第13話 眠りと目覚め

 俺は、空中でキラキラと瞬くガラスの破片をぼんやりと見つめていた。


 喧騒はどこか遠く感じ、時が止まってしまったかのように、人も物も何もかもがその場から動かない。


 けれど照明が明滅しているので、別に時間が止まったわけではないことがわかる。


 は俺がやっていることだ。ガラスの破片が落ちないで欲しいと願い、それが叶っている。


「……魔術……なのか?」


 ほとんどため息のような声しか出ない。身体に大きな穴でも開いてしまったかのように、どんどん力が抜けていく。初めての感覚だった。


 正直、自分でも何をどうしているのか説明ができない。学校には今朝入ったばかり、まだ何も習っていないのだから、魔術の使い方なんか知らないはずなのに。


 それなのに、どうして俺はんだ?


 視界が一瞬揺れ、崩れそうになった足を踏ん張った。なんとも説明しがたいが、空腹のまま限界まで走った後のような疲労感に襲われる。手足の感覚が静かに消えていき、気を抜いてしまえば今にも倒れてしまいそうだ。


「ほ、本城さん、早く逃げろ。もう、限界」


「香坂くん!?」


 これだけを、やっとの思いで絞り出した。本城さんがこちらに駆け寄ってくる。


 呆気に取られていたままだった他の学生たち、紺野先生も動き出した。どうかみんなが逃げられるまではこのままでと、宙に向かって必死で願い続ける。


 目の前が徐々に暗く、全ての音がどこか遠くなっていく。


 とうとう立っていられなくなり、そのまま床に崩れ落ちてしまう。ガラスの雨が降る音が遠くに聞こえたのを最後に、聴覚が閉じた。


 周りを取り囲まれたことだけは気配でなんとなく感じ取った。


 しかし、俺は暗く静かな世界の中にいる。床の冷たさだけが身体にはっきりと染み込んできた。


『上手にできたな、めぐる』


 頭の中で声がする。


 小さな子供の頃、いつもこんなふうに褒められて、頭を撫でられていた。大切な思い出のはずだったのに、どうして今まで忘れていたんだろうか。


「上手に、できたのかな。ぼくは……」


 誰にとなくつぶやいたが、返事が聞こえるはずもない。でも今は、誰かに抱きしめられているかのように温かかった。


 懐かしくて幸せな感覚に包まれながら、眠りに転がり落ちていった。



 ◆



 あれ? ここ、どこだ? 知らない場所の匂いがする。


 まぶたを持ち上げると、薄暗くて静かな部屋。俺は布団をかけられてベッドの中にいた。


「香坂くん?」


 名前を呼ばれると、徐々に焦点が合ってくる。お母さん? じゃない。これは男性の声だ。


 俺の家族に男性はいないはずなのにどうして。頭の中にもやもやとした霧がかかったようになっていて、なかなか晴れてくれない。


「ああ、香坂くん。気がついたんだね」


 この人、誰だっけ? 呼びかけに答えたくても身体が鉛のように重く、ゆっくりとしか起きられない。いつもの何倍も時間をかけて、やっと上半身を起こす。


「まだ無理に起きないほうがいいけど、お腹が空いたり喉が乾いてるならこの限りではないかな。身体が欲しているものを補給したほうが、魔力の回復も早いというからね」


 ああ、この夕焼けみたいな色の瞳は。


 思い出した。この人は紺野燈先生。今日から俺のルームメイトになった人だ。


 魔術学校に入るために親元を離れたことを少しずつ思い出しながら、がんがんと痛み始めた頭を押さえた。


「すみません今、何時ですか?」


「夜の十一時ちょっと過ぎだよ」


「……お腹、空きました」


「だろうね。まだまだ育ち盛りだし、一食抜いてしまうのは一大事だ。君の分の夕食は包んでもらったから、準備してこよう」


 いや、自分でやらないと。


 痛む頭を片手で支えつつ、台所に向かった紺野先生を追おうとしたが、足に力が入らない。


「すみません、今ちょっと立てそうになく……」


「そんな。僕がやるから、まだ横になっててもいいからね」


「ありがとうございます……」


 ここは先生に甘えることにして、再びベッドに転がった。天井を眺めながら、先ほどのことを思い出そうとする。


 黒髪の子を怒らせて、大騒ぎになってしまった。割れガラスから本城さんを守りたいと思ったら、なぜかまだ知らないはずの魔術を使えた。


 俺を導いた声の主、あれは誰なのか。聞き覚えがあるような、ないような。


 ただひとつわかるのは、あれが自分の大切な人だということ。


 何かを思い出せそうになった瞬間、鋭い痛みが脳を刺す。すると、どんな声だったのか、何を言われたのかも全く思い出せなくなった。


 いや。そもそも俺は何を思い出そうとしていたのか。


 ものすごく気持ちが悪い。生まれて初めて経験する頭痛に奥歯を噛んだ。まだ頭が混乱しているようだ。深く息を吐いてから、目を閉じる。


 そこで電子レンジがチン、と音を立てた。ふわりと美味しそうな匂いが漂ってくる。今日の夕食はなんだったのだろう……腹の虫が大きな声で鳴いた。


「気をつけて温めたけど、冷たかったらごめんよ。今まで使っていたものとは違うから、コツが掴めなくて。あと揚げ物はレンジだと今ひとつだけど、今日のところは辛抱してくれるかな?」


 先生が、机の上に夕食を並べてくれた。念のために先生の肩を借りてベッドから降りる。机までたどり着くと椅子を引いてくれたので、頭を下げて座った。


 ご飯と味噌汁、おそらくチキンカツと思われるものに付け合わせのキャベツとトマト。きんぴらごぼうとポテトサラダが盛り付けられた小鉢。そして、ちゃんと箸置きに置かれた箸。


 学校の食堂のもの、と言うよりもまるで外食に出て定食でも頼んだみたいだ。


 台所にいったん戻った先生は、ボトルのコーヒーを片手に自分の椅子を俺の部屋に持ってきて、俺の横に座る。


「おいしそうです。なんか定食屋さんでも行ったみたいです」


「あはは。その通り。ここの食堂のご飯は味も見た目も最高だから、少しでも再現できたらと思ってね。明日はあっちで出来たてを食べよう」


 先生は抱えたボトルを揺らしながら得意げに笑った。折にでもに詰められていたものを、わざわざ皿に盛り付け直してくれたということだ。


 やっぱり先生は見た目がかっこいいだけではないらしい。


「すみません、ありがとうございます」


「どういたしまして。さあ、冷めないうちに早く食べてね」


「いただきます」


 今日はより感謝しないといけないな。


 しっかりと手を合わせてから、箸をつけようとしたところで、あることを思い出した。

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