第70話 木陰の密談
「香坂くん、どうしたの? なんだか元気ないわね」
「う、うん。ちょっと……しっかり寝てなくて。ああいや、具合が悪いとかそういうわけではなく、昨日先生と一緒に見た映画が……ちょっと……刺激的すぎたというか」
月曜日の朝。そわそわとして早めに登校した俺は、ちょうど同じ時間に登校してきた森戸さんに問われそう答えた。珠希さんと透子はまだ来ていない。いつも遅刻ギリギリの透子はともかく、珠希さんはどうしたのだろう。
「…………眠れないほど刺激的って。まさか、いかがわしい映画じゃないでしょうね」
じとりした軽蔑の眼差しに刺され、たまらず目を逸らした。いかがわしい映画になんて一切興味はありません……と言えば真っ赤な嘘になるが、俺はまだ高校生。その手のものを見てはいけないのはわかっている。わかっているとも。
「確かに教師が生徒に薦めるには問題があるかもしれないけど……ホラー映画だよ。めちゃくちゃ怖いやつ」
「へえ、そうなの。あ、お好きだって前におっしゃってたものね」
信じてもらえず怒られる可能性も頭をよぎったが、森戸さんの表情があっさり緩んだのに、ほっとした。俺が休日に先生と映画を見ることがある、というのは彼女も知っているし、ホラー映画が特に好きだというのも先日の
それはさておき、昨日のあの映画。思い出しただけで背筋が凍りつく。なにせ……最初から最後まで救いも何にもないストーリー展開で、ヘビー級の恐怖が息つく間もなく襲いかかってきた。
「せせせせ! 先生いいいいい!! 嫌だあああああ!!」
「た! 環くん落ち着け! あっ! ちょっ……く、くるしい」
終盤。情けなくも精神の限界を超え、絶叫したあげく先生にしがみついて泣いてしまった。しかもその時に力の加減を間違え、危うく先生を絞め殺しそうに……先生ごめん。先生の別宅をホラーの舞台にしてしまうところだった。
揃ってヘトヘトになった俺たちは、口直しにと先生の友人が勧めてくれたというコメディ映画を見ることにした。こちらはたいへん愉快な内容で、最初から最後まで腹を抱えて笑えるものだった。そのあとは夕食をとり、寝支度をし、お互いに早めに布団に入った。
すっかり昼間の傷は癒えたかと思っていた。しかし明かりを消した瞬間、脳髄にしっかりと焼き付けられたらしい恐怖がしたり顔を出したのだ。
寝返りを打つと、部屋に何かの気配が……した気がした。エアコンの風でなびくカーテンのせいとわかっても、つま先から冷たいものが這い上がってくる。身体を持っていかれそうな感覚に震え、頭まで布団をかぶり、隙間を塞ぎ、自らを守るように丸まり……それでなんとか眠れはしたが、夢の中にまで……ああもう怖い。早く忘れたい。
しかし、紺野先生は終始楽しそうだったし、夜も何かを恐れる様子もなくたっぷりと寝ていたようだ。
『いやあ。中盤からラストにかけての畳み掛けがさすがというか……まさかあんなラストだなんてねえ……本当に素晴らしかったねえ』
やっぱり先生は鋼の心を持った超人か。それともどこかが切れているのか、ネジが外れているのか。先生、ごめん。
七つ年上の先生と暮らしてもう三ヶ月半。もうすっかり慣れたことだが、朝に弱い先生を起こすのが今日も大変だったことを思い出しながら、鞄を開き中身を机に移し替える。隣の席の主はまだ登校してこない。
「そういえば、た……本城さんは? 今日は一緒じゃなかったのか?」
「ええ。珠希さんもひどい寝不足らしくて。少しだけ寝たいから先に行っててって言われたの……うーん、あなたたちって、一緒なのは名前だけじゃなかったのね」
「いや、名前だけだと思うけどな」
……実は本当の名前ではないらしいけど、と言いかけて飲み込んだ。
◆
「……香坂くん、おはよう」
珠希さんは、朝礼の直前にやってきた。挨拶の声に力はなく、目も半分ほどしか開いておらず虚ろといった様子。授業中も船を漕いで先生に声をかけられているし、休み時間はずっと机に突っ伏していた。寝不足なのは確かなようだ。
