第69話 今日を振り返って

 ドアの開く音で目を開いた。


「環くん、もしや具合が悪いのかい?」


「大丈夫です。ちょっと考え事をしていて」


 電話を切ったあと、俺はずっと床に転がったままだった。時計を見ると時刻は午後九時。起き上がり、先生がいるダイニングへ向かう。床に接していたところが少し痛い。


「ごめんね。夕飯までには帰るつもりだったんだけど、急な呼び出しを食らってしまって。これお土産」


 紙袋を差し出される。大きくもないし重くもなく、中にはこれまたよく知る三角屋根の家のような形の箱と、焼き菓子が入った透明の袋が収まっていた。


「ケーキですか? ありがとうございます。いただきます」


「どういたしまして。前のプリンのお店が一番好きなんだけど、そこも美味しいよ」


 俺が風邪を引いた時に買ってきてくれたプリンのことだ。確かに、あれは絶品だったな……手が空いた先生は台所の水切りカゴからグラスを取り、ウォーターサーバーから水を注いでいる。


「先生、もしかしてお酒飲んでますか?」


「……さすが魔術師の卵。相変わらず読みがするどいね」


 振り向いた先生はいつものセリフを言い、にやにやと笑っている。やっぱりそうだ、この少しとろけた目元は明らかに酔っ払いのもの。先生は酔い覚ましなのか、グラスになみなみ注いだ水を一気に飲んだ。


「いや、お酒の匂いがしたんで。魔術とか全然関係ないです……たくさん飲んだんですか?」


 ほんのりと赤い頬、いつもより少し高めの声。お酒を飲んで上機嫌になった母親のようだと思った。先生は顔の前でパタパタと手を横に振って否定する。


「一杯だけだよ。大人の付き合いってやつだ。僕は、お酒はあまり飲めないからね……ねえ、それ、よかったら今から食べないかい? 先に好きな方を選んでいいからね」


 紙袋を指さされたので、テーブルの上に箱を取り出して開けた。中に入っていたのは、ホワイトチョコレートの飾りや銀の粒があしらわれたチョコレートケーキと、色とりどりの果物がキラキラと輝くフルーツタルト。見た目も性格もまるで違う二切れを、一つずつ皿に乗せてからじっと考えて、チョコレートケーキを選んだ。


 先生は氷の入ったグラスを俺の目の前に置き、新しいコーヒーのボトルを開けて、中身を注ぐ。俺は食器棚の引き出しを開けて、シロップとミルクを取り出した。ブラックはまだ飲めそうにない。


「明日の映画はねえ、昨日届いたのを見ようと思ってるんだ。実は僕もまだ見てなくてね。楽しみだねえ。ああ、焼き菓子はその時のお供にしよう」


 そうだ。明日は先生の別宅で映画を見る約束をしていたんだ。『昨日届いた』と言うのは、あのパッケージからして怖そうなやつのこと。もしあれを見るというなら逃げるつもり満々だったが、しかし。


「……そ、そうですね。よ、よろしくお願いします」


 今はとにかく気を紛らわせたいと思った。夕焼け色の瞳はご機嫌そうに光る。先生は半分ほど残ったコーヒーのボトルをテーブルに置いて、ケーキをつつきだす。


「ところで、今日はお友達の家に行ったんだろう? 楽しかったかい?」


 いつもの調子で尋ねられ、フォークを持つ手が止まる。頭から吹き飛びかけていたが、今日は透子の家に行ったんだった。あそこでの出来事の数々を語ろうとすると自然と身振り手振りが混ざる。そのくらい衝撃的だった。


「あ、はい。楽しかったです……いや、色々びっくりしてきました。友達の家というにはちょっとスケールがでかかったというか。なんかお城みたいで、メイドさんとかいて。家だけじゃなくて庭もめちゃくちゃ広くて。あと、お母さんが強そうでした」


「ふふっ。あの四宮さんの家だろう。まあ、あそこは特別だからね。僕もどんなところなのか気になるねえ」


 やはり、透子の家はその筋の人には有名らしい。前に珠希さんや三井さんも似たようなことを言っていた気がするからだ。気にしながらケーキを一口。濃厚ではあるがしつこくない。口の中でとろけた後に鼻に抜ける香りがなんとも……うーん、これもそれとなく高級品の予感が。


「先生は? 今日は何したんですか?」


 今はこちらの方が気になった。平日休日ともにずっと学内で過ごしている先生。外に出るとしたら、どんな用事でなのだろうか? 先生はフォークを皿のふちに置き、じっと宙を見て黙り込んでいる。


