第5章・夏
?_すべてのはじまり
その人はまるで野に咲く花のようだった。
パッと目を引く美しさはない。艶やかでも、華やかでもない。足元を見れば小さく咲いている素朴な花のような、そんな人。
初めてここに来た時に、その後ろ姿にひと目で心奪われた。少し幼さの残る見た目に似合わぬ美しい仕事。ここまで腕の立つ人間は俺の周りには誰もいない。ここにもこんな逸材がいたのかと、単に興味を惹かれただけだと思っていた。
彼女に恋をしていることに気が付いたのはだいぶ後の話だ。なぜなら、初めて顔を見た時も『特に美人というわけではないな』という印象を抱いたからだ。訳もわからぬまま、探して追い続けて。鮮やかな技を繰り出すその小さな背中に焦がれつづけた。
今日も彼女はひとり。時々誰かと無線機でやりとりをしながら、森の中を進んでいる。俺はその少し後ろを、足音と気配を消し追っていた。隠蔽に関しては自信があるので、決してバレてはいないはず……。
「このあたり……よね。えーっと」
辿り着いたのは森の奥深く。鳥のさえずりさえも遠い、静かな場所。風が吹いたときに、ざわざわと枝葉が擦れる音がするだけ。
調査任務か、それとも、何かを仕掛けるように言われたのか。どちらにしても魔術師にはよくある仕事。場所が変わってもだいたい同じなのだなと、俺はそこらの木にもたれかかり、いつものように彼女がひとりで仕事をする姿を眺める。彼女の灰色のローブの裾が汚れていくのを見ながら、端末を取り出してネットワークに侵入する。この辺りはよく行方不明の人間が出る場所らしい。まあ、だいたい仕事内容は読めた。
しかし、こんなことまでたったひとりでやらされるなんてな。問題はないと判断されているから単独で派遣されているということなのだろうが、こんな森の奥深くで、もし何かがあったらどうするのだろうとぼんやりと考えていた。魔術師が貴重なのはどこの
ため息をついたその時、彼女が足を滑らせ、その身が大きく傾ぐのが見えた。先ほど確認したところでは、高さは大したことはない。落ちたところで別に大怪我をすることもないはず……
……いや、見殺しになんかできないだろ!!
そばに駆け寄り細い腕を掴んで引き寄せると、勢い余って胸に抱きこむような形になってしまった。彼女は体温が高いのか、まるでひだまりの中にいるいるような暖かさ。それに、甘いお菓子のようにふわりと柔らかかった。彼女が自分の腕の中にいる。そのことで一瞬で幸せに包まれ、頭の中がチカチカとした。
とはいえ、俺は姿を消しているので、彼女からすれば単に落ちそうになったがなぜか落ちなかった、というだけで済むはずだった。
「あの、よくお会いしますよね」
腕の中で、丸い瞳がじっと俺の顔を見上げていた。あれ? と思ったが、彼女の目にはしっかりと俺の顔が映っていて……夢中すぎて集中が途切れたのか、隠蔽が解けてしまったらしい。それに、腕を離すのも遅すぎた。
とにかく、見つかってしまったのは仕方がないにしてもだ。助けてくれてありがとうございます、だとか、どうしてこんなところに、という言葉なら想定もできよう。しかし、これは。心臓が大きく跳ね、鼓動が速くなる。
どうやら彼女は、こそこそとしつこく追いかけ回していた気味の悪い男……俺の事をはっきり認識していたらしい。俺としたことが、深追いをしすぎた。全身から冷たい汗が噴き出してくる。
…………とにかく早く逃げなければ、そう判断し黙って彼女を突き放し、踵を返した。
「待ってください!」
無視すればいいのに、足が勝手に止まった。彼女が駆け寄ってくるのがわかり、持っていた
必死で思考した。ここで魔術を使えば面倒なことになるのは見えている。一撃放って気絶でもさせられれば問題はないかもしれないが、彼女はおそらく俺以上の手練れ。返り討ちに遭う可能性が高い。それに仮にうまくいったとして、こんな森の奥深くに一人取り残していくわけにも。
言葉を交わすことは認められていないが、今は緊急時。場合によっては始末書を書くことにはなるだろうが、今はこちらの手の内を見せることなく、当たり障りなくこの場を逃れることが先決だ。唾を飲んで、おそるおそる振り向く。
とりあえず『調査』のことさえバレなければそれでいい。そもそも俺のことは
「あの、一度お話ししてみたかったんです!」
この状況をどうやって打破するか。どう言い逃れるか。そればかりを考えていた俺に投げられたのは、あまりにも意外な言葉だった。一目惚れをしてずっとその姿を追っていた人が、見ていることしかできない人が、『話してみたかった』と自分に言う。別の意味で鼓動が早まり、夢心地に身をこがされる思いがした。
「……き、気持ち悪くないんですか?」
すっかり溶けてしまった頭の中で、やっと練り上げた言葉がこれだった。それにしても、もっと他に言いようがあっただろうと後悔するも時は既に遅し。しかし、目の前の人はどう考えても怪しい男を目の当たりにしても何も怯まない。
「どこにでもいらっしゃるから、いったいどんな方なのかなって、ずっと気になっていて」
彼女はこちらに歩み寄ると、俺のすぐ隣に躊躇なく座った。思わず足元を見ると、彼女もまた俺を見つめており、視線がかちあう。人懐っこそうな丸い目が細められたのに、つんと胸を刺された。
こんなふうに笑うのか、かわいいな。
ずっと遠くからその背中を見ているしかなかった人の笑顔が、今、まっすぐ自分ひとりに向けられている。ゆっくりとその場に腰を下ろす。肩が触れ合う距離、彼女はすこし身体を揺らしたが、悲鳴をあげたり逃げる様子はない。
「お名前、教えてくれませんか」
「えっ」
柔らかな声色が頭の芯にしみ入ってくる。くすぐったさと心地よさに顔が溶けそうになるのを止められないが、俺は慌てて頬の内側を噛んで口を引き結ぶ。きっとおかしな顔をしていたのだろう、彼女は不思議そうな顔をして、丸い目を瞬かせた。
……俺は、今問われた自らの名前を含め、
…………たとえ、相手が密かに想いを寄せている人だとしても。
「何度もお見かけしたので、もしかしたら運命の人なのかな、なんて。そんなことを考えたりもして……あ、私、おかしいですよね。変なこと言ってごめんなさい。あの」
彼女は紅潮してしまった顔を隠すこともせずに、目を少し逸らしただけ。俺は木漏れ日を受けきらきらと輝く瞳に吸い込まれていく。これを手に入れるためなら、何もかもを捨ててもいいと思えるほどに美しく見えた。
どうしても、この
「あ、あの。俺の名前は……」
目の前で咲く、小さな花に手を伸ばした。
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