父は秘密を明かす

 二日目の朝。今日はいつも通り六時に目が覚めた。カーテンを開け、寝ていた布団を畳み、昨日買ってもらった服に着替えた。


 今日は夏休みの課題でもやるか……無意識に駆け上がってきたそんな考えは、今いる場所を思い出して打ち消した。俺は何もかも全て放り出してここに来たのだ。ふいに湧き上がってきた苦い気持ちに胸がきしんだ。


 母さんは、あのメモの意味をわかってくれただろうか。ああ、紺野先生には申し訳なかったかもしれない。それに……友達や他の先生の顔も頭の中を回り始める。


 いや、こうするのが一番良かったんだ。後悔なんかしていない。そうだろう。これからはここで生きていくんだ。自分に言い聞かせるように心の中で唱えたが、なぜか胸の中のしこりは溶けてくれない。


 気を紛らわせる方法はないかと、部屋の隅に積まれていた本を読もうとしたが……それは昨日父親が、ここを俺の部屋にするためにと片付けてしまったのだった。部屋を出た。


 俺のいる部屋の向かいに父親の寝室。その右にトイレと洗面浴室。左に行って廊下の突き当たりがリビングダイニングルーム。やはり、一人暮らしをするには少し広く思える。


 謎が解けたのは昨日、注射の後はしばらく動いてはいけないという父親の代わりに、高月さんを玄関まで見送ったときのことだ。


「父は結婚して家族がいたりするんですか。あの、一人暮らしにしては、ちょっと家が広いなと思って」


 本人には聞く勇気がなくこっそり尋ねた俺に、高月さんは同じくらい小さい声になり、こちらに顔を寄せた。


「いいや。ずっと独身だよ。帰ってきてからは長いこと寝たまんまだったしな。そういう話がひとつもなかったわけじゃないんだが、全部ちぎって捨ててる。いまだに君のお母さんのことが好きなんだ」


 いまだにと言われると、さすがに驚いた。俺とは血の繋がりがあっても、もちろん母親とは正式な夫婦ではなかった。そのうえ離れてから十年間、連絡のひとつもよこさなかったというのに。


「だったら、会いにいけばいいのに……」


 自然と口をついて出た。高月さんも同意してくれたのか、腕を組み頷くと、人の良さそうな顔にお手本のような苦笑いを浮かべる。


「そう思うよなあ。でも今さらどのツラ下げて行けばいいのかって感じかもな。お母さんはどうだったんだ? あいつのことどう思ってそうだ?」


「一応気にはしていると思います。でも、それは俺の手前ってこともあるでしょうし、本当のところはどうなのかまではさすがにわかりません」


「まあ、そりゃそうだろうな」


 高月さんのなんとも気まずそうな顔を思い出しながら、リビングに足を踏み入れる。まだ父親は寝ているようで姿は見えず、薄暗くしんと静まりかえっていた。カーテンの下のわずかな隙間から入る朝日が、まだ真新しく見える床を淡く光らせている。カーテンを引く。


 父親が夜中に仕事でもしていたのか、ダイニングテーブルの上には本が数冊とノートパソコンが置きっぱなしになっていた。


 まだ、ここが自分の家という実感はない。それでもおそるおそる台所に立ち収納をあちこち開けてみた。中身をざっとあらためると、調理道具は一式揃っている。


 昨日の昼は買い物ついでにラーメン屋で外食、夜も歩き疲れたからと、弁当を宅配してもらった。なので朝は気晴らしついでに、二人分の朝食を作ってみようと思い立ったのだ。あるものは勝手に食べてもいいと言われたので……遠慮なく冷蔵庫を開けた。


 中はとんでもなく綺麗……というか中身が少ない。飲み物と調味料類を除くとブロッコリーと卵とウインナーくらいしか入っていなかった。まさか、父親はこれしか食べられないほどの偏食とか……? という疑惑を抱いたが、確か昨日の夜の弁当は残さず食べていたはず。