「えっとねえ」


「あ! すみません。答えたくないなら別にいいですよ」


 大人のプライベートに踏み込むべきではなかったかもしれない。己の発言を悔いていると、先生は首を横に振った。


「いいや、今日は色々あったからね。どう話そうか考えていただけだよ。えっとまずは……今日の明け方に甥っ子が生まれてね。病院に顔を出してきたんだ。それから実家でちょっと」


「甥っ子!?」


 意外すぎる答えに思わずのけぞった。目の前でケーキを美味しそうに頬張って笑っている人はまだ二十台前半、おじさんと呼ぶには……ちょっとお兄さんすぎる。先生は、俺の反応に目を丸くする。


「あれ? そんなに驚くことかな。じゃあもっと驚かせてあげようか。僕が叔父さんになったのは十七の頃だよ」


「んえええっ!? まだ高校生なのに!」


 ここでもびっくり箱が開いた。十七でおじさん……ということは、俺も来年……? ちょっと想像しづらい。


「ははは。僕は五人姉弟きょうだいの末っ子で、一番上の姉とは十歳離れているからねえ。子供を産んだのは三番目の姉。二番目の姉のところに姪っ子が三人いるよ。ああ、かがり姉さんが四番目で、三歳上なんだ」


「うーん、五人姉弟か、俺はひとりっ子だから想像できなくて……みんな集まったら、きっとすごく賑やかなんだろうな」


 今日行ってきた透子の家も四人姉妹で、蓮奈ちゃんと蓮美ちゃんはまだ幼稚園児。そこらをちょこまかと動き回って、よく笑いよく騒ぎ、とにかく賑やかだった。それを優しく見守る透花さんに、全力で遊んでいた透子。毎日があんな風だとしたら、とても楽しそうだと思う。


「まあ、そうだね。子供の頃はかしましかったかもしれないね……そうか。君はひとりっ子だったね。いとこはいなかったのかい?」


「いるのかどうかもわかりません。母方の親戚もひとりも知らないんで……俺にもおじさんっているのかなあ。やっぱり想像できないですね」


 首を横に振ってから笑ってみせた。我が家は……母子家庭で俺はひとりっ子。きょうだいがいることに憧れがないといえば嘘になる。薄暗くなった空を見ながら母親の帰りを待っている時、きょうだいがいれば寂しくないかもしれないと何度も思ったものだ。


 祖父母やおじやおば、もいない。いや、いるのかもしれないが、母親は両親とも親戚とも縁が切れていると言っていた。今後も…出会うことはなさそうだ。


 それに、父親は生きていたがまさかの異世界人。またあの言葉を思い出し、ため息が漏れた。先生が気まずそうな顔をする。


「ごめんね。余計なことを聞いたかもしれないね」


「ああ、大丈夫ですよ。ちょっと別のことを考えてて」


 ひとくち残っていたケーキを口に入れた。待てよ? あっちには俺の祖父母がいたりするのだろうか? それに父親が結婚していたら、異母兄弟なんかも。想像すると複雑さが倍々と増えていくが、十年も離れていたならありうる話……自分と血が繋がった人の存在は気になる。


 しばしの沈黙。


「それと、姉の命日だったんだよね。うちは色々事情があってお墓は遠方だから、ちゃんとしたお参りは夏休みになってから家族みんなで、ね……だから今日は実家の祭壇に花を手向けてきたんだ」


「え? お姉さんの?」


 驚きで再び目を見開いてしまう俺。紺野先生は静かに頷いた。


「一番上の姉のね。今年で十年になるよ」


 十年……それは俺が父親と別れたころと同じだ。とはいえ、その意味は大きく異なる。父親が生きていたことを知った日に、先生の秘密をひとつ知る。妙な巡り合わせかもしれない。


「人のためになりたいという思いが強い人だったね。魔術庁の特別救助隊に所属して、実際たくさんの人を救ったんだけど……任務中に無茶をしてね」


「そうだったんですね……だから」


 少し伏せられた瞳の奥には悲しみが沈んでいる。頬の赤みもすっかり引いて、静かに微笑んでいる先生。ふと、出会ってからのことを振り返る。俺が無茶をすれば、いつだって強い調子でたしなめてきた先生。その口ぶりから、大切な誰かを亡くしているのではないかとは思っていた……目を閉じて、心を鎮める。


「僕が男のくせにこんな仕事をしているのは、魔術師に憧れていたこともあるけど、姉のことがあったからなんだよね。君と僕を引き合わせてくれたのも姉ってことかな、そういえば君と姉はよく似ているかも……あれ、環くん?」


