第41話 (偽)王太子の追放①
私の腕をきつく掴み、力づくで立たせると王太子はつぶやいた。
「やってくれたな。――リーセル・クロウ」
そのまま彼は猛烈な力で、私を謁見の間から連れ出した。謁見の間は聖女の退場にいまだ騒然としており、私達に注意を払う者はいなかった。
廊下へ出るとバルコニーに飛び出て、私を掴んだまま外に出る。
外は相変わらず大雨が降っていて、私たちはあっという間にずぶ濡れになった。
「はなして! 殿下!」
王太子はバルコニーから庭園へと続く階段に向かい、私を引き摺り下ろした。足がもつれ、庭園の芝生につまづき、靴が脱げる。
芝生はすっかり雨を吸い、たちまち靴下まで濡れそぼる。
王太子は私から手を離すと、腰にぶら下げていた剣を抜き、私に向かって振り上げた。
(殺される!)
あまりの恐怖に心臓が縮み上がる。
とっさに私は庭園の奥に向かって走りだした。
「待て!」
バシャバシャと水を蹴散らし、私を追う王太子の足音が聞こえる。
急いで走っているので、魔術を繰り出す暇もない。どうにかしなければと思っても、焦りのあまり思考がまとまらない。
(どっちに。どこに逃げる!?)
庭園の中には黄金離宮が立っている。そこなら衛兵がたくさんいる。
黄金離宮を目指して走るも、途中の池に道を阻まれ、迂回しようと横に駆け出したところで、右腕を王太子に掴まれて引きずり倒される。
水溜りの中に倒れ込み、大きく水が跳ね上がって私の全身にかかる。既に濡れそぼっている身体の上に。
私が転がるや否や、王太子は私の上に馬乗りになった。
目を彷徨わせて周囲を窺うが、庭園は雨ですっかり霞み、近くしか見渡せない。視界がきかず、王宮からも黄金離宮からも、私たちの姿は見えないに違いない。
目を上に上げると、王太子が振り上げた剣が真っ直ぐに私の顔目掛けて振り下ろされるところだった。
必死に首を動かして顔を背け、その剣先から逃れる。
剣は左耳のすぐ横で、鈍い音を立てて私の髪の毛を巻き込んで芝の地面に突き刺さった。
恐怖で顔を上げることができない。とっさに振り上げていた両手は、王太子が左手で地面に縫いとめる。
降り注ぐ雨で、目も開けにくい。
やがて静かな怒りに満ちた低い声が、頭上から降り注いだ。
「やっと分かったよ。なんてことだ。お前にも記憶があったんだな、リーセル・クロウ」
体が固まってしまって、動けない。なんとか目を開けて、上に乗る王太子の顔を恐る恐る見上げる。
顔は影になっていて、よく見えない。
だが、私の手首を押さえる力の強さから、その怒りははっきりとわかった。
無理もない。私は彼の努力を台無しにしたのだから。
「とんでもない芝居を打ってくれたな。壮大な、見事な芝居だったよ。こんなちゃぶ台返しを演じてくれるとは。あんなに非力だったお前が、見違えたよ。一体、いつジュモー家を味方に? まさかお前まで全てを覚えているとはな」
「覚えてるし、知っているわ。あなたが、ランカスター公爵家のギディオンだと。二人は時間が戻って入れ替わったんでしょう?」
王太子は彼は背をのけぞらせて笑った。
そうして剣から手を離すと、私の顎を掴み息がかかるほどの近さで、私を睨みつけた。
「全く、こざかしい。あのユリシーズもお綺麗すぎて反吐が出るほど嫌いだったが、お前ももう少し従順なら、殺さずに済んだのにな」
「あなたは、どうしてこんなことを?」
王太子の茶色の瞳が、陰った。彼に打ち付ける雨が、大きな粒となって私の上に落ちる。
あの王子が、嫌いだったよ、と彼は呟いた。
そうして遠い目で語り始めた。
時間を巻き戻す前。
ギディオンは王太子の遊び相手として、子供の頃から頻繁に王宮に遊びに来ていた。
だが王太子のことが、実は嫌いだった。
ギディオンが侍女や女官たちをぞんざいに扱ったり、意地悪をするたびに、王太子は彼にそれをやめるよう言ってきた。それが、気に食わなかった。
人間は上に立つ者と、虐げられる者に分かれる。それなのに、なぜ下々の者を庇う?