「次は実習だな。えっと、本城さん、大丈夫か?」
「今日はずいぶんと眠そうではないか。昨夜は夜更かしでもしたのかね?」
「えっと……うーん、昨日はちょっと寝付けなくって。だから昼休みは寮に戻ってお昼寝してくるよ。古典の授業、どうしても眠くなっちゃうし」
「……冷房の効きがよくなかったのかしら。昨日はちょっと暑かったものね」
森戸さんが言うと、珠希さんは目を丸くしてからカクカクと頷く。
「え? ああ……そうそう。ちょっと暑くって」
珠希さんも怖い夢でも見たのかと思っていたが、違ったようだ。寮までは徒歩二分ほど。昼休みならば帰って横になれると言うのも寮生の特権……三十分でもベッドで横になって寝れば、少しはスッキリするだろうか。
「うっかり寝過ごさないようにね……ああ、香坂くん。今日のお昼なんだけど、実習のクラスが一緒の子たちと食べる約束をしていて」
「わかった。じゃあ今日は俺ひとりだな」
別に一人では食事ができないなんて事はない。久々に食堂でカツ丼でも食べるか……などと思案をしていると、視界の端で綿菓子がちらついた。
「なあ、たまきくん」
透子が……珍しく潤んだ上目遣いで俺を見ている。不気味だ。もしかして、なにか頼み事か?
「……ん? 何だ、透子」
◆
四時間目が終わって昼休み。実習室からの帰り、俺は透子と一緒だった。
二人並んで教室へ向かう廊下を歩く。外に目をやれば抜けるような空が目いっぱい広がり、太陽の光が目に刺さりそうだった。窓がぴっちりと閉まっているので聞こえてこないが、外ではセミがとてもやかましく鳴いているだろう。
実習が今日も残念な結果に終わったため、引きずるような足取りの俺。対照的に、透子の足取りは弾むように軽かった。一歩ごとに、二つに分けて結ばれた髪がふわふわと踊る。
「たまきくん! 見ていてくれたかね!」
「見てた見てた」
「やっっと! できたぞ! わたしにも! やっと、やっと!」
「おう、やったな。透子」
底抜けの笑顔の透子に、俺もつられて笑う。ラムネ瓶の色の瞳は、夏の光を吸い込んでキラキラと輝いていた。
そう。とうとう例のビー玉が微動だに
「四宮透子!! やったな!! よく頑張ったぞ」
佐々木先生は確かに声が大きいが、中身はあくまでも冷静沈着だと思っていたので、あの熱い振る舞いは意外だった……ちょっと涙ぐんでたしな……などと思っていると、透子が突然歩く速度を上げた。
「さて、たまきくん。わたしは弁当を持ってきておるが、君は?」
長いスカートをひるがえし、くるりと前に回り込んだ透子が、後ろ向きに歩きながら俺に問う。その顔は相変わらずご機嫌そうな顔のままだ。
「え、透子って、もしかして毎日弁当を持ってきてるのか?」
「君は、わたしが何も食べないとでも思っていたのかね?」
透子は目を丸くして止まった。急なのでぶつかりそうになったが、すんでのところで避ける。
単に昼休みはいつも姿が見えないので、学外に豪華な昼食を食べに出ているのか? と思っていただけ。なんせこいつは、お城みたいな家に住んでいて、専属の運転手さんまでいるお嬢様。仮に昼食のためにわざわざ外に出ていたとしても不思議ではない。
それに、雲とか食ってると言われれば信じる。
「いや、そういうわけじゃないけど……それなら俺はなんか買ってこないと。どこで食べる? 教室? 中庭?」
「ああそれなら、よい場所を知っておるよ」
透子は何かを企んでいるのか、ニヤリと口角を持ち上げた。
◆
透子に指定されやってきたのは、学校図書館の裏。青々と茂った木々の下に、円形に石畳が敷かれ、中にベンチがひとつ置いてある。図書館にはたまにくるが、裏にこんな場所があったとは。
先にベンチに座っていた透子の横に腰を下ろす。伝わってくる感触はひやりと冷たい。ひと気のない濃い日陰の下は、真夏の空気から切り離されたかのような涼しさだった。
地面に目をやると、時々吹く緩やかな風に合わせて、木漏れ日がチラチラと揺れている。セミは鳴いているが、少しだけおとなしい気がした。
