第6話 緑の館と狂犬王子(3)
「窓拭きの前にこっちが先よね」
朝、換気のため一階の空き部屋の窓を開けていると、空のはずのクローゼットから白い布が出てきた。
無造作に突っ込まれ、畳まれてないシワのついたシーツが六枚も。前の侍女候補の方が放置したのかもしれない。
幸いにも今日の天気は良く、心地よい風が吹いている。
物置から大きな木桶を持ち出し、裏口から外に出る。手押し式ポンプを使ってたっぷりの水を木桶に溜めれば準備完了だ。
シーツを放り込み、スカートを膝の高さまでたくしあげて素足で踏み始める。よく冷えた水も少しすれば慣れ、むしろ足を懸命に動かしているから額に汗が滲んできた。
するとバサリと聞き覚えのある音が裏口から聞こえ、振り向いた。
そこには本を床に落とし、信じられないものを見るような目を向けているクロヴィス殿下がいた。
睨む以外の表情もできるのね――そんなことをぼんやり思いながら、今日こそきちんとご挨拶をしようと木桶からすぐにでる。
「クロヴィス殿下、おはようござ――」
「――っ!」
けれども私が挨拶をする前に彼は酷く慌てた様子で本を拾うと、何も言わずに館の中に消えてしまった。
「シーツを見て、忘れてはいけない急用でも思い出したのかしら」
私はそのまま洗濯を続けた。
物干し竿が無いので木と木の間にロープを張って、シーツを干していった。
時間は無駄にできない。すぐに窓拭きをはじめるが、さほど時間をおかずして「おい」と不機嫌な声をかけられ手を止めた。
すぐに頭を垂れて主を出迎える。
「おはようございます、クロヴィス殿下」
「全くお前はとんでもない令嬢だな」
「え?」
「さっきの洗濯についてだ!」
普通の貴族令嬢は素足を隠すのがマナーであることを思い出した。
私の行動がもし他の人の目に触れていたら、主であるクロヴィス殿下の品位を落としかねない。面倒でも手洗いにすべきだったのだ。
「見苦しい姿をお見せしてしまい、大変申し訳ございません。次から手で――」
「いや、それもそうだが……貴族令嬢としてのプライドはないのか?」
クロヴィス殿下は呆れたようにため息をついた。
「殿下の命である掃除より、私のプライドを優先する理由がございません」
「それで洗濯まで自分でやろうと思ったのか。これだけの規模の掃除を命じられても、お前はひとりで何でもやろうとするんだな。王宮のメイドに応援を頼もうとか思わなかったのか?」
今まで誰かに頼ることなんてできなかった人生だったし、自分でやるのが当たり前だった。誰かに助けを求める発想なんてあるわけもなく。
ましてや社交界に出ていない私には知り合いも、伝もない。
更に頭を低く下げて申し開きの言葉を伝える。
「お恥ずかしながら任務遂行のことばかり考えて、思いつきませんでしたわ。それにクロヴィス殿下は緑の館に立ち入れる人間を厳しく制限しておられます。私の都合で外部から勝手に人を呼び寄せて、殿下の心を煩わせるわけには参りません」
王宮にはたくさんの優秀なメイドや侍女がいるはずだ。それでも緑の館にいないということから、殿下は彼女たちすら館に迎え入れたくないという証拠だ。
「はっ……やはりお前は変わっているな」
しばらくして頭の先で聞こえた声はとても柔らかかった。
恐る恐る頭をあげれば、いつもの睨み具合が和らぎ、穏やかな無表情。
「洗濯物はニベル・アスランに渡せば王宮のメイドが洗ってくれる。これなら外部の人間を館に入れずして洗い物は済ませられる。自ら苦労が増えるようなことはするな。見ていて苛々する」
「は、はい」
「まぁ、お前の誠意はありがたく受け取ろう」
クロヴィス殿下はバツが悪そうにヤケドの痕がある頬を人差し指でかくと、踵を翻して二階へと行ってしまわれた。
やはりどうしても狂犬と呼ばれるほど怖い人には見えない。
今まで理不尽に怒鳴られたり、怪我をさせられても謝られたことがないから麻痺しているだけかしら?
もう普通の感覚を忘れている私は良い人と怖い人の基準が分からない。
でも確かなのは、私の中のクロヴィス殿下への忠誠が高まったことだ。
気を取り直して予定通り雑巾で窓拭きを始める。水拭きをしてから、乾いた雑巾でしっかりと仕上げ磨きをする。窓ガラスはそれほど汚れていなかったが、問題は大理石の床だ。
モップでこするが、土の汚れが思ったよりも頑固で力を入れなければなかなか落ちない。しかもすぐにバケツの水が濁ってしまうので、何度も交換しなければならない。
たっぷり水を入れたバケツはとても重い。それでも綺麗な大理石の床が見たいがために、よろめきながら運んでいると突然バケツが軽くなった。
「え!?」
驚いた私はバランスを崩し、バケツを手放してしまった。
持ち主を失ったバケツは音を立てて落ちた。幸いにも真っすぐ着地したため、周囲に水が少し零れた程度で済んだ。
「今の何?」
バクバクと鳴る心臓を落ち着かせながら、まるで下から押し上げられたように軽くなったバケツを凝視した。
怪奇現象――ポルターガイストが起きたような時と似ている。
もしそうだとしたら恐れることはない。他人に見えて、私にしか見えないパールちゃんという存在がいるのと同じで、私が見えない存在がいてもおかしくはない。
クロヴィス殿下に目を付けられると怪奇現象に巻き込まれたり、幻覚や幻聴に悩まされるという噂があったっけ。お義母様とジゼルが騒いでいたけれど、あながち間違いじゃないのかもしれない。
つまり見えない存在がいたとしたら、殿下の味方に違いない。
「守護霊かしら? クロヴィス殿下のために頑張りたいの。イタズラ無用でお願いしますね」
もちろんバケツが返事をするわけもなく、代わりに呆れた声が耳に届く。
「何を突っ立ているんだ?」
「クロヴィス殿下、ちょっとバケツが――」
先ほどのことを説明しようとして言葉を止めた。館で怪奇現象が起きてるなんて言えるわけがない。もっと変な人間だと思われ解雇されてはたまらない。
誤魔化すように苦笑いをして見せた。
「脚立と洗濯の次はこんな重いものを運ぼうとしていたのか」
クロヴィス殿下はあろうことかバケツを持って、歩き始めてしまった。
「そんな! 私が持ちます」
「俺の邪魔をするな。次、俺の手を煩わせたくなかったらついて来い」
そうしてついて行った先は物置部屋で、彼は奥に入るとあるものを引きずり出してきた。あまりにも奥にしまわれており、気付かなかった。
「台車だ。使え」
「ありがとうございます」
「綺麗になった床が汚水まみれになるのが嫌なだけだ」
彼はそれだけ言うと来た廊下を戻っていった。
「ありがとうございます!」
背中に向かって、もう一度お礼を告げた。
ここまでしてもらって、分からないはずがない。
言葉はキツイけれど、クロヴィス殿下の言葉と行動はすべて私を気にかけてくださっている内容ばかりだ。
胸の奥で温かいものが溢れそうになるが、奥歯を噛みしめて堪える。
私はそのあと無心で床を磨き続けた。
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