 なら、単に買い物を忘れているだけか。一度ドアを閉めて考えた。味噌があったので、味噌汁を作ってみることにした。


 鍋に水を入れ火にかける。だしをどうしようかと思ったが、昨日紅茶やポットが入っていた戸棚の引き出しを開けると、だしの素が入っていた。適当に鍋の中に入れる。


 沸くのを待っている間に、ブロッコリーを洗って小房に分ける。大ぶりなものだったので結構山盛りになった。

 茎は……外側の硬いところを取れば食べられるので、昼か夜にでも使うことにする。小房も多すぎるからちょっと残しておこう。とりあえずボウルに分けておく。


 だし汁が沸いたらブロッコリーを入れ、火が通ったら味噌を溶かす。ブロッコリーを端に寄せて、空いたところに卵を落とし、蓋をしてほんの少し煮て火を止めた。落とし卵の味噌汁は、母親がよく作ってくれたものだ。その間にウインナーも焼いた。部屋に満ちる匂いに、腹の虫が鳴き声を上げた。


 コーヒーメーカーに相対してみるが使い方がよくわからない。いったん置いておくことにした。和食にコーヒーは合わないかもしれないし……ここで、ご飯のことを忘れていたことに気づき、頭を抱える。


 目の前には分厚い食パンはあるのだが……味噌汁、合うのか? 失敗した。ため息をついていると、父親がゆっくりとリビングに入ってきた。


「環! 起きてたのか、いま朝飯作る……あれ? いい匂いだなあ。え、もしかして飯作ってくれたのか?」


「おはよう。暇だったから作ってみた」


 まるでいたずらをしたのがバレた気分だったが、父親は俺の隣に寄ってくると鍋の蓋を開け、小さい子供のように歓声をあげた。


「おお!! すごいじゃないか……お!? もしや味噌汁にブロッコリー入れるのがあっちの流行りなのか?」


「違うけど、もしかしたらいけるんじゃないかって気がして。野菜がブロッコリーしかなかったし。ダメだったらごめん」


 こちらを向いた眼鏡が湯気で真っ白なのに思わず噴き出すと、父親はシャツの裾で雑に拭いてかけ直してから、コーヒーの準備を始めた。これからここで生きていくのだから、覚えた方が良さそうだ。眼鏡の奥の目は相変わらず機嫌が良さそうに細まっている。


「ははは、ごめん。ここ二、三日は忙しくて買い物行けてなかったからな。でも、『お味噌汁には何入れてもええんです』ってどっかの料理の先生も言ってたから大丈夫だろ」


「あと、ご飯のことも忘れてて」


「あ、なるほどな。米はあるけど、今から炊いたんじゃ味噌汁が冷めるからパンにしよう。ちなみにその先生は『お味噌汁にパンを合わせてもええんです』とも言っていた」


「そんな人、本当にいるのか?」


「いるいる。こっちにはいる」


 冗談めかした口調。だから口からでまかせを言っているんだろうが、本当にいたら今の俺にとっては神のような人だ。父親は笑顔で頷きながら、食パンをトースターに入れてタイマーを仕掛ける。


 父親は鍋から汁椀によそった自分の分の味噌汁を、その場でひとくち、またひとくち飲んでから、テーブルへと運んでいく。


「あ、うまい! いけるいける。お前きっと料理のセンスあるよ」


「ちょっと大げさじゃないか」


 口ではそう言いながらも、褒められたのは素直に嬉しく、小さい頃に膝に座っていた頃のことを思い出した。今はもうそんな大きさでもないので二人向かい合わせに座る。トーストと味噌汁とウインナーの組み合わせは妙かもしれないと思ったが、並べてみると意外としっくりとくる。


 手を合わせて食べ始めてみても、感想は変わらなかった。くったり煮えたブロッコリーの甘さは味噌汁にちゃんと合う。パンとの相性も良かった。落とし卵に箸を立てれば、とろりと柔らかな黄身が顔を出す。我ながら最高の出来栄えだ。


