第18話 黒髪の彼女と、

「あの、おはようございます」


 挨拶の声がした方を向くと、黒髪の彼女が立っていた。声や視線に昨日の鋭さはなかったが、なんせ昨日のことがあるので緊張が走ってしまう。


 どうしよう、また刺激をしてしまったらまずい。より慎重な対応が求められそうな場面に、頭を必死で回す。彼女は早足で歩み寄ってきて、まごつく俺のすぐ前に立った。


 昨日は有無を言わせない迫力があったので気がつかなかったが、彼女は俺より頭ひとつ背が低かった。綿菓子ほどではないが、この人も小柄だったんだな……おそらく女子の中でも小さい方だと思う。


 まっすぐ俺を見上げる暗い色の目が、窓から降り注ぐ朝日を受けキラキラ光っている。まるで月夜の空みたいに綺麗だとは思ったが、すごく怖い。


「あの、また何か?」


 俺の問いに答えるように勢いよく息を吸う音、また怒鳴られるかもと息を呑んだ。


「昨日は、本当にごめんなさい。香坂くんにはきちんと入学の資格があって、決して不正などしていないと先生方に聞きました」


「えっ? あ、ああ。こちらこそ……」


 あれ? どうやら誤解は解けているらしいが、こうして素直に謝られるのは完全に想定外。動揺して挨拶を返しそびれる。そもそも女子と接することにはまだ慣れていない。


「それに、他の学生の方を助けてくれたと聞いて。そのおかげで私は誰にもけがをさせずにすみました。本当にありがとうございました」


 そのまま素早く頭を下げ、最敬礼の角度のままで動かない彼女。あたりの賑わいが一気にざわめきに変わる。


「お、おはよう。えっと、頭上げてほしい」


 そう言っても彼女はこうべを垂れたままだ。ざわめきは大きくなりばかりで、これはこれで困る。紺野先生に視線で助けを求めたが、春の日差しのように柔らかく微笑んでいるだけで微動だにしそうにない。


 どうやら、見守っているから自分でなんとかしろということらしい。


「あの、誤解されるようなことを言った俺も悪かったし。人を助けたってのも、結果そうなったってだけで、あとはぶっ倒れちゃって。君は平気だった?」


「えっ?」


 彼女はやっと頭を上げたが、ぽかんとした顔。


「身体はしんどくないかなって。俺もちょっとその、色々あって。魔力が空っぽになってしんどかったから、ちょっと気になって」


 俺は昨夜、力尽きて昏倒し四時間も眠ることになってしまった。割れたガラス一枚分の破片を魔力を使って浮かせ、ほんのわずかな時間止めただけなのに。


 一方、彼女はその力で広範囲の窓ガラスを何枚も割っている。そんなにも大きなことをやってのけてしまった、彼女の身体が無事だったとは思えなかった。しかし余計なことを言ったかもしれない。キリッとした彼女の目は、瞬きを繰り返しても丸い形を崩さないからだ。


「心配してくれてたのね。私は力が特別強いらしくて、確かにあの時は苦しかったけど、止まってしまえば別に平気だったわ」


「よかった……」


「ありがとう。あなた、ご飯はここで食べるんでしょう。早くしないと時間が終わってしまうから、あとは学校で」


 微笑みを向けられて、不覚にも胸が跳ねた。


 紺野先生に会釈してから立ち去った彼女は、食堂の中ほどの席に腰掛ける。テーブルの上にはすでに朝食が載ったトレイが置いてある。食事の途中なのにわざわざ来てくれたようだった。意外と優しくていい子なのかもしれない。教室でも話しかけてみようと思う。


「香坂くん、おはよう! また後でね!」


「おはよう」


 今度は聞き覚えのある声。本城さんが食器を下げながら、こちらに手を振っている。笑顔で手を振り返した。そろそろ彼女のように食事を終え、食堂を後にする学生もちらほらいる。


