第2話 咲坂ヒビヤは教師になる(二)

 一瞬、何を言われたかわからなかった。教師――とは、あの教師のことか。でも自分は教員免許など持っていないし、なれるほど得意な科目があるわけでもない。だから、


「――え?」


 ヒビヤは飽きれるくらい、まともに言葉を紡げなかった。


「ああいや、勘違いさせてすまない、教師と言っても普通の教師じゃない。言うなれば部活の顧問のようなものだ」


 そこで一旦区切り、コトネはヒビヤの左中指にある指輪に視線を向ける。そこでようやく気づいた。コトネのいう学園、それは指輪魔法学園と呼ばれるもの――ならば、教えることなど一つしかない。


「指輪の使い方を教えればいいんですね」


 その通りだ、といわんばかりにコトネは微笑む。


「だが、お前に望むことはそれだけではない。この残酷な世界に生きる生徒たちの支えとなり、導き手となり、危機あらば命をかけて守る――かつて英雄だったお前にしかできないことを、私は望む。それでも、やってくれるか?」


 断る理由などなかった。


 本当のことを言えば、先生が帰ってくることはもうないとヒビヤは思っていた。それでも、このままこうして待ち続けていればふらっと帰ってくるかもしれない――そんな期待が心のどこかにあった。同時に、先生が出ていくのを止められなかった自分に一体何の価値があるのかという諦めも存在していた。


 もしかしたら、立ち上がるきっかけが欲しかっただけなのかもしれない。


 ヒビヤは震える体で立ち上がろうとして、その場に倒れ込む寸前をエイジに支えられる。エイジは何かを口にしようとするが、ヒビヤの顔を見て口をつぐんだ。


「――是非、やらせてください」


 外で、鳥の群れが羽ばたく音が聞こえた。


「歓迎する、咲坂ヒビヤ。私はお前の働きに期待しているからな」


 コトネはそれだけ言うと、ヒビヤに背を向けて去ってしまった。おそらくコトネが出ていったのだろう、家の扉が開かれる音、閉じる音がして、続いてその場に静寂が訪れる。


 ――これで終わりなのか。


 そう思ってしまった。もう少し問答を続けたかったとか、テストとかをしたかったわけではない。ただ、なんかの契約書にサインをしたりとかそういう手続きがあるのではないか。たしかにコトネは学園の理事長ではあるが、略式にも程がある。


 つい横目でエイジを見ると、先ほどまで大真面目な顔をしていたくせにその大きな口がニヤリと歪められ、


「――満点っ!」


 わしゃわしゃと頭がかき回される。


「な、なんだよもう」


「気づかなかったのかヒビヤ、さっきのコトネの顔だ。ぐぬぬーつって口元引き結んでな、にやけそうになる顔必死に我慢してんだぜ? 笑いが堪え切られないくらいの答えを返せるなら男として満点って話だよ。女は笑顔が一番だからな」


 そういうものか。


「でもさ、エイジの言ってること違くない? コトネさん、笑うの堪えてただろ?」


「ばっかお前。コトネが滅多に感情を出さないのを知らないのか?」


 そんなことないと思うけど。


「ただまあ、お前の前でだけはそんなことないけどな。言ってしまえば今回お前を教師に迎えようとしてしたのだって、自分の目の届くところに置いておきたいからだって」


 ――ピリリリリ。スマートフォンの着信音だ。どうやらエイジのものらしい。エイジはわり、と手で断ってポケットから取り出してはいもしもし、


「――なあエイジ、もしやとは思うが余計なことは喋っていないだろうな?」


 コトネの声だった。エイジが知らぬ間にスピーカーボタンが押されていたようで、ヒビヤにまで声が聞こえてくる。


「言ってねえよ。つか、電話してくるくらいなら戻ってこいよ」


 スピーカー機能は切ったようで、コトネの声は聞こえなくなった。それから少し間があってから、エイジが一言二言返事し、また間があって、エイジが弾かれたようにスマートフォンから耳を離して、また返事、耳を離す。どうやら通話は終わったようだ。エイジが耳を抑えながらヒビヤに向き直る。


「ったく、なんでスピーカーがついてたんだか。耳がいてえのなんの」


「コトネさんなんて言ってた?」


「特に大したこた言ってなかった。いつもの俺へのお小言だよ」


 エイジが嘘をつくやつだとは思っていないが、目の前で「まだ耳がキンキンしやがる」とかぼやきながら耳を弄くりまわしているまぬけな姿を見ると嘘は言っていないな、とヒビヤは思う。


 ふと、


「あのさ、それで俺はどうすれば?」


 教師になると言ったはいいが、いつどこに何を着て何を持っていけばいいのかさっぱりわからない。そんな不安を蹴っ飛ばすかのようにエイジはニッと笑って、


「ああ、それについてはまた連絡するわ。ま、今日はもう休め」


 それだけ言い残して部屋を出ていこうとするので、つい腕を掴もうと、


 瞬間、


 視界が反転した。


「――え?」


「あーほら、言わんこっちゃねえ。お前、どれだけ飯抜いてたんだかわかってんのか。もちろん俺は知らんけどな、目に見えてわかるくらい衰弱してんだから今日はもう休めって言ったんだ。――いや、これは俺の説明不足か」


 エイジはゴミ袋や衣類で埋め尽くされた足場を軽く整理してヒビヤを寝かせる。くそ、情けないったらない。


「しっかし、コトネがいなくてよかったな。お前も情けないとこを見られたくなかった。コトネもお前が辛いとこを見たくなかった。これぞ不幸中の幸いってやつなんじゃね?」


 ――そういえば、エイジも教師なんだっけ。


 そう思うと、エイジの笑顔が頼もしく、かっこよく見えてくる。


「どした、ヒビヤ?」


「――いや」


 これが教師か。


 人を気遣って、笑顔で心配させないようにして、今このように続く誰かの道しるべとなって、真っ直ぐに生きる。


 ――決意した日に目標ができるのは、いいことかもしれない。


 声に出して伝えるのは恥ずかしいと思ったから、心の中で思う。その煙草に火をつけようとしている横顔を見ながら、


「あの、ここで吸わないでもらえる?」


「げ」


 目標にする人間、間違ってたかもしれない。

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