第26話 五時間目_飛ぶ
森戸さんは意外と走るのが速く、俺が追いつく前に鬱蒼とした林に入っていってしまった。
待てよ。これ、さっき鍵かかってたところじゃないか?
林を囲うようにフェンス、そして観音開きの門。さっき通りがかった時には確かに施錠されていたはずなのに、なぜか片側だけ開いている。
先生には脇道には入るなと言われているし、仮に鍵が開いていたとしても、入ってはいけないことは見た目からわかるとは思う。なのにどうして!? 彼女を止めるために俺も後に続く。
それに森戸さん、さっきから様子がおかしい。俺にあんなことを聞いて、そのうえ突然逃げ出したりして。しばらく林を進み、その背中を視界に捉えた。
『危険・関係者以外立ち入り禁止』
ふと、こんな立て看板が目に入る。おい、これ以上進んだらまずいのでは? 出来るだけ声を張り上げた。
「森戸さん! なんで逃げるんだ!?」
「本当になんでもないの! 本当に誤解だから!」
「いや、だから何が!? これ以上行ったらまずいって!」
全く噛み合わないやりとり。しびれを切らしたその時、森戸さんの身体が小さな悲鳴と共に、前方に傾いだ。
俺は競技での成績はパッとしなかったはいえ、元陸上部の短距離の選手だ。瞬発力には、少しだけ自信がある。
とっさに加速し、森戸さんの手はうまく掴んだ。しかし、なんと俺までが向こう側に引きずり込まれる。
「うわっ!?」
思わず大声が出る。なぜか森戸さんが空中に放り出されようとしている。単に転びそうになっただけだと思っていた俺は、目の前の光景に震え上がった。
なぜか、向こう側の地面がない。そうだ、これは、崖だ。
断面がきれいすぎる。実習目的で人工的に作られたものかもしれない。手前にも奥にも木が生い茂っているため、崖には全く見えなかったのだ。
このまま俺が踏み止まれなければ何が起こるかというと、二人して下に落ちて、まとめて地面に叩きつけられてしまう。崖は結構な高さで、死にはしなくても大ケガは免れないだろう。
森戸さんを落としてたまるかと、決死の思いで踏ん張り、自分の方に引き寄せた。でも……足場が悪すぎる!
だめだ、落ちる。
こんな状況だというのに、なぜか頭の芯は妙に冷えていた。そこにふわりとひとつの考えが浮かぶ。
一昨日みたいに、とっさに魔術を編んで物体を浮かせられるなら。人間だって行けるのでは? いや、ふわりと身体が宙に浮く感覚は、なぜか身に覚えがある。
『すごいなあ。空を飛べるなんて、めぐるは間違いなく天才だ』
そうだ、俺は
なんとか森戸さんだけでも助けられればそれでいい。俺は身体が丈夫だから、少々ケガをしても大丈夫だ。
決心すると、息を一気に吸って、止めた。
目を閉じ魔力を練りながら、森戸さんの身体を自分の胸にさらに引き寄せた。腕を回せば当然抱きしめている格好になったので、悲鳴を上げられたが構わなかった。
出来るだけ身体を寄せて、ひとかたまりになる方がその操作はしやすいと、何となくわかっていたからだ。
……頭の中で空を飛ぶ自分を思い描けた。行ける。
「飛べ」
目を開き、小さく口にした刹那、地面すれすれで俺たちは止まった。まるで何かに受け止められたかのように。
止まった! 安堵した次の瞬間、バウンドしたボールのように、俺と森戸さんの身体はポーンと宙に飛んだ。
「わあああああ!!」
「きゃああああ!!」
激しく木々が揺れる音とともに、木の枝が全身に擦れて当たったが、痛みを感じる余裕すらなかった。風圧で目を開けていられないし、とにかく腕の中にいる人に傷をつけてはいけないと必死だった。どうしてこんなことに!?
……そうか、『飛べ』って言ったもんな、俺。
とにかく、魔術の発動がギリギリ間に合ったようだ。そして、上昇が止まり、広いところに出たようだ。確認したくてもまぶたが張り付いて開かない。頭の中をぐるぐると混ぜられたような感覚がする。
今はおそらく、木の高さを超えたところで空中に止まっているはずだ。とりあえず魔術は成功したから、とにかく目を開かなければ……まぶたに思いっきり力を入れる。妙に、眩しい。
「え…………はぁ!?」
間抜けな声が出た。眼前に広がる景色に心臓が一瞬高く打ち、血の気が一気に引いた。
………………高い!!
