第7話 緑の館と狂犬王子(4)


 初出勤から一週間、ついにすべての掃除が終わった。

 最初は広い場所で自分ではとうてい終わらないと正直不安だったけれど、伯爵家のように邪魔さえなければ案外終わるらしい。

 今後、綺麗な状態を維持するのも大丈夫そうだ。



「命じられていた館の掃除が終わりました!」



 私は胸を張って執務室にいるクロヴィス殿下に報告しに行った。



「まだ終わっていない」

「え?」



 どこか掃除し忘れたところはあっただろうかと、血の気が引いていく頭で思い出す。

 けれど分からない。

 すると殿下はトントンと人差し指で机を叩いた。



「最後にこの部屋を綺麗にするように。俺は王宮に用があって出かける」

「かしこまりました」

「先に言っておくが、部屋の前に一人騎士を置いておく。重いものを運んだり、必要なものがあれば頼めばいい」

「ありがとうございます」



 それだけ言うとクロヴィス殿下は出かけてしまわれた。



 執務室は大切な書類がある場所だ。騎士が扉の前にいるとはいえ、新米の私に触れさすなんてなんと光栄なことだろうか。少しは信用してくれたのかもと思うと、やる気も出るわけで。



「いつお帰りになるか聞いてないけれど、それまでに終わらせてみせるわ」



 私は腕まくりをして、床に散らばった書類を拾い始めた。

 本の冒頭を確認してからジャンル別かつタイトル順にワゴンに並べ、書類も騎士に用意してもらった箱に分類して投げ込む。箱にはきちんとラベルを貼って、見つけやすいようにするのを忘れない。



 落書きのような紙も混ざっていたが一切捨てることなく、未分類の箱に残すことにした。暗号かもしれないしね。

 そしてすっかり日が傾き、クロヴィス殿下が戻られたときは私が床のモップ掛けを終えたところだった。



「まだいたのか」

「申し訳ありません。モップを片付ければ帰ります」

「いや、待ってくれてて良かった」



 クロヴィス殿下がアスラン卿にモップを片付けるよう指示したあと、ワゴンに並んだ本や書類の箱をゆっくり見ていく。



「さきほどエントランスや空き部屋、廊下も見てきた。そしてこの部屋もどこも綺麗だった。しかも書類の整理の仕方も実に細やかさを感じる。俺の無茶な命令に対してやりきった君は凄い」



 彼の声は今までで一番柔らかく、口元は緩やかな弧を描いていた。

 何を言っているかわからず、一瞬呆けてしまった。『おまえ』から『君』と呼び方も変わっている。



「――っ、いえ、そんな私はなにも凄くなんか」



 正面から褒められたのはいつぶりだろうか。思わぬ優しい言葉に心がついて行かず、目頭が熱くなってくる。

 謙遜し、自分の気持ちを抑えようと試みるが――



「俺は真面目に努力するものは正当に評価したい。謙遜しすぎるのは俺の考えや言葉を否定することだ。いいか? ナディア・マスカール嬢、君の頑張りを認めたいんだ。評価を受け入れてくれ」

「クロ……ヴィス殿下っ、ありがとうございます」



 もう我慢することはできなかった。気付いたときにはすでに視界は滲み、床にいくつもの雫が落ちていった。


 自分を認めてくれる人がここにいた。


 それがどれだけ嬉しいことなのか、自分でも混乱するほどに胸の中に熱い感情が暴れまわる。

 そのとき、そっと目元にハンカチが当てられた。



「参ったな。泣かれるとは思わなかった」

「も、申し訳ございません。それにハンカチも」

「脚立にのぼり、足を出して洗濯する豪快な令嬢かと思えば、随分可愛らしく泣くんだなと思っただけだ」

「か、かわ……っ」



 クロヴィス殿下にクスリと笑われ、涙も引っ込んだ。歓喜の代わりに羞恥がこみ上げる。

 ハンカチを握りしめ、俯くことしかできない。



「ナディア嬢、門限はあるか?」

「いえ、特に決められておりません」

「じゃぁ俺の話を聞いて行ってくれないか?」



 促されるようにソファに腰掛けると、クロヴィス殿下はテーブルを挟んで私の正面に座った。


 モップを片付け戻ってきたアスラン卿の手にはティーセットがあり、殿下だけでなく私にも配ってくれた。「どうぞ」と言われたので遠慮なく飲めば、とても美味しい、手慣れた人の味だ。



「美味しいだろう? ニベルは紅茶を淹れるのが上手なんだ」

「はい。仰る通りです」

「事情があって、この通り俺はあまり人を側に置きたくない。人数は限られるため、ついにニベルは騎士の仕事に限らず、執事、馭者までできるようになってしまった」



 クロヴィス殿下は苦笑しながらティーカップをソーサーに置くと、長い指を膝の上で組んで表情を陰らせた。



「これまでどの令嬢にも君と同じ命令を下していた。けれども不満も見せず、俺が人を避けていることまでも考え、真面目に最後まで取り組んだのはナディア嬢だけだ。試すためとはいえ、これまで令嬢として屈辱的な仕事を与えて悪かった」



 社交界や政治に疎い私でも王族の謝意を示す言葉は重いのを知っていた。同時に「そんなことはない」と否定することがとても失礼なことも。


 だから私は殿下の誠意にお返しをしたくて、気持ちに素直になって微笑みを浮かべた。



「やりがいがあって楽しくできました。何も私は屈辱的な目にあってませんわ」



 クロヴィス殿下は目を見張ったあと、ドキリとしてしまうような不敵な笑みを浮かべた。



「やはり君は変わっているな」

「ほ、褒め言葉ですよね?」

「もちろん」

「ふふ、ありがとうございます」



 あぁ、とても幸せだ。褒めてもらうことがこんなにも嬉しいだなんて知らなかった。

 それにクロヴィス殿下は、噂と違い本当はとても誠実な人。正当な評価を下してくれる人。働くのならこの方の下が良い。



「殿下、私は侍女として合格ですか?」

「まぁ、そういうことになるな。これからも頼むからな」

「はい。精一杯務めさせていただきます」



 これでマスカール伯爵家に気を使わず生きていける。

 その夜、私はパールちゃんと一緒にいつもより少しだけ贅沢な夕ご飯を食べ、ぶどうジュースで乾杯したのだった。

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