第47話 真夜中の密談

 だんだんと息苦しくなってきて、布団から顔を出し枕元の時計を見る。布団に入ってから一時間以上が経っていた。ひどく喉が渇いたので、水でも飲もうかとベッドから降りた。


 先生の部屋の明かりもすでに消えているようだったので、起こさないようにと明かりをつけないまま、ダイニングへと静かに足を踏み入れる。キッチンの窓から表の外灯の明かりが差し込んでくるため、電気をつけずとも、一応は歩ける明るさだ。


「もしかして君は今、自分について考えているところなのかな?」


「ギャアア!!」


 夜中にもかかわらず、飛び上がって大声を張り上げてしまった。幸い心臓は止まってないようだし、腰はギリギリ抜けなかった。念のために下半身に手を伸ばし、濡れていないかを確認してから顔を上げる。


 青白い光が声の主をわずかに浮かび上がらせている。紺野先生は、自分の部屋のドアにもたれかかり、いつもの柔和な笑顔を浮かべていた。


「せ、先生! 驚かさないでくださいよ! ゆゆゆ、幽霊かと思った!!」


「いやあ、ごめんごめん。もしかして、怖いの苦手なのかな?」


「実は、かなり……」


 恐怖で半ば涙声になってしまった俺に先生は背を向けて、冷蔵庫を開ける。中から水の入ったボトルを取り出し、中身をシンクの横に伏せてあった俺のコップに注いで、こちらに差し出してきた。


「どうぞ」


「あ、ありがとうございます」


 目はすでに暗さに慣れていたので、コップを迷わず受け取り、中身を一気に飲み干す。喉が潤ったことでいったん平静を取り戻した。


 あれ? そういえば先生は、どうして俺が水を飲みにきたってわかったんだろうな? 首を傾げていると、なんだか申し訳なさそうな調子の先生がぽつぽつと語り出した。


「前に映画の話をしたとき、なんとなく顔色が良くない気がしてたけど、気のせいじゃなかったんだねえ。ごめんよ、だめなら遠慮なく言ってくれたらいいから」


「あの時は先生があまりにも楽しそうだったんで」


「気づかなかったなんて、本当にめんぼくない」


「あはは、大丈夫……です」


 先生は、しゅんとうなだれていた。土曜の夕食の席のことである。昼間に『別宅』で映画鑑賞に没頭していたらしい先生は、俺にその話をしてくれた。


 小さい子供に楽しい童話でも聞かせるような口調だったが、内容は……思い出したくもない。男のくせにカッコ悪いと言われるかもしれないが、やっぱり怖い話は苦手なのだ。


 シンクでコップをすすいで、水切りカゴに入れる。手を拭いて振り向くと、先生はいつのまにかダイニングの椅子に腰かけていた。どうして気配を消し、暗いところにたたずんでいたのかはよくわからないが、改めて挨拶をして布団に入ろうと思った時だった。


「ああそうだ、僕もたまきくんくらいの頃は色々と思い悩んでいたものだよ。もし僕に話して気が紛れそうなら、話を聞くけれど」


 寝付けなかったのに気付かれていたのか? もしくは、魔術に関する不穏な質問をしたことで、何かを察知されたのだろう。それにこのタイミングで先生から『たまき』と呼ばれたことに驚いた。相変わらずその目は柔らかく細められている。


 頭に浮かんだ嫌な考えに支配されて、グラグラと揺れていた気持ちが、名前を呼ばれたことでふっと落ち着いた。そうだ、少なくとも今ここにいる俺は、『たまき』なのだ。


 俺も先生の向かいに腰かけた。


「先生の言うように、自分について考えてたところでした。どうして、ひとりだけなのか、とか。どこから来たのか、とか」


「ああ、なるほど……ここ数日、いろいろあったしねえ。それに今までは、を、そこまで深く考えることもなかったってわけなんだね」


 俺がうなずくと、先生は少し真剣な顔をして、指を組む。そして、少し俯き加減になった。


「君はこの世界にたったひとり。正直、何なのかよくわからない存在だ。だから君は僕たちの想像を絶するようなことに、ひとりで向き合わなきゃいけない時が来るかもしれないよね」


 そこに関する真実のようなものが顔を出したような気がして、俺は底知れない恐怖を感じていた。身震いがする。やっぱり、先生は魔術師みたいだ。全てを見抜かれている気がする。


「でもねえ、君はたったひとりだけど、ひとりぼっちではないよ。それだけは覚えておいてね。あんなに君のことを思ってくださってるお母様に、地元のお友達、ここでも新しく友達ができただろう? ああ、僕のことだよ、環くん」