 今日と聞くと、祈らずにはいられなかった。 安らかであるようにと、それだけだが。魔術師であったなら、その道を目指す自分の先輩でもある。できることなら、会って話をしてみたかった。


「もしかして、姉さんのために祈ってくれたのかい? ありがとう、君はやっぱり優しいね」


「いや、何かできることをと思っただけで」


 先生の手が頭に伸びてきて、ぐしゃぐしゃと撫でられる。こうされるのは二度目だが、今回も照れてしまう。先生は目を細め、話の続きを始めた。


「ふふ、そのあとはねえ……ここに帰ってきた途端、古い友人から連絡があったんだ。『近くまで来てるから、食事でも』と誘われて。君のことがあるから少し迷ったけど、まあ、もう小さい子じゃないから大丈夫かと思って。ほんと、急なことで悪かったね」


『君のことがあるから』と言われたことで身体の熱が引く。どうして今まで、そのことに思い至らなかったのだろうか。


「すみません俺のせいで。よく考えたら先生には自由とか、休みがひとつもないようなものですよね」


「……うーん、君だって僕とずっと一緒じゃ気が休まらないんじゃないかい? ああ、僕はね、今の暮らしを結構楽しんでるから。心配いらないよ」


 慌てて頭を下げた俺に向けられた表情は、いつもの柔和な笑顔。でも俺の腹の中には複雑なものが渦を巻いていた……俺のわがままに巻き込んで、公私ともに縛ってしまった人がいることに気がついてしまった。


 もし俺がここに来なければ。もしくは、いなくなれば。先生は……ほの暗い考えが、一瞬だけ頭をよぎる。考えすぎだ、先生を信じろと、必死でおのれに言い聞かせる。


「……同じように、君もホラー映画を心の底から楽しめるようになるよ」


「いや、待ってください。本当は怖くないやつがいいです」


 藪から棒。脳が混乱したが即座に打ち返した俺に、ポンと手を叩く先生。頭の上で豆電球が光ったのが見えた気がした。先生はそのまま流れるようにズボンのポケットからスマホを取り出した。


「なるほどね。じゃあ明日は恋愛映画にしようか? 今の君にはそちらの方がふさわしいしねえ……僕はそっちには明るくないから、配信サイトでなにか探してみるとしよう」


 ……やっぱり! 見事ど真ん中を射られた的が、とてもいい音を立てて割れた……焦る俺の目の前で、スマホをすらすら操作する先生。


「ど、どうしてそう! な! ほ、ホラーでいいですよ!?」


「いいねえ、青春だねえ……僕と君の仲だ、遠慮はいらないよ。後学のためというなら、高校生の純愛ものがいいだろうね」


 その、確かに何かの参考にはなるかもしれないが、男の先生と二人で純愛ものの映画を見るなんて、罰ゲームに近い仕打ちじゃないか?


 だって、先生はどちらかと言うと、映画というよりは俺の反応を見て楽しもうとしているように見える。感動して泣いたりすれば、きっと思うツボ。いや、ホラーでも毎回泣きかけて、ついでに漏らしかけているが……それとはまた違う。


 先生は何かを見つけたのか楽しそうな顔で俺にスマホを差し出した。そこに映し出されていたのは、桜色の背景に、背中合わせになった制服姿の男女。


「うーん、これなんかどうかな?『なかなか想いを伝えられないふたりに、思わず胸がキュンとなる』そうだけど」


 ……きっと今、心の中の一番覗かれたくないところを覗かれている。思わず、背中がゾクっとした。


「いや、俺はちょっとそういうのは……ほんと、先生の好きなやつで大丈夫なんで」


「そうかい? あははは。そうこなくちゃね」


 先生は獲物の囲い込みに成功して満足したのか、まるで大輪のひまわりのような笑顔になると、スマホを操作する手を即座に止める。態度があからさますぎて、肩が落ちた。



 ◆



 ……夕焼けの策士に、今日も上手いこと誘導された気がする。そんなわけで俺は、先生曰く『割とヘビーな作品』に挑戦することとなってしまったのだった。


「はあ」


 湯船に浸かり、ため息をついた。さっき髪を洗っている間じゅう、後ろに人の気配がして怖かった。ホラー映画のことを考えるといつもこんな調子。自慢じゃないが、俺はかなりの怖がりなのだ。


「ヘビーか……蛇だったらまだ……いやそんなわけないな」


 もやもやと立ちのぼる湯気の中、妙な独り言が口をついて出る。明日も休日だと言うのに、こんなに憂鬱なことはなかった。

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