新しい日々

 今日も午前十一時前に、黒い革の鞄を片手に現れた白衣の人。合鍵でも持っているのか、今日もインターホンは鳴らなかった。俺の顔を見るとにこりと笑い、わかりやすく声を弾ませる。


「さーて、つかさくん。お薬の時間だよ」


「……はいはい」


 子供のように名前を呼ばれた父親がソファに座ると、高月さんはその前に座り鞄を開く。テーブルの上に手際良く薬の瓶を並べ、注射器の中に順に満たしていく。


 その横で、万年筆がひとりでに動き、紙に何かを記録しているようだ。そっと覗き込んだが、外国語で書かれているようで解読はできない。そういえば父親の名前を初めて知った。どんな字を書くのだろう?


「高月さんも、魔術師なんですよね?」


「ああ、そうだよ。 魔術医ってやつだ。薬も魔術も使うお医者さん。あれ? まるで新しい発見をしたような目だな。元いたところには、そういう人はいなかったか? おい、動くなよ馬鹿」


 俺と話しながら父親に注射を刺していることに気がついた。いつの間に。


「……っ! だから刺す前に声をかけろ……ヤブなのか」


 痛みに耐えているのか、父親はつま先をもぞもぞと動かし、空いた手で髪の毛をぐりぐりと混ぜる。注射が終わるまで待とうと思ったが、高月さんは俺の方を見てにこにこと笑っている。恐る恐る答えた。


「ああいや、魔術師で医師という人はいました。そうじゃなくて、ほんとに男の人が魔術を使うんだなって」


「ああ、そっか……君がいたところと違って、こっちには男女差はないんだよなあ。ほれ! できたぞ」


 注射を勢いよく抜き、乱暴に絆創膏を貼る。さっきから手元は全く見ていないようだが、大丈夫なのだろうか? 父親は顔を歪めて高月さんをジロリとにらむ。


「ああもう、痛えな……あー、ちょっと電話しないといけないところがあるから、適当にくつろいでてくれ。すぐ戻るから」


「おう、転ぶなよ」


 父親が部屋を出た途端、高月さんは動きだした。やはりこの家の勝手をよく知っているのか、手際よく紅茶を入れたあと、戸棚を開けテーブルの上に茶菓子を並べている。


 この家でわからないことがあれば、この人に聞くというのも手かもしれない。しかし気になっているのは、そう言うことではなく。


「あの、ちょっと聞きたいことがあって。父の体質って、どうにかならないものなんですか」


 目を見開いた高月さんは、手振りで俺に座るように促す。


「受けたダメージを回復する方法なら見つけたんだけどな。ある治癒術の効果を付与した特殊な薬を、毎日注射で血管に入れる。ついでに外からも治癒術当てるけど、それは補助でしかないな。根本から治す方法はなあ。そもそも原因がよく分からないしな……俺も色々考えはしたけど、なかなか」


 苦々しそうな顔で椅子に深く腰掛けた高月さんは、ううんと唸ると腕を組み足を組む。やはり難しい問題なのか。


「そういうのを考えるのってやっぱり、魔術師というよりはお医者さんの仕事なんですかね?」


 そう呟いた俺を、獲物を見つけた獣の目が捉えた。たじろいでいると、高月さんは椅子から立ち上がり、じりじりと距離を詰めてくる。


「お? めぐるくんよ。いっそ医学生目指すか? なら医学校への推薦状は俺が書いてやる。なんか君、頭良さそうだし、それで魔術の腕もあるなら、向こうの方から来てくれって言われるぞ。そんで魔術医はあちこちで引っぱりダコだ。女の子にもモテる!」


