第3章・

第31話 休日の朝・1

 今日は土曜日。入学して初めての休日だ。


 俺は六時十五分に起き、顔を洗って歯を磨く。外出用にと新しく買った私服を物入れから取り出して着た。自分用の洗濯カゴに脱いだパジャマを入れて、今日はいつ洗濯をしようかと思案する。


 いつもの時間に起きたのは、学校が休みの日でも朝食の時間に変わりはないからだ。ここにいる限りは規則正しい生活が求められる。というわけで、今から朝寝坊の紺野先生を叩き起こすことにしよう。


 隣室のベッドの上にある布団の塊を見つめた。結局、昨日もそうだったし、三日目の朝もこうとなれば……残念ながらこれが三年間の習慣になるのはほぼ確実だろうな。


 俺は先生のベッドの横に立ち、小さく頷く。カーテンを開け放ち、布団を遠慮なくひっぺがした。


「せーんーせーいー! 朝ですよ!」


「……んん、香坂くん、これ以上はダメだよ、僕たちは……生徒と先生……んん」


 返ってきたのは、なんだか妙に艶のある声色で発せられた寝言セリフ。いったいどういう設定のどんな夢を見ているんだ!? 衝撃のあまり、布団を持ったまま凍りついた。


 ……確かに紺野先生は綺麗な顔面をしているうえに、優しくてとても素敵な人だとは思う。それに俺は、男性にして魔術の先生である先生を心の底から慕っているけれど、断じてそういう意味でではないぞ!


 なんだろう、怖いな……あんまり知りたくない。なかなか動悸がおさまらない胸を押さえた。ちなみに俺の動揺なんか知るよしもないベッドの上の人は、横向き寝の状態でくるりと丸まっていて、まるで巨大な赤ちゃんのようだ。


 布団をすっかり剥がされているというのに、すやすやと寝息を立てている。その目はしっかりと閉じられていて、未だ深い眠りの中にいるのは明らか。俺だったら布団を剥がされた瞬間、飛び起きるに違いないのに、先生はすごいな。


 変なところに感心しながら、気を取り直してその身体を揺さぶってみる。大変申し訳ないことだが、俺はひとりで食堂のある女子寮に立ち入ることを許されていない。先生に起きてもらえないと、朝食にありつけないのだ。


「せ、先生。起きてください」


「んん? あれ? 今日は土曜日……」


 先生はようやく起き上がりこちらを向いたが、焦点が定まっていなさそうだ。


「おはよう、香坂くん。そうか、当分は朝寝坊はできないわけだね」


「俺のせいで、なんかすみません先生」


 ここは東都魔術高等専門学校の『男子寮』。もう細かい説明は省くが、ここの住人は二人だけ。


 まず、たった一人の男子学生であるこの俺、香坂環。


 そして目の前でその端正な顔に似合わぬ大きなあくびをしている、俺のルームメイト兼、寮監の紺野燈先生だ。


「うう、いいんだよ香坂くん。僕はこれを機に生活習慣を改めなければね……」


 先生はゆるゆると着替えをしながら、ぼやくように言う。学生の俺は寮の規則に従って、午後十一時には部屋の電気を消して布団に入る。しかし、先生にはそれは関係なく部屋を仕切るふすまを閉じた状態で、深夜も動き回っているようなのだ。果たして、昨日は何時まで起きていたんだろうか。


 ……今日はいつものコーヒーをガブガブと飲んだところで今ひとつ目が覚めきらない様子の先生を、半ば引きずるようにして男子寮を出た。


 午前六時五十五分、玄関を出ると朝日がとても眩しく、見上げれば澄んだ青空が広がっている。今日もとてもいい天気だ。


 今朝も寮の食堂にたどり着き、いつもの手続きを経て朝食を受け取る。木曜日以来の洋食で、今朝はメインはベーコンエッグ、スープはコーンスープ。せっかくなので前とは違うパンを選んでから、先生といつもの隅の席に向かい合わせに座り、手を合わせて食べ始めた。


 今日も朝日が降り注ぐ明るい食堂。ただ、いつもより人は少ない。本城さんも食堂にいて、いつも座っている席で朝食を摂っていた。こちらに気づいて小さく手を振ってくれたので、俺もそれに応える。