「味噌汁に卵ってのが懐かしいな……蕗会がよく作ってただろ。すごく好きだったんだ」


「……覚えてたのか」


「覚えてるとも。蕗会の作るものはどれもこれも好きだったしな。こんな美味いものがこの世にあるんだって思った。今でも夢に見るよ。また食いたいなあって」


 曇りレンズの向こうの表情はわからない。ただ、その口元は柔らかく緩んでいる。同じ空の下、二人、もしくは三人で生きていた頃を懐かしんでいるのか。


『いまだに君のお母さんのことが好きなんだ』


 ふと、昨日の高月さんの言葉を思い出した。母親もまた、父親と同じようにいまだ独身を貫いている。もしかすると母親もまた。


「父さんはあっちに行けるんだろ? それなら……」


「お前のこともあるから会わなきゃいけないとは思うんだが。俺はもう、のものは食えないから」


「あっ」


 水が合わないということは、当然食べ物もということだと気が付き、箸が止まる。目の前の朝食をじっと見た。もうほとんど腹の中に収まってしまっているが。


「ああ、知ってたんだな。暮らしているうちに慣れるかもしれないって思ったんだが、残念ながら逆でな。どんどん過敏になって、長い時間とどまることすらできなくなった」


「あの……昨日から聞こうと思って聞けなかったんだけど、俺は?」


 目の前の人の血を引く自分。そのうち同じことになるのではと。それにこの場合、俺はどっちが正解なんだ? まさかどっちつかずなんてことは? ぞっとしていると、父親は何かを思い出したように目を丸く開く。


「ああ! そうか! そうだな! 俺が特別変なだけだから。お前はどこ行っても大丈夫だよ。ちゃんと生きられる。じゃなきゃこっちに来いなんて言わない」


 胸を撫でおろして、残りの味噌汁を一気に飲み切った。話を聞けば、どうもこちらの人間が全員そうというわけではないらしい。


「子供の頃……詳しいことはあんまり覚えてねえけど、おそらく親に売られてある研究所に連れて行かれた。俺はありていに言うと改造人間ってやつだ。おかげさまで魔術師としては規格外だとか最強とか言われるようになったけど、それと引き換えに変に脆い体になってしまった」


 何事もないように放たれた言葉だったが、俺は親に売られた、改造人間、という言葉に背筋を冷やした。ぼかすことも、何かに包むこともしていない、むき出しの事実。俺は父親の言葉の意味をじっと考えていた。


「俺はそこの研究所の……いちおう、唯一の成功例って奴だ。ただ、他に同じ奴もいないし、資料のほとんどが失われていてな。自分の生い立ちに関することも、どうやってこんな身体に変わったのかもわからない。自分がの空気や水に弱いというのも、かなり後になって知った」


「あの、こっちでは、その、そんな人体実験めいたことも当たり前に……」


 父親は、いつのまにか食後のコーヒーに口をつけている。俺の目の前にも三点セットが置いてあったので、昨日と同じように角砂糖の入れ物に手を伸ばした。しかし、手は勝手に震えて止まらない。


「いいや。こっちでも、おそらくよそでもバリバリの違法だよ。俺のいたところは摘発されて、その後は高月の親父さんに保護されたんだ。すごく良くしてもらった」


 その後は楽しい思い出話が続いた。高月さんはひとつ年上で、同じ屋根の下で兄弟のように過ごしたこと。共に同じ魔術の師匠の元で技を磨いたこと。覚えた魔術で二人でくだらない悪戯をしかけ、朝まで説教をされたことなど。そんな二人もやがては別々の道へと。


「俺はあいつと違って、医者になれるほど頭良くなかったから。でものは得意だし、飲み食いなしの覗き見くらいなら平気だ。その手の組織に入って、『外』の調査をやってたわけだ。いろんなところを見てみたくてな。馴染むように髪黒く染めたり、色々やりながら」


「え、もしかして、髪が白いのはもともとなのか」


「そう。ここではそうでもないけど、あっちではこれだとちょっと目立つだろ」


 父親は笑いながら頷いた。てっきり身体を壊して白くなったのだと思っていたし、なんなら母親もそう思っているはず……母親も知らない父親の秘密。


 しかし、母親もなかなか生い立ちは複雑そうだったが、父親も、俺も。そして、俺が惹かれた人も。あの栗色の瞳に吸い寄せられてしまったのはもしかしたら、この身体に流れる血のせいなのか? 自分の手のひらを黙って見つめた。

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