 高らかに言い放つと大笑いした高月さん。正直、女性並みといっていい背丈に高めの声なのに、どうも迫力に負けてしまう。


「ああいや、そんな、とんでもないです。勉強は苦手じゃないですけど、お医者さんを目指せるほどではないと」


「なんだよ君、そんな謙遜して。本当に十五か? そういうのは大人になってからでいいぞ! 大丈夫だ! おじさんがついてる! これからの人生バラ色だ!!」


 昨日に続き、飛びかかるような勢いで肩を抱かれ、頭を撫でられる。父親とは兄弟同然に育った人だというから、親戚のおじさんのようなものだと思うと、俺はもうまな板の上の鯉というやつになりきるしかない。


 そういえば、わざわざこういうことするやつが向こうにもいたな。男女の違いはあるが、同じように小柄で早口な……綿菓子頭のあいつ。


「おい、仲間を増やそうとして適当なことを吹き込むな」


 父親がいつの間にか戻ってきていた。ようやく高月さんの腕から解放される。たぶん、髪の毛は大変なことになっているだろう。


「別に適当なことはないだろ」


「いいや適当だ。だいいち女の子にモテるというなら、なんでお前は」


「シーーーーー!!」


 高月さんは口に人差し指を立て父親を強めに制する。この様子では独身ということだろうが、声は大きいけどいい人に見えるのに。まあ、人の幸せというのは、別にそれだけではないとは思うが。


「いや、それに俺はそんな、モテたいとか、思ったことは……」


 女子校で三ヶ月間過ごし、片手の人数ほどの友達はできたが……そういうお話がひとつもなかった俺には、きっとそういう才能はない。それに。たくさんの人に手を伸ばされたって。取れるのはひとりだけなんだし。


「いやいやいや、環くん、恥ずかしがることはないぞ。早々に新しい彼女作らないと」


「え?」


『新しい』という言葉に引っかかった。高校生にもなれば、そういう人がいて当然ということか……? 意味がわからず呆気に取られていると、高月さんも目を瞬かせている。


「あれ? この間、お父さんと会った時さ、女の子と一緒だったって聞いてるけど。きっとその子が彼女だって話してたんだよな、なあ」


 潤んだ栗色の瞳がちらりとよぎって、胸がざわめいた。そういえばあの時、父親は本城さんに会っている。勘違いをされているんだ。


「違います……」


「え? そうなの?」


 とたんに妙な空気になる。居たたまれなくなり、高月さんに頭を下げてリビングを出た。


 きっと向こうは冗談のつもりなのだから、軽く返すべきだった。でも、それは今は触れられたくないこと。傷が開いてしまい、じくじくと胸が痛い。自分の部屋に入り少し考え、父親に渡された合鍵と財布を持った。玄関には、高月さんを見送ったのか父親がいた。


「ちょっと出かけてくる」


「あ、ああ。気をつけて。昨日見ての通り化け物の類はいないが、くれぐれも怪しい人に壺とか売られないようにな」


「………怪しい人はいるのか」


「ああそうだ。迷いを持っていそうな若者を、悪い道に引き入れようとするやつだ。街にはウヨウヨいるもんなんだよ」


「わかった、行ってきます」


 どこかで聞いたことがあるセリフ。もうたぶん会うことはない、黒髪の友達の顔が浮かんだ。


 森戸さん……急に消えたりしたから、怒ってるかもしれない。姿を消した理由を知ったらきっと、『フラれたくらいで何よ、いくじなし!』と、頬を膨らませるだろう。そうだ、俺はいくじなしだ。


『あなたに出会えてよかった。今は、すごく、大切な人だと思ってるの』


『……ごめんなさい。あなたの気持ちには、応えられません』


 なかなかやってこないエレベーターを待てずに、階段を二段飛ばしで降りている間、本城さんの笑顔と泣き顔が頭の中をぐるぐると回った。


 彼女のことを好きな気持ちは、一生胸にしまっていてもいいとすら思っていたのに、やっぱり欲しくなってしまった。自分になら癒せるかも、なんて。そんな浅はかなことすら考えていたのだ。