 そういえば、どうして一人なんだろう。森戸さんと一緒じゃないのか……そうだ、彼女は昨日の夜のうちに実家に帰ると言っていた。実家までは電車で1時間ほどらしいので、週末のたびに帰るつもりだと言っていたな。食堂に人が少ないのも、同じように帰省している学生が多いということだろう。


 さて、本城さんは何というか。今日は休日だからなのか、夕食の時に見かけたことのあるシンプルな私服とは違う……要するになんだ。


 ちょっと、いやかなり、可愛い服だ。肩にリボンがついている白のブラウスに……昨日、休みはどうするのか聞きそびれてしまったが、もしかしたら彼女もどこかに出かけるつもりなのかもしれない。


 ここで、要らぬ雑念が渦を巻き始めたので、意識をなんとか目の前に置いた朝食に戻した。集中して、一口一口食べ進める。


 さて。この学校の女子制服のスカートは、他の学校ではあまり見ることない、膝を隠し、すねの真ん中あたりまであるかなり丈の長いものだ。正式な名前がわからないが、布をたくさん使っているふんわりとしたスカート。ケープが付いている独特の形のジャケットと合わせて、これもいわゆる魔術師お決まりの服装というやつだ。


 ちなみに、数年前にスラックスも追加されたらしく、森戸さんはそちらを選んでいる。そして体育の時も、今の時期はみんな長いズボンを履くので……要するに俺が何が言いたいかというと。


 ……再びこそっと本城さんに目を向ける。


 今、本城さんが履いている、膝上丈の、スカート? いや、ショートパンツか? もはやどっちでもいい。そこから伸びているのは、いわゆる生足というやつだ。それと襟のないブラウスからしっかりと露出された首筋に、思わず目がいってしまう。


 それは、俺にとってはあまりにも目に毒……いや、眩しかった。


 あ、あんなに丈の短いものを履いて、襟ぐりが開いた可愛い服を着ているんだ。その、デートだったら……いやいやいや、だからなんだって言うんだ。もう高校生なんだ。お付き合いをしている人がいても別におかしくないだろう。


 そもそも本城さんが誰と付き合って、どこに行こうが俺には微塵も関係ないじゃないか!! それに女の子の素肌をじろじろ見るなんて、俺はなんて失礼なやつなんだ! 破廉恥はれんちだ!


 そう自分に言い聞かせても、胸の底からモヤモヤとしたものが湧き上がってくる。鼓動が速くなっているので血の巡りもよく……だめだ、これ以上何かを考えてはいけない! パンを口に入るだけ詰め込んだ。


「え、突然どうしたんだい!?」


「ふごっ」


 後先考えずにパンを口に詰めたせいで、鼻が間抜けな音を立てた。突然の奇行に紺野先生が目を白黒させているが、こっちは頭の中も胸の中も緊急事態だし、当たり前だがこの状態では何も話すことができない。


 頭に浮かんだ妄想をつぶすように、おのれの唾液だけを頼りにひたすらパンを噛み続けた。すべて飲み込んで本城さんが座っていたあたりを見たがすでに姿が見えない。少し安心した。


「香坂くん、大丈夫かい? そんなに慌てなくても時間はたっぷりあるよ」


「だ、大丈夫です。ちょ、ちょっと。こっちの話というか」


 牛乳を一気に飲み干す。ようやく落ち着きを取り戻し、食器を返却してから食堂を後にした。


 昨夜は気がつかなかったが、寮の廊下、割れたガラスは全て元どおりになっているようだ。綺麗になったガラス窓の向こうには、三寮の前を繋ぐように整備された庭園が見えた。花壇には色とりどりの花が揺れている。


 花壇の間にいくつか置かれたベンチに腰掛けて、学生が談笑しているのも見える。そうか、仮に寮が別々でも、ここでこうやって友人などと交流を持つこともできるわけだ。


 ふと、本城さんとあそこに並ぶ自分を想像してしまい、再び鼓動が速くなってしまった。本当に、今日の俺はどうかしている。

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