5月〈3〉濡れ衣を着せられる

 俺は幸せな気持ちで胸を温めながら、ぬいぐるみを抱きしめる本城さんを見ていた。









「環くん、よかったじゃないか。そうかそうか。いやあー、青春だねえ。うん」


 紺野先生の、やたらとのんびりとした声で我に返り……急に夢から覚めたかのように、今、自分が置かれている状況に気がついた。


 俺の横には腕を組んでニコニコと笑う紺野先生。そして、そこまで大勢というわけではないが、周囲をすっかり女子たちに取り囲まれている。その表情は、ニヤニヤと笑っていたり、目を見開いていたり、さまざまだ。


 えっ? どうして? みんな、見ていたのか? どうやって?


 確かにここにいるのは全員が魔術師の卵……しかしなぜそんな不思議なことが起こったのかわからずに、混乱したが……ここがどこなのかをすぐに思い出した。


 ……あ、当たり前か……別に不思議でもなんでもない……俺は、公衆の面前でいったい何を……?


 夕食の時間が近くなってきたので、食堂へと続く廊下は学生でごった返し始めている。談話スペースにできたこの人だかりに、足を止める人も多かったため、ざわめきは大きくなっていた。


 血の気が崖から落ちたかのように引き、幸せで暖まっていた身体が一瞬で冷える。たぶん、俺の顔は真っ青になっているに違いない。温度差で風邪をひきそうだった。


 そうだよ。二人きりなんかじゃなかったんだ。わかっていた。だから、ぬいぐるみがいるかいらないか聞いて、俺は友達だからいつでも味方すると、そっと伝えて終わるつもりだったのに。


 いざ本人を目の前にすると、必死すぎて何もかも全て頭から吹っ飛んでいた。


 いやもう。それにしたって俺は、俺はいったい何を。込み上がってくる恥ずかしさから足が勝手に震え出してきた。心の中が読める魔術の使い手がこの場にいたら大変なことになってしまうのでは。全員に自分の胸の内までを見透かされている気がして、胸を押さえて後ずさる。


「こ、香坂くん、あ、あなた、やっぱり!?」


 背後からの上ずった声に振り向くと、いつのまにか立っていた森戸さんが、目を吊り上げてガタガタと震えている。何が『やっぱり』なのかわからないが、その顔は、窯で茹でられたのかというくらい真っ赤だ。


 えっ、いや、なに? 森戸さんはどうしたんだ?


 いや、待てよ。奇しくもと場所も時間も同じ。どうしても入学式の日の出来事が頭をよぎってしまう。やばい。そう思い、慌てて声を上げた。


「ああっ!! これは!! その!! ご、ごめん!! 落ち着いてくれ!!」


 しかし、森戸さんは容赦はしないといった様子で、じりじりとこちらに詰め寄ってくる。俺はこれから起こるかもしれない何かを恐れて、必死で弁明しようとしたが。


 …………いや、何を?


 俺は単に本城さんにぬいぐるみをプレゼントしただけ。確かに愛の告白めいたシチュエーションになってしまったが、本当にそれだけだ。そうは思ったが今、俺は二人の女子に相対している。そのうえ片方は泣いていて、片方はなぜか怒っている。


 この状況は……生まれてこの方、色恋には一切無縁だとしてもわかる。似たようなものをドラマの再放送で見たことがあるからだ。


 そう。これぞまさに修羅場というやつだ!! ……いや、違うけど!!


「え、二股かけてたの!? あの男子!?」


 誰かが大声でそう言うと、しだいに周りを取り囲むオーディエンスのざわつきが悲鳴に近いものになる。


 やっぱりか! あまりのことに乾いた泥人形のようにボロボロと崩れそうになった。俺は、今まさにとんでもない濡れ衣を着せられそうになっている。このままではこの学校にいられないではないか。


 頼むから無実を証明してくれ、俺は二人とはそういう仲ではないだろう!? そう念を込め本城さんと森戸さんを見つめたが。


 本城さんはぬいぐるみに顔を埋めたまま無言、森戸さんは、な……なんだその顔は? 目がつり上がってるのに口元は緩んでる気がする。笑いをこらえてるのか? なんでだよ! 早くなんとか言ってくれ!


 今まさに人生最大のピンチが訪れているのに、援軍が望めない。最後の望みをかけて、横に立っている紺野先生に目で救いを求めた。しかし、それに気づいた先生は、俺を見てなんともいえない冷めた表情を浮かべている。


くん、君はそういう意味でもヤンチャだったのかい? これは、いけないねえ……決して褒められたものではないなあ」


 ……呆れたような顔で、首を横に振られる。嘘だろ。先生までどうしてそんなことを言うんだよ。信じてくれないのか、友達って言ってくれたのに? しかし先生の夕焼け色の目には、どう見ても疑いの色が滲んでいる。


 理解を超えた状況に頭がとうとうパンクした。


 先生とはそれなりに、この、信頼関係みたいなものを……と思っていたので、こういう時は味方をしてもらえるものだとばかり思っていた。それなのに、ハシゴを外されたみたいだ。


『たまきがさー、女子校で女の子とっかえひっかえしてるって噂が流れてるわ(笑)』


『環はそんなことしないって信じてるけど、周りが女子ばっかじゃなー』


『四股かけてるってマジで? お前、中学では大人しかったのにー(笑)』


 友達や同級生から、電話やメッセージで浴びせられた文言の一部が脳内にザーッと流れてきた。根も葉もない噂には、尾鰭がついているどころか、今この場で翼まで生えて自由に飛び回っている。


 …………どうして? 俺は、俺は無実なのに…………。


 周りに誠実にと言う誓いを立てて、この一ヶ月と少しの間、それを守り頑張って……やっと馴染めてきたと言うのに!!


 降って湧いたまさかの二股疑惑に、一つ一つ積み上げたものがあっけなく崩れ落ちた気がした。とうとう思考回路がまともに働かなくなり、俺も、膝から崩れ落ちた。



 そんな俺に向けられた視線は、二人分を除いてはとても冷たいものだった。



 ◆


 ………………さて。


 幸いなことに紺野先生に対しては、ようやく涙が止まった本城さんと、顔色が普通になった森戸さんの二人から、その場で釈明をしてもらえた。それですぐに誤解を解くことができた。


「いやあ。お恥ずかしながらこんな場面に遭遇したのは初めてでね。動揺してしまったよ。環くんは誠実でいいやつなのに、疑ってごめんよ」


 ……やっぱり疑っとったんかい。と、心の中でツッコミを入れる。いや、没収したカップ麺のことを根に持たれて、突き放されたのかと思っていた俺もたいがいだが。


 しかし、森戸さんがどうして「やっぱり」と言ったのか、そのうえ真っ赤な顔をしていたのかは結局よくわからなかった。彼女と打ち解けてからというもの、たびたびこういう妙な言動が飛び出す気がする。


 しかも今回は修羅場もどきにまでなってしまった。いちおう謝りはしてもらえたが、その真意は全く教えてもらえなかった。女性という生き物は、揃いも揃ってとてもミステリアスだ、ということにしておこう、かな。



 さて。残念ながらこれにて一件落着とはいかず。


 その他の目撃者の誤解が解けるには、しばしの時間がかかった。そのうえ、学校じゅうに稲妻のような速さで噂が駆け巡ってしまったこともあり、俺は『二股野郎』の汚名を着せられたまま生きることになってしまったのは言うまでもない。

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