 きっと触れないから、近寄らないから信じてもらえていたのに。彼女を裏切ったことに気がついて、合わせる顔がなくて、たまたま目の前にあった逃げ道に駆け込んでここにいる。オートロックの玄関から外に出る。昨日、父親と買い物のために行った駅前の方を目指した。


 はやく、わすれたい。


 全てを振り切るように、自然と足が速くなる。 ここは元いたところと何も変わらない。季節も、言葉も、走る車も、すれ違う人たちの服装も。信号は赤で止まるものだということも…………急に止まれない。


「ちょっと! 君! 信号変わってるぞ!」


 空から大声が降ってくる。次の瞬間、勢い余って車道に飛び出しそうになった俺をせき止めるように舞い降りたのは男性。制服が知っているものとは少し違うが、おそらく警察官だ。


「気をつけなさい。ここは交通量が多いから事故も多いんだ」


「すみません……」


 再び宙に浮かんだ警官を追うように空を見上げる。パトロールでもしているのか数人が低空にとどまっていた。おそらく全員が男性。歩いている人は他にもいるのに、誰も不思議に思っている様子はない。きっと、これがここでは当たり前の光景なのだ。やがて信号が変わった。周りの人より少し遅れて、俺もゆっくり歩き出した。


 ここにいれば、ひとりなんかじゃない。血のつながっている父親も、可愛がってくれる高月さんもいるんだ。それにこれから学校に行ったりすれば、友達や知り合いも増えるだろう。


 それなのに、どうしてこんなに寂しいと感じてしまうんだろう。


 背中の方からぬるい風が渡ったその時、人々が行き交う中に見覚えのある後ろ姿が見えた。少し赤みがかった短い髪、丸みのある肩をした女の子。足が勝手に吸い寄せられる。


 ここは違う空の下。だから彼女のわけがないのに、わかっているのに、何かを期待して必死で後を追った。見失わないように、ひたすら人並みをかき分けるように進む。


 あの日、珠希さんに相対した父親は『あの子は随分な手練れ』だと言っていた。父親がそんなことを言うくらいだ。もしかしたら。


 古式魔術は現代魔術ではできないことも起こせる、かつては家族だけに受け継がれる独自のものもあり、外には知られていないことも多かったと授業で習った。おそらくその使い手である彼女は、もしかしたら、ここに来る方法を知っていて…………俺を、探しに来て。


「え? だれ? 怖っ!」


 投げつけられたのは知らない声。手を伸ばしかけた俺の気配に、振り返った彼女は……少しつりあがった黒の瞳。向けられたいぶかしげな眼差しで、ぷつりと心に穴が空いた。見知らぬ男がすぐ背後にいるならこれが当然の反応だが、針の穴から確かに力が抜けていく。


「あ……あの、知り合いによく似てたので。間違えました。すみません」


 ……そんなはずがないじゃないか。


 なんとか絞り出した言葉を無視し、黒の瞳の女性は素早く向きを変え無言で去っていく。その背中に珠希さんの姿を重ねたまま、俺はただ立ち尽くした。



 ◆


「おかえり。コーヒー入ってるから飲みたかったら自分で注いでな」


 何とか家にたどり着き、リビングに入った俺を仕事中の父親が迎えてくれた。身体を悪くした今は、外に出るような仕事は控え、家で新しい魔術を開発する仕事をしているらしい。


 ダイニングテーブルの上に資料を積み上げ、ノートパソコンに淀みなく何かを打ちこむ姿は、まるで紺野先生のようだ。


 床に積んである資料の一番上に、見覚えのある教科書が一冊。驚いて手に取る。中には見覚えのある字でびっしりと書き込みが、裏表紙には母親の名前が書いてある。どおりで古ぼけているはずだ。


