初夏色ブルーノート

成井露丸

🌈

 気がついたら女子高生になっていた。

 そういう漫画があるけれど、今の私が完璧にそれ。かれこれ数ヶ月が経つのだけれど。


「マスター、シャーリーテンプルとか作ってよぉ〜。夜のメニューにはあるんでしょ〜」

「あるけど高校生に出せるわけないだろ?」


 白髪混じりのマスターがグラスをタオルで拭きながら顔を上げた。

 梅雨入りした外はじめじめした熱気。ガラス窓の外では雨がぱらついている。

 店内はデビューしたてのエアコンが湿気を払っている。肌に触れるクーラーの微風が冷たくもあるが、基本的には気持ちいい。未来のオフィスで浴びていた風を思い出す。激務に追われたあの頃は高校生に戻りたいと願ったりもしたけれど、実際に戻ってみるとストレスしかないんだな、これが。

 何より彼がいなくてつまらない。


「明子ちゃん、いつものケーキセットでいいのかい?」

「うん、食べる食べる。明子、甘いの、だ~いすき!」

「かわいこぶっても割引はないからね」

「ちぇーっ」


 女子高生らしく唇を尖らしてみる。マスターは目を細めて眦に皺を作った。過去に飛んでくる前じゃそろそろNGなリアクションだと思うけど、今は高校生だからいいよね?


 カウンターに肘を載せてうつ伏せになる。梅雨の季節はどんよりとした低気圧。だから自然と気分も湿っぽくなる。

 鞄のなかの教科書と問題集、それから溜まっている宿題を思い出してさらに憂鬱な気分になった。


「華の女子高生がため息なんてらしくないねぇ。明るいのが評判の明子ちゃんなのに。何か困ったことでもあったのかい?」

「マスター、微分積分ってやりました?」

「ん? ああ、数学ね。高校生の時、一応、やったと思うよ。もう忘れたけれど。それがどうしたんだい?」

「微分積分って、大人になってから使いました?」

「うーん、どうだろうね。記憶に無いなぁ。……ということは使わなかったんだろうなぁ。なんで?」

「ややや、まぁ、宿題が出てて。鬱だなー、わかんないなー、使わないのになぁーって」


 私だって一応大学を出て就職して、ちょっとは会社員として働いていたわけだけど、微分積分とか結局使わなかったなぁ〜、って思うのだ。

 一周目で高校生だった時、先生たちに「大人になったら使うぞ」とか言って脅されながら「そういうもんかな」って勉強していたけれど、「え、結局使わないじゃん」みたいな。


「はっはっは。そりゃ、明子ちゃんのいた未来では使わなかったかもしれないけれど、分からないだろ? これから先の未来がどうなるかなんて」

「うーん、まぁ、そうですね〜」

「例えば僕の友人だと技術者になったやつとか金融系のアナリストになったやつとか何か使うとか言ってたぞ。まぁ、知らんけど」

「……はぁ」


 どちらもなる予定のない職業である。


「じゃあ、おじさんが勉強みてあげようか?」

「あ、それはいいです」

「なんで即答!?」


 マスターはがっくりして見せてから冗談っぽく笑った。

 学校帰りにこのカフェで宿題をやって、カウンターのなかの男性に教えてもらったのは高校時代の淡い想い出。彼に甘えるみたいに質問する間、彼の好きなジャズが店内を満たしていた。

 だからこのカフェで勉強を見てもらうというイベントは、彼との時間まで取っておきたいのだ。


 そんな想い出に浸っていると、聞き馴染みのあるピアノの旋律が耳へと流れ込んできた。ジャジーな音階はブルーノート。


「あ――この曲……」

「ん、知っているかい、明子ちゃん? これは『Summaer Rain』だね。題名は今日の天気にぴったりかな。まぁ、曲自体はなかなか賑やかだけどね」

「ですね。懐かしいです」


 頬杖を突いて、手の甲に顎を乗せて、目を閉じる。カウンターの中でエプロンをつけて笑う智昭の姿が蘇ってくる。


『Summaer Rain。知ってる? 今度カバーをライブハウスでやるから聴きに来てよ』


 何故か両手をドラムスティックで叩くみたいに上下させながら、智昭は無邪気な笑顔を浮かべた。彼の楽器はピアノなのに。


 何も知らない女子高生だった私は、そんな彼をきっとキラキラした目で見ていたのだと思う。

 高校生の時にした恋は、きっと私の人生で一番の宝物で、あの夏は何度でも繰り返して見たい映画みたいに色鮮やかだった。


 硬質な音がした。カウンターの上にアイスティーのグラスが置かれた。両手でグラスを掴むと、マスターを見上げて「どうも」と小さく首を前に出す。その時、マスターは思い出したように手を打った。