「さて、話は済んだかな? オリエンテーションの時間だよ」


「お願いします」


 先生に食堂の利用の仕方に関する説明を受け、朝食を受け取った。


 今朝のメニューはコンソメスープにスクランブルエッグ、ウインナーに野菜サラダ、牛乳と二切れのオレンジ。パンは何種類かある中から、好きなだけ食べてもいいらしい。


 紺野先生ほどではないが、俺も朝からそんなに全力で食べるタイプではない。しかし、食べ放題と言われれば気持ちも弾むというもの。張り切ってパンを三つ選び取る。角の方のテーブルを選び、着席した。


 向かいにいる紺野先生は同じメニューだが、牛乳の代わりに食堂内の自販機で買ったらしい缶コーヒー、パンはひとつだけ。さっきもボトルの中身を半分ほど飲んでいたが、そんなにコーヒーばかり飲んで胃が痛まないのだろうか。


 目の前の食事に手を合わせ、食べ始める。朝日を浴びても目が覚め切らない様子の先生は気だるそうに缶を開けて、中身を一気に飲み干した。


「香坂くんはどのパンがお気に入りかな?」


「このパンが好きですね。噛むといい匂いがして、ウインナーに合います」


「バジルかパセリといったところかな? ……じゃあ、次はそれにしてみようか。僕も朝からたくさん食べられればいいんだけどね」


 緑の混ぜ物が青のりかと思って手に取ったなんて言えないな……あっという間に食事を終え、紺野先生が食べ終わるのをすこし待ってから、返却口に並んで食器を返す。


 スタッフの人に礼を言うと、それだけでなんだか一仕事終えた気分になる。


「あら紺野くん……紺野先生。おはようございます」


「ああ、おはようございます」


 声の主は、母親と同じくらいの年齢の女性。長い髪を後ろで一つに束ねていて、垂れた目元がとても優しげだ。グレーのローブに身を包んでいるということは、魔術の先生かな。


「香坂くんもおはよう。昨日は大変だったわね。身体はもう大丈夫?」


「お、おはようございます」


 昨日の記憶をたどれども、入学式で紹介された職員の中にはいなかった気がする。一年生の担当ではないのに名前を知られている……まあ、男子学生はひとりしかいないんだから当然かもしれないが。


「香坂くん、こちらは専科担当の銀川先生。えっとね、この雪寮の担当でもあって」


 紺野先生の紹介を受け、背筋が伸びる。この寮の担当ということは、昨日の騒ぎの後始末をしてくれた可能性が高い……失礼があってはいけない。


「……平気です。昨日はご迷惑をおかけしてすみません」


 勢いをつけ一礼すると、銀川先生は目を丸め、胸の前で手を振った。こんな仕草をされるとなんだか先生というより、近所のおばちゃんみたいだ。


「あらあら、かしこまらなくて大丈夫よー。あのね私、実はお母さんの一年後輩なの。学生の時はとても良くしてもらってね」


「あ、母の……ああっ! これからお世話になります」


「あらまあ、随分としっかりしてる。ほんとお母さんそっくりよねえ……懐かしくなっちゃった」


「え、どこがですか?」


 銀川先生がくすくすと笑うので、反応に困ってしまう。母親に似ていると言われたのは初めてだ。


 顔はあまり似ていない。性別が違うから当たり前だが、背格好も全く違う。性格も……母親は仕事の時以外はずっとほんわかしているが、俺もそんな風に見えるのか? あいにく自分ではよくわからない。


「うーん、雰囲気かしら。あと、お母さんは魔術の天才すぎて誰もついていけなかったんだけど、君もそれに近そう。将来が楽しみね」


「あ、はい……ありがとうございます」


 魔術の腕は確からしいとはいえ、買い物に行けば必ず一つか二つ何かを買い忘れ、『私、何しようとしてたんだっけ?』が口癖なのに、天才とはなんだかしっくりこないな。もしかして、爪を隠されていたのだろうか。そういえば、俺は母親のことをよく知っているようで、あまり知らない気がする。


「ああ、そうだ。早く戻らないと遅刻するわ。ふたりとも足止めしてごめんね」


「本当ですね! 香坂くん、早く戻ろう」


 銀川先生に言われ、腕時計を確認した紺野先生が声を上げる。親元を離れて間もなく丸一日。無事に初めての朝を迎えられたことにホッとしながら……紺野先生と並んで学生寮を飛び出し、朝日輝る道を駆けた。

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