「あの、これって」


「ああ、昔な、蕗会に貸してもらったんだ。あっちの魔術ってどんなもんかと思ってな……間違えて持って帰ってきてそのまんまだ」


「父さんは、これを使おうと思えば使えるのか?」


「ああー。やってみせようか」


 ニヤリと笑った父親は、棚から取り出した皿の上に角砂糖を一つ転がし、教科書のあるページを開いて押さえる。そこに記されているのは、授業でも補講でも何度も何度もやった……物を浮かせて空中に止める、ごく初歩的な魔術。術式が記述してあるところを指でなぞる。


 父屋に見つめられた角砂糖が呼びかけに応えるように微動してから、じわじわと浮かび上がるのを目で追いかけた。天井から吊るされた照明と同じくらいの高さまで上昇し、停止。ここに書かれている通りにやれば、目の前ほどで止まるはずなのに高すぎる。その瞬間、角砂糖は不自然な高い音を立て砕けた。


 思わず目を閉じるが、砂糖が降ってくる気配はない。そっと目を開くと、砂糖の粒が一粒残さず空中で止まり、照明の光を受けキラキラと光る。目を見張っていると、父親が指を鳴らした。


 とたんに砂糖の粒は空中で元の四角い形に復元され、皿の上にコロンと落ちた。顔を近づけつつ指で突いてみたりもしたが、しっかりと元通りになっている。


 父親は疲れた様子を見せ、目を閉じて眉間を揉みながら、ふうと息をつく。先ほど元に戻ったばかりの角砂糖を、魔術で浮かせてコーヒーカップに飛び込ませると、中身を一気に飲み干した。


「この通り、理屈は分かっていてもあまりうまくいかないんだよなあ。向こうの魔術は、自らの内の力を使うという意味では同系統にあたるが、それ以外ではな。俺は割と器用な方だけど、それでも『どちらも』は難しい」


 きっとこれは生きる場所の違い。俺も痛いほどに実感している。授業に必死に食らいついても思うようにはいかなかった。父親が向こうでは生きられず、母親がこちらには来られないように、ふたつの世界は、どうしようもない壁に隔てられている。


「……お前さ、好きな子を振り切って来たんだろ。ごめんな」


 俺がここに来てからというもの、ずっと楽しそうだった父親の表情が初めて曇った。色々なことを思い出してしまい、胸の奥がしんと冷え、言葉が出ない。


 肝試しの日、彼女に一番近づけた夜。このまま隣にいることを許されて、ずっと一緒にいられるような気がした。でも、振り切ったもなにも、俺は本城さんに振られただけ。


「別に。あの子はただの友達。同じクラスで隣の席なだけ。一緒にいたのは、学校行事のくじ引きでペアになったから。そんなことより、あそこで父さんが暴れたせいで大騒ぎだぞ。あの魔術師は何だ!? って、たぶん今でも探してると思う」


「え? そうだったのか? てっきり……ああいや、あっちの魔術師に捕まるようなヘマはしないけど、あのときはさすがに他勢に無勢だったかな……」


「余裕そうに見えたけどな」


「内心は焦ってたけどな。川に浸かっちまったし、時間制限もあるし」


 今度は上手くごまかせたと思う。そんなこと、父親に知られてたまるか。


 そう。なんでもない。ただの友達。割り切ったはずなのに、溶けかけていたしこりに棘が生え、ちくちくと胸を刺してくる。今日は街中で、似たような後ろ姿を見かけたからだろうか。間違えて飲んでしまったブラックコーヒーは、今日ばかりはあまり苦く感じなかった。



 ◆



 久しぶりに彼女のことを思い出したその夜、俺は不思議な夢を見た。


 紺青の空に、小さな星がきらめいていた。その中で、ひときわ明るい星は薄紫色。見覚えのある、優しい色の光。


 まるで本城さんのように見えて手を伸ばしても、空の星に手が届くわけがない。掴みたいと願ってみても、俺の身体は地面に縫いとめられたまま。もうこの星のように遠い人なのだから、諦めなければならないということだ。


 しかし俺は、その星の夢を三日連続で見た。自分の未練がましさを突きつけられているようで、目覚めるたびに静かに打ちひしがれた。

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