 紺野先生はそう言ってウインクをしてから、あははと楽しそうに笑った。そういえば、友達になりたいなんて言われていたな。俺は正直、社交辞令だと思っていたが先生は本気だったんだ。気が抜けて、ふふっと笑いが漏れてしまう。


「それと、お母様ねえ。入学式の時に君が返事して立つの見て、涙ぐんでいらっしゃったよ。自分と同じ道を選んでくれて、嬉しかったんじゃないかな」


「え」


 確かに受験できることが決まった時も、合格した時も、入学式の時も。終始嬉しそうな顔はしていたが、そんな、涙を流すほどだったとは。照れくさくて、背中がそわそわしてきた。


 そうだ、俺をここに入れるために必死になってくれたのは、他の誰でもない母親だ。たった二人の家族だからと、一緒に笑って一緒に泣いて、うっとうしいくらいに寄り添って生きてきた。ちょっと抜けたところもあるし、逆に厳しすぎると思ったこともあるが。


 どんな時も味方すると言ってくれた。名前を、笑って呼んでくれた。だから、その背中を追いたくなったのだ。


 …………やっぱり信じたい。


「親心だよねえ。いや、僕とてまだ子供の立場でしかないから、想像なんだけど。うん、少ししかお話はできなかったけど、本当に、環くんのことを大事に思っていらっしゃるんだなあって。君がお母さんのことを大好きなのも、納得というか」


『いやあ、マザコンだね』と、付け足されそうな気がして、急に恥ずかしくなってきた。いや、もはやそれは認めざるを得ないと思うが、それを改めて他人に言われるとだな。


「そういえば!! 先生と言う人に下の名前で呼ばれたのは初めてですね。いいんですか? いや、俺はいいんですけども」


 これ以上そのことをつつかれるのも嫌だったので、不自然に話題を変えた。そうだ、生徒を下の名前で呼ぶなんて公私混同とか言われないのか? と心配する俺を見ても、先生はご機嫌といった様子の笑顔を崩さない。


「いやあ、まあそう細かいことは。同じ屋根の下で暮らす同性同士だし、別にいいんじゃないかなあ……やっぱり名字だと友達って感じがしないよ。うん。だから、君もそうしてもらっていいよ」


 先生はぐいっとこちらに身を乗り出してくる。暗いところなのに、目がわずかな光を集めてキラキラと輝いている。それを受けて真面目に思案した。『燈くん』……いや、年上なのだから、『燈さん』が良いだろうか?


 でも、相手は学校の先生なんだから、やっぱり……。


「……俺は、『紺野先生』って呼ばないと色々まずそうなんで、呼び方はこのままで。じゃあ、友達だと思って遠慮せずに聞きますけど、先生っていくつなんですか?」


 とうとう、ずっと気になっていたことを聞いてしまった。答えに期待して、思わず前のめりになってしまう。見た目通りなのか!? それとも思ったより歳がいっているのか!? 頭の中でドロドロドロドロ……とドラムロールの音がする。


「ふふふ、それはご想像にお任せするよ」


 …………バーン。ずっこけた。


「教えてくれないんですか!!」


「まあ、またの機会に」


「ええー……」


 なぜか、そこは笑ってごまかされてしまった。なぜだろう。もしや。……とんでもない年齢なのか? まさかな。


 最後まで明かりをつけることもないまま交わされた会話。なんだか修学旅行のとき、消灯後の暗い部屋でコソコソと話したのが楽しかったことを思い出した。……いや、今回の相手はまさかの学校の先生だけど。こんなことあるんだな。


 先生と俺は、「おやすみなさい」と挨拶をして、互いの布団の中に戻った。


 早く寝なければ、明日の授業に響いてしまうなと、寝付きやすい姿勢を探し何度か寝返りする。今日は目まぐるしかったのですっかり忘れていたが、まだ月曜……いや、日付が変わってしまっているので火曜なのだ。


 ……まだと決まったわけではない。そもそも、根拠なんかどこにもないじゃないか。大丈夫だ。気のせいだ。再び現れた影を押さえるように、何度も何度も自分に言い聞かせた。


『たったひとりだけど、ひとりぼっちではない』


 先生が言った言葉が、まるで呪文のように優しく頭の中で響いた。不思議なことに、ざわついた心が凪いでいく。安心して目を閉じる。


 そのまま眠りに落ちるまでに、そう時間はかからなかった。

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