高さはせいぜい木の上くらいだろうと思っていたのに、足元にはまるで上空からドローン撮影した映像のような景色が。
俺たちは、とんでもない高さに浮かんでいた。
国立東都魔術高等専門学校の緑に囲まれた広大な敷地を端まで見渡せる位置……いや、それどころか街の方までよく見えて……。
別に高所恐怖症というわけではないのに、肝がきんと冷える。もちろんこんなにぶっ飛ばすつもりなんかなかったのに。あまりのことに、心臓の大暴れがおさまらない。
目線をおそるおそる動かす。向こうの方には先ほど見つけた妙に高い塔の最上部……さらに目をぎゅっと細めると、そこには何人かの制服姿の学生が。しかも、こちらを指差して大騒ぎしているのが、なんとなくわかる。
……これって、見られているよな。
このあと、どうなるのだろう。スキャンダルのようなことにならなければいいが……さまざまな可能性が頭をよぎり、顔が勝手にひきつった。
「ちょっと……何が起こってるの?」
やっと腕の中で震えていた森戸さんが目を開いた。
状況が全く飲み込めていないといった感じに目をパチパチと瞬かせ、それから俺の顔を見て、首を左右に振り、足をパタパタと動かす。
そこで彼女は、自分の状況……なぜか空中に浮いている上に、俺にしっかりと抱きしめられていることに気がついたようで。
「えっ!? ちょっと!? なに!? やめて、離して!!」
「ごめんごめんごめん!! わかってるから! すぐに降りるから待って!」
訴えも虚しく、森戸さんは大暴れした。ここは落ちたら間違いなく即死するであろう高さ。しかしそんなことは関係ないと言わんばかりに。
痩せていてしかも小柄なのに、俺から逃れようと必死な彼女は信じられないほど力が強い。こちらもだんだん熱がこもってくる。
「今、身体が離れたらどうしたらいいのか分からなくなるから! 絶対落ちるから! 死ぬから!」
「だから私じゃないの! 誤解なの! 今すぐ離して!!」
「なんだよそれ!? ごめん! 絶ッ対に離せない!」
それでも彼女は叫びながら抵抗をやめない……たいへん申し訳ないと思いつつ、森戸さんの身体に回したさらに腕に強く力を込める。
もし今、身体が少しでも離れてしまったら……俺はたぶんそのまま空中に止まっていられるが、森戸さんは俺が次の手を打つまでに地面に落ちる。俺はたぶん、空中であまり急激な動きはできない。
すねをガンガンと蹴られながらもなんとか心を落ち着かせ、下へ、と念じる。身体がタンポポの綿毛のようにふわふわと下降していく。ほどなくして先ほどの崖上に着地したので、腕を緩めた瞬間。
「ああっ!?」
俺は森戸さんに突き飛ばされた。相手はいくら女の子とはいえ、渾身の力だったのだろう……よろけるくらいでは済まず、吹っ飛んで思いっきり尻もちをつく。
背骨から頭を電気でも走ったかのように痛みが通り抜け、目の前がチカチカとした。あれ、俺、今どうやって飛んだんだっけ? 記憶が飛んでしまった。
尻の痛みに呻き、ビリビリとする頭を抱えながら顔を上げた。
森戸さんは、沸騰でもしたのかというくらい真っ赤な顔。それに目の奥で、何となく憎しみの炎が燃えているような……。
「さ、最悪!!」
そう叫んだ彼女は強く咳き込んでその場に崩れ落ちた。
◆
…………おそらく、数十秒後。まあ、俺には永遠とも思えたが。
「ご、ごめんなさい……助けてくれたのに突き飛ばしたりして。ちょっと、あの、いきなりだったし、高かったから、ど、動揺してしまって」
「ああいや、えっと……その」
咳込みが止まった森戸さんは我に返ったのか、地面に額をつける勢いで何度も頭を下げてきた。その顔は茹で上がったように赤い。
ペコペコと頭を下げるたびに、後ろでまとめた髪がパタパタと跳ねるのを、呆然と眺めていた。
思いっきり打った俺の尻はいまだズキズキと痛むし、さんざん蹴られたすねもそれなりに痛い……まあ、骨が折れてなければいいか。
しかし、いくら緊急事態だったとはいえ……だ。付き合ってるわけでもない女の子を、事前説明なしにその、思いっきり抱きしめてしまったのはこちらの落ち度。ん、待てよ?
そう、俺は森戸さんを抱きしめたのだ。いったん冷静になると、手が震えてきて止まらない。男女の交際なんか経験があるわけがない。彼女の柔らかな感触とか体温とか、香りがしっかり蘇ってくる。そのせいでまたもや余計なことを想像し、身体がカッと熱くなった。
昨日、温泉の話でもちらりとその手の妄想が頭をよぎってしまったし、もうこんな男を信用してくれも何もあったものではない。
いっそ誰かこのままこの首をはねてくれとすら思った。俺もその場に正座をし地面に頭を擦り付ける。
「ごっ、ごめん! 本当にごめん!!」
「こっちこそ本当にごめんなさい」
「いや俺こそ」
…………ほっほー、ほっほほ。
鳩の独特な鳴き声が響く林の中で、俺と森戸さんの謝罪の応酬はしばらく続いた。
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