きっかけって‥

@J2130

第1話

 会社の二階のラウンジでいつものように本を読んでいたときのこと‥。

「堀さんさ‥いつも本読んでいるけれど‥」

 開発部の荻原さん、白髪をきれいに整えていて、気さくなおじさんと言っては失礼だけど、その人が声をかけてくれた。


 僕の昼の休憩は13時から14時までとなっていて、他のすべての社員とは分かれている。

 このビルには会社の開発部、技術部と僕のいるシステム室が入っており、ビル全体は技術センターと呼ばれていた。


 毎日12時からの出荷のオペレーションを若手の僕は任されていたので、みなさんの休憩時間は僕の大事なお仕事時間だった。

 逆に、みなさんのお仕事時間が僕の貴重な休憩時間なのだけれどもね。

 13時からは1階の広いラウンジで弁当を食べて、その後、他の社員さん達がそこで会議とか打ち合わせをすることが多いので、2階の小さいラウンジに移り、ひとりで静かに好きな本を読むのがね、僕の昼休みの過ごし方だった。


「堀さん、読んでばかりいないでたまにはさ‥」

 僕は本から目をあげてちょっと笑顔で荻原さんを見た。

 人生の、会社の大先輩に失礼があっては申訳ないですから。

「本、書いてみたら‥」


「はぁ‥」

 荻原さんは笑顔でそのまま別の階に行かれた。

 その時はそんなもんかな…と思った程度だったけれど、なんか心に残ってしまった。


 なのでその時読んでいた本も覚えている。

「刑事訴訟法」という法律の基本書だった。また勉強しようと考えていたのか、朝に家を出るときに本棚から出しやすいものだったのか昔のことなので忘れたけれど、法学の基本書としては珍しく横書きで読みやすいものだった。だけど内容はまったく覚えてない。だめですね‥。

 活字中毒ではないのですが、ちょっと興味があると調べたくなるので、それでかもしれないが、法律学科の学生のときに買ったものでしたね。


 荻原さんとはなぜかよくお話しをしたり仕事を手伝ったりした。

 きっと若手でね、他のフロアーの若者とちがって思いっきり体育会系で面白そうだったからかな‥。


「堀さんさ‥」

 システム室に荻原さんいらっしゃって、

「ちょっと手伝って欲しいんだよね‥」

 と室長に少しだけ許可もらって僕を連れていくことがあった。

 荻原さんは開発部にいながらこのビルの総務的なことをしていて、お仕事も多かった。


僕が誘われるのはたいていは地下や屋上での力仕事や紙、ごみ、産業廃棄物等をロープでまとめたりするもので、

「やっぱりヨット部はちがうね‥」

 などとほめ上手なところもあった。

 僕は息抜きになるので楽しんでいたんだけれど。


 その後数年で定年になりお辞めになったのだけれども、おそらく荻原さんがあそこで

「本、書いてみたら‥」

と言ってくれなかったら僕は拙い物語を綴ることはなかったと思う。

 小説は読むものだと思っていたから、書くことが自分にできるとは思っていなかったから。

 荻原さん、何も考えずに言われたのだろうけれど、そんな言葉でも人の行動を変えることがあるんですね。


 結婚して難産で子供が産まれてだけど大病したり。嬉しかったり大変だったり。


 心が動くというか、昔も“感動”したことはあったのだけれど、その“感動”を自覚できたのはね、子供ができてからだったと思う。

 そういったお話しを書いてみたいな‥というのが最初でした。

 勿論、中学、高校生時代に熱中したSFにも興味があったのですが‥。


 きっかけって、ちいさいことだったり、思いがけないことだったり‥。

「本、書いてみたら‥」

 独身の二十代のころは思いもしなかったけれど、不思議です。

 おかげさまで、書くことを楽しんでいます、荻原さん。

                 

                             了

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