「へえ、穴場ってやつか。透子って昼休みは全然見かけないけど、いつもここに来てたのか?」
「ああ。ここで手早く昼食を済ませ、図書館で読書にふけっておったのだ。本科生が入れるところは限られておるが、それでも興味深い書物が多いからな」
図書館には古今東西の魔術書はもちろん、それ以外の本もたいへん充実している。新刊や話題書もすぐに入ってくる上に、なんと美容雑誌やファッション誌、果ては漫画や映画のディスクまで置いてある。この圧倒的な蔵書量を目当てに、学生だけではなく教職員、卒業生も盛んに利用する。
学校にあるといえば『図書室』だと思っていた俺は、初めて立ち入った時、ひたすら圧倒されたのを思い出した。それからは俺もたびたび本や新聞を読みにきたり、女の子との会話の糸口を掴むため女性向けの雑誌や漫画をこっそり読んだり……。
「そういえば、透子はどんな本を読むんだ?」
「館内を歩いて目についたものを手当たり次第に読んでおる。ジャンルは問わない。どんなものにも発見や学びがあるからの」
「はあー……なるほどな」
この綿菓子頭の中には色々詰め込まれているわけか。感心した俺に、ケケケといつもの笑顔を向けながら、手提げから取り出した弁当箱を開く。塗りの重箱でも出てくるかと思ったが、小ぶりなプラスチックの弁当箱だった。
中身も、少し綺麗すぎる見た目ではあるものの、意外と普通だった。正式名称をなんと言うんだったか。トマトとベーコンとレタスが挟んであるサンドイッチと、くし切りのオレンジが数切れずつ。俺だったら三倍は食べられるか、といったボリュームだが、小柄な透子にはこのくらいがちょうどいいのかもしれない。
「そう言えば、退学は取り消せたんだな」
「ああ。あちこちに頭を下げることになってしまったが、これからも引き続きここに通えることになった。たまきくんのおかげだ。君の言葉がなければ、わたしはおそらく気づけなかった」
再来月には向こうの学校に入学する予定と聞いていたので、このタイミングで取りやめるのは大変だったんだろう。
「ほんと、よかったな」
「しかし、喜んでばかりもいられんのだ。謝罪行脚が終われば次は補講三昧。こんなことは生まれて初めてだが……まあ、君が実家に帰っている間に全て片付けるでござるよ」
口を尖らせ愚痴るように言いつつも、その目は輝きを失ってはいない。なんせ相手は優等生だ。夏休みが終わる頃には追い越されているだろうな……コツさえ掴めたなら、あっという間に学年一位の森戸さんに迫るほどの魔術の使い手になりそうだ。
「ところで、君は、何を思い出したのかね?」
「あの時、昔のこととか、父親がどこの誰かを思い出した……って感じだ。でも、それは……その、あの」
『この世界の人間に
「わかった、そこまででよいぞ。何もかも詳らかにする必要はない。誰にでも人には言えぬ秘密というものはある。ああ、でもひとつだけ尋ねてもよいか」
「何だ?」
今度は透子の方が言いよどんだ。こいつが発言をためらう姿は見たことがない。視線を外し、また戻すのを何度か繰り返すのをじっと見守る。すると、とうとう意を決したように、ラムネ瓶の瞳は俺の姿を真っ直ぐに捉えた。
「…………君は、いなくなったりせんよな? 君の父君がかつて、君の前から姿を消してしまったように」
「えっ」
風に吹かれた木々がザワザワと音を立て、木漏れ日が揺れるのに合わせ、透子の瞳もゆらめいた。知られてはいけない部分までを言い当てられた気がして、焦りから心臓が跳ね上がる。見抜かれないように落ち着いて言葉を紡いだ。
「そ、そんな事はない。俺はいなくならない。父親がいなくなったのだって、別にその……あの……」
「……大丈夫だ。ありがとう、少し不安になっただけでござるよ」
透子はホッと息をつくと、静かな水面のように透き通った瞳を細め意味深に笑った。全てを見通されているかのように思えてならず、俺は、なんとなく笑うことができなかった。
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