「ああ、そういえば、智昭のやつが来週からこっちに来るって電話あったよ」

「えっ! 本当ですかっ!?」

「わっ、びっくりした。明子ちゃん興奮しすぎ。……本当に、あいつと仲良かったんだな。未来で」

「あ、……はい、智昭さんには……お世話になりました」


 頬が熱くなってくる。マスターは苦笑いだ。

 恥ずかしい。いくらマスターと私の関係とはいえ、自分が智昭を意識しすぎていることがバレバレなのだ。


「しかし、これまた予知みたいにあいつが来ることまで当てられたら、いよいよ明子ちゃんが未来から来たんだって信じないといけなくなるなぁ」

「――あれ? 信じてもらえてなかったんですか?」

「いや。まぁ、信じていたけどね」


 マスターは茶目っ気たっぷりに白い歯を見せる。その笑顔はどこか智昭に似ていた。この叔父にして、あの甥あり、といったところかもしれない。


 梅雨が明ける頃、このカフェには一人の大学生がやってくる。それが智昭。マスターのお姉さんの息子さん。ピアノが上手でちょっとイケメンな三つ年上のお兄さん。私はこの夏、恋に落ちる。

 それはきっと何度繰り返しても瑞々しい、雨上がりの空みたいな透き通った時間。


「――言ったでしょ? 私は未来から来たんだって。初めてこのカフェに来たときに」

「そうだったね。こんなカフェに普通、高校生は来ないんだけどね。君はここに来て待ってたわけだ。智昭のやつが来ることを」


 アイスティーの氷をストローで揺らして、ふた口ほど吸い込む。冷たい液体が喉を抜ける。


「――そういうこと。待っていた甲斐がありました」

「でも気をつけるんだよ。明子ちゃんは智昭のことを知っているけど、あいつは明子ちゃんのことを知らないんだからさ」

「うん、そこは分かってる」


 私は神妙に頷いた。

 記憶のとおり、智昭はまたこのカフェにやってくる。でも私はあの頃の私じゃない。だから一周目と同じように、智昭と仲良くなれるかは分からない。

 それでも私の心は信じているのだ。智昭と自分の絆は運命の糸みたく固く繋がっているって。もう一度繰り返してもきっと、私たちは最高の私たちになれるんだって。


「――顔にやけてるよ? 明子ちゃん」

「もう! うるさいなぁ、マスターは」


 マスターのかけるジャズの音楽に耳を傾けながら苺のタルトをアイスティーで美味しく頂く。雑誌を開いて時間を潰していると、知らない間に雨はやんでいた。


「じゃあ、次は智昭さんが来られた時に来ますから。具体的な日にちが決まったらLINEで教えてくださいね」

「はいよ。分かったよ。明子ちゃんにはかなわないなぁ」


 座席を立って会計を済ませた私に、マスターは困ったような表情を作った。でもその裏側は、とても楽しそうだった。


 カフェの扉を押し開けて、雨上がりのアスファルトへと足を踏み出す。梅雨空を覆っていた雲は散り、広がった青空から初夏の太陽が顔を出していた。唇を開くと懐かしいメロディーが踊り出した。


 何の因果か過去の世界に飛ばされてきて数ヶ月。高校生として学校に通ってつまらない授業を聞くだけの鬱屈とした日々だった。

 でもついに始まるんだ。懐かしくて、淡くて、切なくて、胸を躍らせた、たった一度きりの夏が。

 この世界の色彩を変えた彼自身とそのピアノ。


 初夏色ブルーノート。


 傘を右手に掴むと、私は雨上がりの道を駆け出した。 


 

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