散歩は、白状すると、実はちょっと好きだったわ。私にも息抜きになったから」
王太子は肩を上下に揺らして、大きく息を吸ったり吐いたりしていた。これは困惑しているんだろうか? それとも怒り?
でも私が彼と過ごした日々が、実は時には少し良いこともあったのと同じように、きっとあの頃、彼も少しは楽しんでくれたはずだ。私たちの中には、良い時も、悪い時もあった。
私は手を更に上げ、王太子の肘に触れた。彼は微かに頰を引き攣らせたが、それ以上は動かなかった。
雨と涙で、顔が良く見えない。でもこうして王太子に触れるのは、十三年振りかもしれない。
これは、『彼』に向ける言葉だ。
「ユリシーズ、私はやっぱり今もあなたを、愛してる」
剣がグラリと傾く。王太子が何故か剣から手を離したのだ。顔に倒れ込んでくる銀色の剣を避けようと、どうにか顔の位置をずらして、難を逃れる。
剣はガシャっと私の顔の横に転がった。
王太子は私の首に両手をかけた。私の首を絞めようというのか。
だがその手は震えていて、なかなか力が入らない。
今こそ魔術を使うべきか悩んだ。だが、あと少しの辛抱なのだ。ユリシーズの身体を傷つけたくない。
もうこの頃になると、この王太子は私を殺さないだろう、という妙な確信があった。
王太子は時間をかけて両手を絞めようとして、けれど力が急に緩み、彼は私の首から手を離した。そのまま彼は両手で自分の顔を覆った。
「俺が巻き戻してでも欲しかったのは、それだった。誰かに俺だけを、心から愛してもらいたかった」
「あなたもいつか、得られるわ。生きている限り、人生は何度でもやり直せるわ」
ギディオンは、絶対に生きている。彼の中に戻って、本当の自分の人生をやり直してほしい。
「……俺には、どうせその価値はない」
「そんなことない」
やらなくちゃいけないのだ。
多分、一番自分を低く見積もっていたのは、彼自身なのだ。
王太子は嗚咽していたが、やがて押し黙った。
「殿下?」
声をかけると彼の体がグラッと傾いた。顔を覆っていた手が力なく離れ、一瞬虚ろな顔が見えた。
王太子の体はそのまま崩れるように横に倒れ、私の右側に転がった。
乗っていた体重がなくなり、やっと上半身を起こす。
横向きに転がる王太子の肩を、膝を突いて揺する。
長い睫毛に縁取られた目は、閉じられていてまるで気を失ってしまったみたいだ。
「殿下、どうなさったんです?」
そのとき、遠くから鐘の鳴る重低音が響いた。
強い雨の中を、縫うように何度も鐘の音がする。どこかで、正午を知らせる鐘が鳴っていた。
(正午だ。――正午!!)
両手を握りしめ、鈍色の天を仰ぐ。
これは、前回の私が聴くことがなかった、鐘の音。
ついにあの時間を乗り切ったのだ。
前回のリーセルが殺された時間が、過ぎた。
「やった。し、死ななかった。私、生き延びたんだ……!」
雨を浴びながら、喜びが溢れて自然に笑いが込み上げた。興奮で寒さは全く感じない。
その時、微かな呻き声が聞こえた。視線を下ろすと、王太子の片手がピクリと動いた。
続けてその腕が動き、彼は大きく息を吐いた。その姿を、固唾を呑んで見守る。
茶色の目が開き、数回瞬きをした後で、視線がさまよって私にたどり着く。
さっき聞いた、破り取られた古魔術集に書かれていたことを思い出す。
新たな時間を歩み始めたとき、入れ替わった魂は。
本当に?
ああ、――本当に?
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