踏まれて当然の侍女を、踏んで何が悪いのだ。
汚い顔の馬丁を、蹴飛ばして馬糞の山に突っ込ませて何がいけない。
ギディオンは「正しいこと」を説く王太子が、大嫌いだった。
そもそも、ランカスター家の先祖は王子の一人だ。祖を同じくするのに、自分は永遠の家臣なのだ。
ギディオンも努力はした。
勉強も、剣も、魔術も。
だが魔術以外は王太子にかなわず、いつも悔しい思いをした。どんなに頑張っても、みなユリシーズが好きで、彼を慕うのだ。
光の中にいて、どこまでもそこを真っ直ぐに進むユリシーズが、妬ましい。
だが、ユリシーズも所詮ただの人だった。彼はある愚かな過ちを犯した。
小さな地方領主の娘でしかない、王宮魔術師と恋に落ちたのだ。
国王は彼女との結婚を認めず、愛人としてなら認めてやる、と吐き捨てたという。愛人という言葉に、王太子は酷くショックを受けていた。
そんな頃、アイリスの父が狩りの最中に仕留めかけた大きな鹿に襲われ、瀕死になった。アイリスは父を治癒しようとして、聖女として目覚めたのだ。
アイリスは、ギディオンの宝物だ。
最愛の人であり、いつか妻に、と思っていた。
だがアイリスは王国の聖女となり、王太子にすっかり心を奪われてしまった。
(アイリスが幸せなら、それでいい)
彼女に嫌われたくなかった。
聖女が王太子妃に上り詰めるのを、全力で補佐した。
アイリスや彼女の実家のゼファーム家と共謀して侍女を矢で射殺し、毒入りの紅茶を準備した。そうしてアイリスに請われるがまま、邪魔者だった非力な領主の娘を、暗殺犯に仕立てることに協力した。
アイリスに感謝されるたび、満足感に包まれた。
だが、アイリスが特別な笑顔を向けてくれるのは、ほんのひと時だけだった。王太子の妃となれば、彼女の目に入るのは王太子だけになり、もう自分のことなど、見向きもしなくなるだろう。
そしてある時、古魔術集の中に、ついに見つけてしまった。本当は自分が何をしたかったのかを。
(これなら、できる。俺の望みが叶う)
三賢者の時戻しは、大きな副反応が起きる可能性が高い術だった。あまりにも強い魔術を必要とする為、『発議者』と『発動者』は確実に魔力の上限点を迎え、高確率で魂が入れ替わってしまうのだ。
願ったり叶ったりだ。
(王太子の人生を、俺のものにしてやる)
もし入れ替われなくても、未来はギディオンの手の内にある。
狩場の事故を防げば、いい。彼女が聖女にさえ、ならなければ。
そして、アイリスを妻にする。
隣国に行っていた王太子は、レイア国内で自分の恋人が窮地に陥っていることを、知らなかった。いや、意図的に知らされていなかった。
だからギディオンが戦地に飛び込み、帰国最中の王太子に提案したのだ。もはや、時間を戻すしか、彼女を救う方法はない、と。実際、もうそれしか彼女を救う手立てなど、なかった。
ギディオン自身もほんの少し、なんの罪もない魔術師に同情をしていた。
「俺はアイリスが好きなんです。時を戻して、俺もアイリスとやり直したい」
聖女の取り巻きのギディオンが「リーセルの処刑を止めよう」などと言うものだから、王太子も最初は彼の言うことを疑った。だが、ギディオンは言った。
『三賢者の時乞い』を行うために、王太子に全魔力を渡してもいい。そしてそんなことをすれば今後何度生まれ変わっても魔力を二度と取り戻せないとしても、アイリスの為なら構わないのだ、と。勿論、入れ替わりの話はおくびにも出さなかった。
かくして王太子はその話に乗った。
王宮に戻ると、処刑を見るために集まった民衆の怒号が飛び交っていた。彼らはリーセルを酷く罵り、口々に「はやく処刑しろ」と叫んでいた。なぜ人がこんなに残酷になれるのか、と王太子は右手を焦りと悔しさで握りしめていた。その彼の背後で、囁いてやる。
「殿下。もはや、迷っている隙はありません。術の発動のため、俺の全魔力をお受け取りください」
何の抵抗もせず、係官たちに地下牢から連れ出され、処刑場へとつながる階段を上るリーセルを見て、王太子は愕然とした。そしてこの事態を招いた、自分の愚かさを呪った。
もう、時を戻すしかなかった。
そして、賽はギディオンの思い通りに転がった。
古魔術集に書かれていた副反応は、眉唾物ではなかった。時間が戻って目覚めると、自分は王太子になっていたのだ。
叩きつけるように降り続ける雨を浴びながら、
「魔力は失った。だが、俺は全てに恵まれた、最高の男に生まれ変われた!」
王太子はそこまで話すと、喉を鳴らしてさも楽しげに笑った。
ようやく私は、ずっと疑問だったことを尋ねる。
「『三賢者の時戻し』の古魔術集を破ったのは、あなたなんでしょう? そのページには、何が書いてあったの?」
入れ替わりのことだけではないはずだ。事実として既に二人には分かってしまっているのだから。今さら破いても意味はない。彼が『発動者』に見られたくなかった、何かが書かれていたはず。
「知りたいか? あの魔術には副反応として、二人の魔術師の魂の入れ替わりが起こる可能性がある。それはさけようもない失敗の一つだが、古魔術集には「真っ白な新しい時を刻み始めた時、誤った現象は正しきに帰る。すなわち、さまよえる
「それは、どういう意味?」
王太子はまるで勝利したかのように、高らかに笑った。
「新しい日々――つまり、俺たちが時間を巻き戻したあの時を再び迎えて、まだ未来が決まっていない新しい時間を刻み始めた時。お前が死んだあの時刻を超えた時。入れ替わりは元に戻る」
「戻る? またユリシーズの魂が、あなたの――王太子の体の中に、戻るということ?」
「そうだ。何も起こらなければ、そのうち入れ替わりは解消されるはずだった。だが片方が死んだら、元には戻らずこのままになるんだよ、リーセル」
言われた意味を咀嚼するのに、ほんの少し時間がかかった。そして、言わんとすることが分かると、血の気が引いた。
今目の前にいるこの王太子は巻き戻した時を迎える前に、ギディオンに死んでもらおうとしたのだ。彼の力を散々に利用し尽くした後で。そうすれば二人の魂が再び入れ替わることは不可能になるから。
私は手を振り解くと、王太子の胸元に手を伸ばし、彼の襟を鷲掴みにした。自分の両手の指が絡まるほど、強く襟を掴む。
「だから、――だからギディオンを魔術兵の団長になんて命じたのね。彼を、戦地のゴタゴタに紛れて、殺させる計画だったのね!」
「ご明察。でも、遅すぎたな。奴は死に、この世から消えた。これからもずっと、この身体は俺のものだ。俺はもう、永遠に王太子だ」
嘘だ、彼はそう簡単に死んだりしない。
きっと無事に戻ってくる。前回がそうだったように。
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