5月〈2〉あたらしいともだち・4

「環くん、その子も食事に連れて行くのかい? 仲良しなんだね」


「ちょっと。こいつの行きたいところに心当たりがあるだけです」


 可愛らしい色合いの大きなぬいぐるみを携えた俺は、雪寮でたいそう目立ったようだ。久々にこちらを見てヒソヒソ話す学生を見た。


 この学校に入学して一ヶ月と少しが経った。男子学生もここにいるものとして受け入れられつつあるらしく、わざわざ注目を浴びたりすることもほぼなくなっていた。


 しかし、脇にこんなものを抱えていては話が別だ。今日の俺を見た周りのざわついた反応は、入学したての頃を思い出させるようなもの。


 それらを気にせずに廊下を進むと、食堂の手前の談話スペースに目的の人物がいた。いつものように、窓に向けて置かれたソファーに腰掛け、色とりどりの花が揺れる庭を眺めていた。彼女は、毎日一緒に食事をする友達森戸さんをいつもここで待っている。


「本城さん」


 呼びかけると、小さな背中がわずかに動く。彼女はゆっくりと立ち上がり、こちらを振り返った瞬間。栗色の目はぬいぐるみにくぎ付けになった。思い切って差し出した。


「あ、香坂くん。こんばんわだね。あ、その子、なつかしいな」


「これ。邪魔じゃないなら、もらって欲しい」


 ぬいぐるみをに目を留め、無言で固まる彼女をじっと見つめる。


 長い耳をピンと伸ばしたウサギのぬいぐるみは、人間の赤ちゃんくらいの大きさはありそうだ。どう考えても寮の部屋では邪魔になるサイズで、それをわかってて押し付けようとしている。一瞬の後悔。でも、口に出したものはもう戻せない。


 本城さんの視線がぬいぐるみからゆっくりと俺の方へと動く。目が合った瞬間、彼女はうろたえだした。


「だってこの子、お母様が好きなんじゃないの? それに私は……もらえないよ。私は香坂くんにその、だから」


 本城さんはブンブンと首を横に振る。それは建前で、やはり俺のことは……引きそうになったが、今日は伝えると決めてこいつを連れてきた。だから引かない。


「別に、俺はあなたから何もされてない」


 必死だったせいで声の調子が強すぎたのか、本城さんがびくついた。だめだ、責めに来たんじゃないだろう。優しく、優しくと念じながら慌てて深呼吸をする。


「もちろん、俺からこんなものもらうのは嫌とか、怖いとか、邪魔になるっていうなら、持って帰るから。その、あの……俺は、あなたの味方だってことを、伝えたかった。だからぬいぐるみこ れは、別に、その」


 ぬいぐるみを再び脇に抱え直す。尋常じゃなく心臓が速く動いている気がする。速すぎる鼓動につられるように、上がる息を必死で抑えていると、自然と身体が熱くなってくる。


 俺は別に、愛の告白をしているわけではない。なのに、どうしてこんなにも緊張しながら、彼女の返事を待っているのだろうか。


 その間は永遠の時にも思えた。本城さんは両手で口を覆ったまま、うつむいている。余計なことをして怒らせてしまっただろうかと、心臓がギュッと縮まる。そうであって欲しくないと、祈るような気持ちで奥歯を噛んだ。


 すう、と深く息を吸い込む音が聞こえた。それを合図に、怒鳴られるのを覚悟して、彼女を見つめる。栗色の丸い瞳の中で、俺の顔がゆらゆらと揺れていた。


「……ほんとに、もらってもいいの?」


 俺がうなずくと、本城さんの手がためらいがちに伸びてきた。それに触れないように気をつけながら、そっとぬいぐるみを渡した。


「俺は、あなたの力になりたい。いつもそう思ってるから」


 ぬいぐるみを見つめ、何度もその目元を撫でていた本城さんから、涙がぽろっと落ちるのが見えた。彼女の涙を見るのは三度目だ。恐怖で流したのであろう涙と、つらいことを思い出して流したのであろう涙と。


「……この子ね、昔、大事にしてた子といっしょで」


「そ、そうだったんだ」


 本城さんがそう小さく呟いた。服の袖で目元を拭ってから、ぬいぐるみに顔をうずめる。


 ゲーセンの前に貼ってあったポスターや、ぶら下がっているタグによると、こいつは『復刻版』だと言う。それなら、昔持っていたものに近いのではないかと思ったが、まさか同じものだったなんて。


 そんな偶然……いや、今までその存在を信じたことなんて一度もなかったが、これが運命というやつだろうか。運命の人に出会えてよかったなと、心の中で友達ウサギに声をかけると、それに応えるように耳がペコペコ動いた。


「ありがとう。すごく嬉しい。大事にするね」


「よ、喜んでもらえてよかった」


 本城さんは絞り出したような涙声の後、ゆっくりと顔を上げた……目にたっぷりと涙を浮かべていて、こぼれてくるたびに何度も拭っている。そこにあったのは雨上がりの晴れた空のような笑顔。


 なぜだかわからないが、そこから目が離せない。胸がさらに高鳴るのも抑えられない。泣きぬれている頬に吸い寄せられるように手が伸びたが、慌てて拳を握って手を下ろした。


 ……ああ、そうか。今、この人に触れてみたい、抱きしめてみたいと思ったのも。意味はどうあれ、『好き』と言われたことに、あんなに気持ちが昂ったのも。からなのか。


 すとんと、何もかもが腑に落ちた。


 思えば初めて出会った日から頭の中を覆っていた、よくわからなかった感情に名前がついたことで、心が晴れた。


「香坂くん?」


 じっと黙り込んでしまっていた。本城さんが、首を傾げている。


「あ、ごめん。なんでもないんだ」


 そう返すと、本城さんは何度も笑顔でうなずいた。その胸に抱かれたウサギも、なんだか幸せそうな顔をしている気がする。


 そして、俺も。目の前で笑う愛しい人を見るだけで幸せを感じている。じんわりと暖かくて、少し痛い……こんな気持ちを持ってしまっているなんて、絶対に知られるわけにはいかないな。


 彼女は何かを抱えていて、俺のことを恐れていることは知っている。ずっと胸に秘めておくことになるだろうが、それで構わない。

 もし必要とされることがあったら、いつでも駆けつけられるようにするだけだ。


 彼女の笑顔のためなら、俺は何だってやってみせる。そう心に誓った。

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